新S 著者に聞く <『利休にたずねよ』 山本兼一さん>
今年、第140回直木賞を受賞した『利休にたずねよ』の著者、山本兼一さんに、利休をテーマにした狙いや作品へのこだわりなどをお聞きしました。
――『利休にたずねよ』は月刊『歴史街道』で2006年7月号から08年6月号まで連載されたものですね。利休については『秀吉と利休』(野上弥生子著)、『千利休とその妻たち』(三浦綾子著)などが思い浮かびますが、『利休にたずねよ』は着眼点がよく、何よりも斬新でした。利休が秀吉にうとまれて京都・聚楽第の利休屋敷で切腹したのは1591年(天正19)2月28日。切腹したその日から、時間をさかのぼって51年前の10代後半までの利休を描いています。なぜ、利休をテーマにしたのですか?
◆「情熱家」の利休を書きたかった
ぼく自身が利休の菩提寺である京都・大徳寺のそばで生まれ育ったんです。ですから、利休はずっと気になる存在でしたし、日本史上に燦然と輝く美の巨人なので、いつか書いてみたいという気持ちがありました。これまで書かれた利休のどの作品にも納得できなかったんですよ。利休は世間的には「枯れた人」という印象がありますが、ぼくは違うと思った。“ぎらり”としたものを内に秘めた情熱家ではないかと考えていたので、そんな利休を書いてみたかったんです。
――読み始めて心を鷲づかみにされたのは、高麗から連れてこられた上品で美しい女性の存在です。千家の納屋に監禁されてしまったその女性を逃すために、利休は奔走します。この女性が物語の核となっていますね。
◆利休の情熱の源は「恋」ではないか
利休の茶室や、茶の湯でいただく懐石料理には韓国の影響が見られるという人がいます。それでは、一体、どういう形で影響を受けたのかとなると、何の記録もないんですよ。そこで、利休には、妻の宗恩のほかに茶の湯の根源を形作るのに影響を与えた女性がいたのではないか、と。利休の情熱の源泉は「恋」ではないか、と思ったんです。利休はすさまじい恋をしたであろうと設定したわけです。韓国からの影響と利休の周りにいる女性とが重なって生まれたのが高麗の女性だったんです。
――利休を取り巻く人物も、秀吉はもちろんですが、細川忠興、古溪宗陳、古田織部、徳川家康、石田三成、宗恩など色分けが鮮明ですね?
◆構想2年、楽しんで書いた
年表を作って、誰が利休に影響を与えたのかを考えたんです。それと、利休がその時代にどう関わったのかを洗い出し、書ける人物を選びました。周辺にいる人物が利休をどう思っているのか、利休を真ん中に置くことで利休を信奉している人物、対峙している秀吉、憎んでいる石田三成などを色分けしたんです。ぼくはストーリーを最後まで決めてから書くので、次に何がくるのか分かっている。あとは人物の気持ちをどう表現するかの問題になります。もちろん、途中で面白いものがあればどんどん取り入れていく。『利休にたずねよ』の構想期間は2年。ぼくとしては短いほうです。楽しんで書けました。
――利休のような夫だと妻は苦労しますね?
◆亭主にはしたくない?
もし、ぼくが女性だったら亭主にしたくないですね(笑)。妻の宗恩も苦労していますからね。お茶が好きという女性でも、利休の奥さんになりたいかと聞かれれば、尻込みすると思います。利休は巨人ですが、夫として素晴らしいかとなるとこれは全然、別な話です。家の中に利休みたいな厳格な人がいたら肩が凝るでしょうね。利休が今の時代に生きていたら政治家ではなく、イベントプロデューサーやコーディネーターなどをやらせたら面白いでしょうね。デザイナーもいいかも知れません。すさまじいものをつくるのではないでしょうか。
――直木賞を受賞して生活は変わりましたか?
◆忙しくなって、原稿を書く時間が…
エッセイ、対談などの依頼もいただくようになり、忙しくなりました。こういったインタビューの取材も増えましたね。おかげで原稿を書く時間が削られてしまって…。家内などは近所の顔見知りから祝福の声を掛けられ、買い物に出掛けてもなかなか目的の店まで辿り着けなかったほどでした(笑)。受賞が決まって4か月、やっと落ち着きを取り戻しつつあります。
――これまでの作品を読むと、鷹匠のことを書いた『戦国秘録 白鷹伝』や安土城を完成させた職人親子の『火天の城』など、職人を扱った作品が多いですね。
◆むかしの職人にはブレがない
むかしの職人のことは書きやすいんですよ。なぜかというと、大工にしても鷹匠にしても自分が何者であるかなんてことは考える必要がなかったからです。いい城を造ることが大工の使命であって、腕のいい大工はいい人生を送ることができる。むかしの職人にはブレがない。だから、書きやすいんです。
――作家を志したのはいつ頃でしたか?
