裁判員裁判「司法という名のリンチ」 実は、新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです

2009-08-03 | 裁判員裁判/被害者参加/強制起訴

「司法という名のリンチ」=ジャーナリストら反対の声-東京
(時事通信社 - 08月03日 13:02)
 初の裁判員裁判を控え、市民団体「裁判員制度はいらない!大運動」は3日午前、東京都千代田区の弁護士会館で記者会見を行い、「強行しようとしていることに強く抗議する」などとする声明を朗読、改めて実施に反対の声を上げた。
 呼び掛け人でジャーナリストの斎藤貴男さんは、裁判員裁判について「司法という名のリンチになるのではないか」と懸念。これまでの裁判が真実の究明ではなく、国家の意思を示すために行われてきたと指摘し、「裁判の位置づけを変えず、市民を動員してもそれはリンチでしかない」と批判した。
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【実は、新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです=安田好弘弁護士】
 一つ理解していただきたいんですが、裁判員裁判が始まると言われていますが、実はそうではないのです。新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです。今までの裁判は、検察官、被告人・弁護人、裁判所という3当事者の構造でやってきましたし、建前上は、検察官と被告人・弁護人は対等、裁判所は中立とされてきました。しかし新しくスタートするのは、裁判所に裁判員が加わるだけでなく、検察官のところに独立した当事者として被害者が加わります。裁判員は裁判所の内部の問題ですので力関係に変化をもたらさないのですが、被害者の参加は検察官がダブルになるわけですから検察官の力がより強くなったと言っていいと思います。
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 司法、裁判というのは、いわば統治の中枢であるわけですから、そこに市民が参加していく、その市民が市民を断罪するわけですね、同僚を。そして刑罰を決めるということですから、国家権力の重要な部分、例えば死刑を前提とすると、人を殺すという国家命令を出すという役割を市民が担うことになるわけです。その中身というのは、確かに手で人は殺しませんけれど、死刑判決というのは行政府に対する殺人命令ですから、いわゆる銃の引き金を引くということになるわけです。
 今までは、裁判官というのは応募制でしたから募兵制だったんです。しかも裁判官は何時でも辞めることができるわけです。ところが来年から始まる裁判員というのは、これは拒否権がありませんし、途中で辞めることも認められていません。つまり皆兵制・徴兵制になるわけです。被告人を死刑にしたり懲役にするわけですから、つまるところ、相手を殺し、相手を監禁し、相手に苦役を課すことですから、外国の兵士を殺害し、あるいは捕まえてきて、そして収容所に入れて就役させるということ。これは、軍隊がやることと実質的に同じなわけです。
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 裁判員裁判を考える時に、裁く側ではなくて裁かれる側から裁判員裁判をもう一遍捉えてみる必要があると思うんです。被告人にとって裁判員というのは同僚ですね。同僚の前に引きずり出されるわけです。同僚の目で弾劾されるわけです。さらにそこには被害者遺族ないし被害者がいるわけです。そして、被害者遺族、被害者から鋭い目で見られるだけでなく、激しい質問を受けるわけです。そして、被害者遺族から要求つまり刑を突きつけられるわけです。被告人にとっては裁判は大変厳しい場、拷問の場にならざるを得ないわけです。法廷では、おそらく被告人は弁解することもできなくなるだろうと思います。弁解をしようものなら、被害者から厳しい反対尋問を受けるわけです。そして、さらにもっと厳しいことが起こると思います。被害者遺族は、情状証人に対しても尋問できますから、情状証人はおそらく法廷に出てきてくれないだろうと思うんです。ですから、結局被告人は自分一人だけでなおかつ沈黙したままで裁判を迎える。1日や3日で裁判が終わるわけですから、被告人にとって裁判を理解する前に裁判は終わってしまうんだろうと思います。まさに裁判は被告人にとって悪夢であるわけです。おそらく1審でほとんどの被告人は、上訴するつまり控訴することをしなくなるだろうと思います。裁判そのものに絶望し、裁判という苦痛から何としても免れるということになるのではないかと思うわけです。
 それからもう一つですけれども、従来から多数の冤罪被害者の人たちがいます。もう累々たる屍になっているだろうと思うんです。特に最近の冤罪というのは、強制的に自白させられて冤罪になるというような直接的な冤罪ではなくて、むしろ自ら積極的に認めざるを得ない、つまり屈辱的な冤罪の人たちがどんどん増えてきている。これは、ひとたび否認すれば100日200日と拘置所に入れられる。ひとたび否認すれば、反省していないということで、光市事件の彼のように一気に死刑にひっくり返る。そういう中にあって、結局認めざるを得ない。そして、そういうところで認めた人は、どういう心理状態に陥るか。自分自身を責めて生きていかざるを得ないわけです。そういう累々とした冤罪被害者の人たちは、自分が冤罪であるということさえも社会的に発言できない。悶々とした生活、情けない自分を受け入れながら生きていくだろうというふうに思うんです。
 つまり、刑事司法は従来、本当は人を生かし、自由を守り、命を守り、そして名誉と財産を守るシステムだったはずのものが、実は人を破壊し、専ら人に苦痛を与える場所というふうになっているわけです。そういうものを防ぐために、少なくとも理性と法で支配される場、少なくとも事実が公正に評価される場、人が人として評価される場でなければならないのですが、ますますそれと逆行していく。その最たるものが裁判員裁判ではないかと思うんです。

▼「国家と死刑と戦争と」安田好弘(弁護士・FORUM 90) 【1】 【2】


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