『「空気」の研究』 山本七平 文春文庫

2019-06-11 | 本/演劇…など

〈来栖の独白〉
 友人から紹介されて『「空気」の研究』を読んでいる。場の雰囲気とか情勢とかをいう「空気」について書いてあり、面白いのだが、最終章〈日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について〉が、愉快でならない。進化論をすんなり受け入れる日本人。「サルの子孫」という進化論は、「天皇=現人神」と、どのように折り合いをつけるのか。以下、部分抜粋してみたい。


「空気」の研究  山本七平 文春文庫

 p190~
 私は少々ムッとした。彼は明らかに私が進化論を全く知らず、はじめて聞く「人間の先祖はサルである説」に驚愕するであろうと思い込んでいるのである。最初のうちは「仕方がない、PW(捕虜)としてのおつきあいだ」と思っておとなしく聞いていたが、相手の教え訓すような態度が少々アタマに来て「進化論ぐらいは日本では小学校で教えてくれる。日本は進化論裁判(モンキー・トライアル)が行われたアメリカほど未開ではない」といった意味のことを言った。ところが相手は私の言葉を信用しないのである。
p 191~ (中略)
 相手は驚いたらしい。しかしこれに対する相手の反応に、今度は私が驚く番であった。「では日本人は、サルの子孫が神だと信じうるのか。おまえもそう信じているのか?」彼が、考えられないという顔付でそう言ったからである。この思いがけない質問に今度は私が絶句した。彼は、日本人はその「国定の国史教科書」によって、天皇は現人神であり、天照大神という神の直系の子孫と信じている、と思い込んでいる。確かにそう思い込ます資料が日本側にあったことは否定できない。そしてこういう教科書が存在する限り、進化論が存在するはずがない。これが彼の前提なのである。人がサルの子孫であると教えたということで裁判沙汰にまでなった国から見れば、天皇が人間宣言を出さねばならぬ国に進化論があるはずはないのである。確かにそう考えれば、進化論を教えるということは「現人神はサルの子孫」と教えることである。「人はサルの子孫」が裁判沙汰になる精神構造の国から来た者にとって、「現人神はサルの子孫」が何の抵抗もなく通用している国がありうるはずがなくて当然であろう。 結局彼は、日本では進化論は禁じられているはずだと思い込み、天皇もサルの子孫だから神ではないと論証して私を啓蒙するつもりだったらしい。ところが相手が平然とそんなことは小学生でも知っている、(p192~)と言ったため、何とも理解しかねる状態に落ち込んだわけであった。
 (略)
 そこで当然に相手の質問は「現人神と進化論がなぜ併存できるのか。進化論を説くことはなぜ不敬罪にならないのか。なぜ、もっとはげしい進化論裁判(モンキー・トライアル)が起こらないのか」ということになってきた。そうなるとこちらには何とも返事ができない。「しまった、こんな反撃を食うなら進化論裁判(モンキー・トライアル)のことなど言い出すんではなかった」と思ったがもう遅い。
p193~
 そして相手はさらに、私がこの裁判を知っているということにも興味をもち、日本人はそれをどう受け取っているかも聞きたがった。内心では、これを読んだとき「アメリカ人とは変なことをやる連中だ」と思ったことは確かだが、そんな返事をすれば、またどういう質問が来るかわからないし、第一、それに答える英語能力が私にはない。(略)
 進化論裁判(モンキー・トライアル)を、われわれは今でも、一種の嘲笑的態度か理解できないという怪訝な面持ちで聞く。だが彼らにしてみれば、現人神時代にこういった裁判がなく、平然と進化論が通用していたという状態を、理解できぬ状態とする。なぜであろうか? いわゆる先進国は一応みな脱宗教体制に入ったと言える点では共通しているが、この体制以前の状態を対比すると、そこに存在するのは全く異質の世界であることに気づくのである。簡単にいえば、日本には一神教的な神体制(セオクラシー)は存在しなかった。そしてわれわれは、先祖伝来ほぼ一貫して汎神論的世界に住んでいた。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は存在しなかった。神学まで組織神学として組織的合理的思考体系に(p194~)しないとおさまらない世界ではなかったわけである。
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「空気」の研究  山本七平


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