◆30代から歴史小説に興味を持った
10代の頃でした。20代半ばまでは純文系で小川国夫さんや島尾敏雄さんに夢中だったんです。歴史小説にはあまり興味がなかったんですけど、30代になるとスカッとするものが好みになり、司馬さんの小説を読むようになって、歴史ものが面白いと思うようになりました。それで純文系はあっさり読まなくなった。ストーリーの展開が地味で事件も起こらないので、だんだんつまらなくなったんです。
――気になる作家はいますか?今後、どんな小説を書いていきたいですか?
◆司馬遼太郎さんは大きな山
まずは司馬遼太郎さん。司馬さんはぼくにとっては大きな山です。その山をどう回避していくか。司馬さんと同じフィールドに立つのは無理なので違うフィールドで闘っていかなければいけない。あとは、藤沢周平さんですね。藤沢さんの作品は市井の人物を主人公に据えて、人情の機微だけで読ませる。まさに、職人芸、天才的な技です。ぼくは道具を取り入れないと書けない。刀などの道具があることで作品が成り立ってくる。藤沢さんに対抗するのは大変なことだと思いますね。
どんな小説を書いていきたいかといえば、時代小説のなかに冒険小説の要素を取り込んだようなものを書いてみたいですね。時代小説にはまだまだ可能性があると思います。司馬さんは確かにひとつのスタイルを作りましたが、もっと違うスタイルがあってもいい。つくづく司馬さんと同世代でなくてよかったと思います。30年、40年あとに書ける幸せというものがありますよ。
――これからも斬新な作品を楽しみにしています。ありがとうございました。
【プロフィール&近況】
山本兼一(やまもと・けんいち) 1956年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業(美学及芸術学専攻)。出版社勤務後、30歳でフリーランスライターに。99年、『弾正の鷹』で小説NON短編時代小説賞佳作。2002年、『戦国秘録 白鷹伝』で長編デビュー。04年、『火天の城』で第11回松本清張賞を受賞。09年『利休にたずねよ』で第140回直木賞受賞。今年7月にポルトガル人を主人公にした『ジパング島発見記』を刊行予定。『火天の城』は映画化され9月に公開。
※ 京都・鴨川の散歩、居合、さらには火縄銃が趣味という山本さん。「年に数回、和歌山の射撃場まで出掛けて行って、火縄銃を撃つんですよ」
今年、第140回直木賞を受賞した『利休にたずねよ』の著者、山本兼一さんに、利休をテーマにした狙いや作品へのこだわりなどをお聞きしました。
――『利休にたずねよ』は月刊『歴史街道』で2006年7月号から08年6月号まで連載されたものですね。利休については『秀吉と利休』(野上弥生子著)、『千利休とその妻たち』(三浦綾子著)などが思い浮かびますが、『利休にたずねよ』は着眼点がよく、何よりも斬新でした。利休が秀吉にうとまれて京都・聚楽第の利休屋敷で切腹したのは1591年(天正19)2月28日。切腹したその日から、時間をさかのぼって51年前の10代後半までの利休を描いています。なぜ、利休をテーマにしたのですか?
◆「情熱家」の利休を書きたかった
ぼく自身が利休の菩提寺である京都・大徳寺のそばで生まれ育ったんです。ですから、利休はずっと気になる存在でしたし、日本史上に燦然と輝く美の巨人なので、いつか書いてみたいという気持ちがありました。これまで書かれた利休のどの作品にも納得できなかったんですよ。利休は世間的には「枯れた人」という印象がありますが、ぼくは違うと思った。“ぎらり”としたものを内に秘めた情熱家ではないかと考えていたので、そんな利休を書いてみたかったんです。
――読み始めて心を鷲づかみにされたのは、高麗から連れてこられた上品で美しい女性の存在です。千家の納屋に監禁されてしまったその女性を逃すために、利休は奔走します。この女性が物語の核となっていますね。
◆利休の情熱の源は「恋」ではないか
利休の茶室や、茶の湯でいただく懐石料理には韓国の影響が見られるという人がいます。それでは、一体、どういう形で影響を受けたのかとなると、何の記録もないんですよ。そこで、利休には、妻の宗恩のほかに茶の湯の根源を形作るのに影響を与えた女性がいたのではないか、と。利休の情熱の源泉は「恋」ではないか、と思ったんです。利休はすさまじい恋をしたであろうと設定したわけです。韓国からの影響と利休の周りにいる女性とが重なって生まれたのが高麗の女性だったんです。
――利休を取り巻く人物も、秀吉はもちろんですが、細川忠興、古溪宗陳、古田織部、徳川家康、石田三成、宗恩など色分けが鮮明ですね?
