『死刑のある国ニッポン』 森達也・藤井誠二 著

2009-09-29 | 死刑/重刑/生命犯

今週の本棚:『死刑のある国ニッポン』=森達也、藤井誠二・著(金曜日・2100円)田中優子・評
 ◇廃止か存置か、立場の対立を超え
 映画と文筆のドキュメンタリー作家である森達也と、ノンフィクションライターの藤井誠二の、死刑をめぐる対談本である。藤井は死刑制度の存置を、森は死刑制度の廃止を主張している。死刑について本当は何が問題なのか、どういうことに焦点を当てるべきなのか、個々人がそれを考えるには最適な本だ。
 まず、対談は次のような現状をふまえておこなわれている。二〇〇七年の殺人事件の認知件数は一一九九件で、戦後最低の数になっている。件数と人口増加の関係を計算すると、一九五四年の約四分の一にまで減った。治安は悪くなっているのではなく、良くなっているのである。にもかかわらずマスコミ報道によって、人々の体感治安は悪化している。この実態の無い体感治安の悪化で、それを根拠に警察官が増員され、警察官の天下り先の防犯関係の協会や警備会社の業績が高まっている、という。
 本書でこれらの現状を読むと、犯罪はまるで商品のように利用されていることに気づく。私たちは何気なく、まるで治安が悪化しているかのような印象をもってしまうが、その詐術に意識的になる必要がある。
 もうひとつふまえておくべき現状は、先進国では次々と死刑廃止がおこなわれており、死刑が残存しているのは米国と日本だけであるという事実だ。日本では、八割強の人が死刑存置派である。これは突出している。いったいなぜなのか。この対談を俯瞰(ふかん)すると、この数字の理由は死刑の実態が見えないことであり、議論の俎上(そじょう)に上っていなかったからだ、と分かってくる。メディアに煽(あお)られて思考停止になるのは、充分な情報が無いからであろう。本書でも取り上げられ批判されているが、過去の法務大臣が口にした「死刑は日本の文化」のようなことは全くのでたらめで、政治的な言動に誤った日本文化が利用される典型例である。こういう蓄積が日本の突出した数字を生み出しているのだろう。
 対談者の森と藤井はそれぞれ、文献やメディアからではなく、犯罪被害者や加害者や関係者から直接話を聞き、その過程で自らの主張を持つに至っている。藤井は一〇〇を超える凶悪事件の犯罪被害者たちと会い、これまでの認識と議論が、加害者に偏っていた、と感じるようになる。被害者遺族に寄り添ってその本音を知るうちに、死刑は遺族にとって最終的な目的ではなく長い被害後を生きる上での途中経過であり、その途中経過として、被害者遺族の八~九割が死刑を望んでいる、という。被害者遺族の立場、という考える場所を提供したことは重要だ。
 しかしそれに対する森の批評は鋭い。簡略して言えば、被害者遺族が死刑を望むことと、その気持ちを本当には理解できない他人が死刑存置を主張するのとは別の問題だ、ということだ。廃止論者の森は、単に廃止を人権論から理屈で言っているのではない。死刑に犯罪抑止力が無いことが次第にわかってきている。その中で「僕は本当にわからない」と打ち明ける。「死ぬことを恐れていないのに死刑の意味はあるのか」「死刑は誰のためにあるのか」「何のためにあるのか」と。この疑問こそ、私たちが常に立ち返るべき拠点であろう。
 本書は立場の対立を超えて、重要な視点をいくつも提供している。メディアのありよう、被害後を生きる人々の気持ち、そして決して無くならないえん罪である。裁判員制度も、もう一度考え直したくなる。「裁判員制度導入の前に、まず裁判官を増やすべき」だという二人の主張も、注目に値する。毎日新聞2009年9月6日 東京朝刊


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