すべての罪はわが身にあり…その言葉を井上嘉浩は何度もくり返した 門田隆将著『オウム死刑囚 魂の遍歴』

2019-01-07 | オウム真理教事件

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すべての罪はわが身にあり――その言葉を嘉浩は何度もくり返した
2018年12月27日 公開
門田隆将(ノンフィクション作家)
※本稿は、門田隆将著『オウム死刑囚 魂の遍歴』(PHP研究所)より一部抜粋、編集したものです。
■井上嘉浩との面会
 2009年から2010年にかけて、私は、井上嘉浩と四度にわたって面会した。最高裁判決をはさんでのことである。
 自身の運命を決める判決を待っている時の嘉浩と、そして判決後の嘉浩――私は、そのありのままの姿に接し、彼と意見を交わすことができた。
 「もうすぐ嘉浩との面会が、家族や一部の支援者以外、できなくなります。嘉浩に会ってやってもらえませんか」
 父親からそんな声をかけてもらったのは、最高裁判決が近づいた11月半ばだった。私はその時、ハッとした。
 最高裁で仮に上告が棄却されれば、死刑確定者は「外部交通権」が制限され、家族や一部の関係者以外、面会が遮断される。
 それまで、私は、アーナンダこと井上嘉浩のことを何度も記事にしている。『週刊新潮』の特集班デスクだった頃は、ある時は、法廷での嘉浩の爆弾証言を取り上げ、またある時は、彼が獄中から両親宛てに送ってくる書簡や詩、歌などを取り上げる記事も書いている。
 父親に助力をいただき、私は、さまざまなことを取り上げてきたのだ。
 しかし、いつも法廷で彼の姿を見ている私にとって、敢えて面会をする必要もなかった。だが、父親の話を聞いて、私は、「今を逃したら、もう実際には会えなくなる」という現実に気づいたのだ。
 「是非、一緒に連れていってください」
 私は、すぐに父親にお願いをした。
 2009年11月27日、こうして私と井上嘉浩との面会は実現した。
 数多く裁判を傍聴し、そして記事も書いてきた私にとっては、嘉浩とは初対面というより、“旧知”といった感覚さえあった。
 午後1時過ぎ、6階の3番面会室に私たちが案内されると、まもなくエンジ色のジャージ姿の嘉浩が姿を現わした。
 「門田さん、わざわざ会いに来ていただいて、ありがとうございます!」
 嘉浩は、開口一番、そう言った。彼もまた、私のことを旧知の間柄であるかのように思っていてくれたのかもしれなかった。
 かつて、オウムの若き指揮官と言われた嘉浩も39歳。ほぼ1か月後には満40歳となる。
 (ああ、さすがに歳がいってきたなあ)
 私は、そう思った。法廷で見てきたより、少しだけふっくらしたように思えた。よく見ると、髪の毛も、鬢のあたりにやや白いものが混じっている。
 自身の裁判や麻原法廷のほか、多くの法廷に出て来た頃の嘉浩には、若さがあった。法廷に入る時、証言台に立つ時、あるいは法廷を出る時に、嘉浩がおこなう直角に曲げるお辞儀、いわゆる“90度の礼”は、私の中では、いつしか見慣れた光景となっていた。
 それは、本来の嘉浩の持つ誠実さが身体全体から滲み出るものだったと言っていいだろう。ただの「犯罪者」という枠では捉えにくい、井上嘉浩という人間の持つ不思議な、いわば独特の“空気”を彼はいつも漂わせていた。
 逮捕された時は25歳だった嘉浩。その後の15年を彼はこの拘置所で過ごし、身体に年輪を刻み込んできたのだ。
 拘置所から「外」へ出るのは、裁判所に出廷する時だけという生活を彼はずっと送って来た。証人として裁判に出廷する回数は、ゆうに100回を超えた。
 さすがにオウム裁判がほとんど終結して来たことで、嘉浩が裁判所に向かうこともなくなった。それと共に、私が法廷で直接、彼を見る機会もほとんど、なくなっていた。
 その意味では、“久しぶり”に会うような感覚に私は捉われていた。
 私が、最高裁判決を前に、どんな日々を送っているのかを聞くと、