◆構想2年、楽しんで書いた
年表を作って、誰が利休に影響を与えたのかを考えたんです。それと、利休がその時代にどう関わったのかを洗い出し、書ける人物を選びました。周辺にいる人物が利休をどう思っているのか、利休を真ん中に置くことで利休を信奉している人物、対峙している秀吉、憎んでいる石田三成などを色分けしたんです。ぼくはストーリーを最後まで決めてから書くので、次に何がくるのか分かっている。あとは人物の気持ちをどう表現するかの問題になります。もちろん、途中で面白いものがあればどんどん取り入れていく。『利休にたずねよ』の構想期間は2年。ぼくとしては短いほうです。楽しんで書けました。
――利休のような夫だと妻は苦労しますね?
◆亭主にはしたくない?
もし、ぼくが女性だったら亭主にしたくないですね(笑)。妻の宗恩も苦労していますからね。お茶が好きという女性でも、利休の奥さんになりたいかと聞かれれば、尻込みすると思います。利休は巨人ですが、夫として素晴らしいかとなるとこれは全然、別な話です。家の中に利休みたいな厳格な人がいたら肩が凝るでしょうね。利休が今の時代に生きていたら政治家ではなく、イベントプロデューサーやコーディネーターなどをやらせたら面白いでしょうね。デザイナーもいいかも知れません。すさまじいものをつくるのではないでしょうか。
――直木賞を受賞して生活は変わりましたか?
◆忙しくなって、原稿を書く時間が…
エッセイ、対談などの依頼もいただくようになり、忙しくなりました。こういったインタビューの取材も増えましたね。おかげで原稿を書く時間が削られてしまって…。家内などは近所の顔見知りから祝福の声を掛けられ、買い物に出掛けてもなかなか目的の店まで辿り着けなかったほどでした(笑)。受賞が決まって4か月、やっと落ち着きを取り戻しつつあります。
――これまでの作品を読むと、鷹匠のことを書いた『戦国秘録 白鷹伝』や安土城を完成させた職人親子の『火天の城』など、職人を扱った作品が多いですね。
◆むかしの職人にはブレがない
むかしの職人のことは書きやすいんですよ。なぜかというと、大工にしても鷹匠にしても自分が何者であるかなんてことは考える必要がなかったからです。いい城を造ることが大工の使命であって、腕のいい大工はいい人生を送ることができる。むかしの職人にはブレがない。だから、書きやすいんです。
――作家を志したのはいつ頃でしたか?
◆30代から歴史小説に興味を持った
10代の頃でした。20代半ばまでは純文系で小川国夫さんや島尾敏雄さんに夢中だったんです。歴史小説にはあまり興味がなかったんですけど、30代になるとスカッとするものが好みになり、司馬さんの小説を読むようになって、歴史ものが面白いと思うようになりました。それで純文系はあっさり読まなくなった。ストーリーの展開が地味で事件も起こらないので、だんだんつまらなくなったんです。
――気になる作家はいますか?今後、どんな小説を書いていきたいですか?
◆司馬遼太郎さんは大きな山
まずは司馬遼太郎さん。司馬さんはぼくにとっては大きな山です。その山をどう回避していくか。司馬さんと同じフィールドに立つのは無理なので違うフィールドで闘っていかなければいけない。あとは、藤沢周平さんですね。藤沢さんの作品は市井の人物を主人公に据えて、人情の機微だけで読ませる。まさに、職人芸、天才的な技です。ぼくは道具を取り入れないと書けない。刀などの道具があることで作品が成り立ってくる。藤沢さんに対抗するのは大変なことだと思いますね。
どんな小説を書いていきたいかといえば、時代小説のなかに冒険小説の要素を取り込んだようなものを書いてみたいですね。時代小説にはまだまだ可能性があると思います。司馬さんは確かにひとつのスタイルを作りましたが、もっと違うスタイルがあってもいい。つくづく司馬さんと同世代でなくてよかったと思います。30年、40年あとに書ける幸せというものがありますよ。
――これからも斬新な作品を楽しみにしています。ありがとうございました。
【プロフィール&近況】
山本兼一(やまもと・けんいち) 1956年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業(美学及芸術学専攻)。出版社勤務後、30歳でフリーランスライターに。99年、『弾正の鷹』で小説NON短編時代小説賞佳作。2002年、『戦国秘録 白鷹伝』で長編デビュー。04年、『火天の城』で第11回松本清張賞を受賞。09年『利休にたずねよ』で第140回直木賞受賞。今年7月にポルトガル人を主人公にした『ジパング島発見記』を刊行予定。『火天の城』は映画化され9月に公開。
※ 京都・鴨川の散歩、居合、さらには火縄銃が趣味という山本さん。「年に数回、和歌山の射撃場まで出掛けて行って、火縄銃を撃つんですよ」