 「私はオウムから脱会する過程で、チベット仏教を勉強させていただきました。これに、なぜもっと早く出会わなかったのか、と思うんです。いろいろな宗教の勉強も、ずっとしています。座禅については、今も進めさせてもらっています」
 そんな話をしたあと、被害者のことと罪の償いについて、嘉浩は語り始めた。
 「自分のやってしまったことの大きさを思い、自分にできることは一生懸命やって来ました。しかし、それでも、許せないというのが、当然だと思うんです。手紙も受け取ってくれない方もいます。その方には、もう手紙を出すこともできないし、ただ、私は、沈黙するしかないのか、とも思うことがあります。
 私がどんなに反省しても、どんなに悔いても、被害者の方の苦しみを癒すことはできないし、時間を取り戻すこともできません。でも、それをつづけるしか、私にはないんです。被害者の方に対して、もう沈黙するしかないのか、と思う時は苦しいです。私は仏教でいう“因果”を考えています。せめて過去の過ちを未来において償うことができれば、と考えています」
 特徴ある甲高い声ではあるが、それでも、できるだけ低い声で、嘉浩はそう語った。
 「私が犯した過ちは、絶対にもうしないようにして欲しいと心から願っています。私の償いのひとつとして、若い人がカルトに引きずり込まれないように、できるだけのことをしたいんです。そのために、法廷でも、また、いろんな機会を通じて、そのことを訴えました。でも、まだまだ足りないと思っています」
 嘉浩は、そう一気に語ると、
 「私には、もう時間がないんです」
 と言った。私は、2週間後に迫った最高裁判決が「死刑」、すなわち「上告棄却」であることを予想して言っているのだろうかと、ふと思った。
 「時間がありません。私には、残された時間がないんです。ダルマとは、仏教では“法”ですが、正しさそのものも表わしています。他人に温情をもって接し、温情をかけることが人間として最も優れたおこないとされることで、“温情が最高のダルマ”という言葉があります。
 私は、その温情という“絆”をオウムで切ってしまったのです。そのことが許せないし、悔やまれてなりません。私には、もう時間がない。かぎられた中であっても、できるだけのことをしたいと思っています」
 嘉浩の話や文章には、時折、宗教的な言葉が混じってくる。しかし、嘉浩の場合、何を言わんとしているのかは、素人でも、なんとなくわかるような気がしてくるから不思議だった。
 そこが、オウムの中で「井上教」とまで言われるほど、多くの信者を獲得した所以なのかもしれない。
 それからも、面会室には、さまざまな言葉が飛び交った。とても、初めて面会したとは思えなかった。
 通常より長い面会時間があっという間に過ぎた。30分ほどあっただろうか。いくら話しても、話し尽くすことなど、できるはずがなかった。
 「そろそろ時間です」
 刑務官に告げられた時、初めて私は時計を見た。すべてが一瞬の出来事のように思えた。
 私と嘉浩との最後の面会になったのは、2010年1月8日、ちょうど松の内が明けて、学校も新学期がスタートし、本格的にその1年が活動を始める日だった。
 前年11月から始まった嘉浩との面会は、すでに四度目となっていた。いつもの6階の同じ3番面会室に私は通された。
 狭くはあるが、さまざまなことを話し合った空間が、新しい年にも私を迎え入れてくれた。
 しかし、私には、これが嘉浩との最後の面会になることがわかっていた。最高裁判決への不服申し立てが却下されれば、自動的に死刑判決が確定してしまうからだ。
 これを過ぎれば、確定死刑囚の外部交通権は、既述のように大きく制限されるのである。私のようなジャーナリストが面会できるのは、これが最後だった。
 そのことが嘉浩にもわかっていたのだろう。午後1時20分から始まった面会は、新年の挨拶もそこそこに、嘉浩のこんな話から始まった。
 「すべての罪はわが身にあり、と私は思っています」
 狭い面会室のアクリル板の向こうから、嘉浩は、いきなりそう語りかけてきた。柔和な笑顔と、死刑囚という厳然たる事実。私には、目の前の光景が「現実のものではない」ような不思議な思いがした。
 「私には、(オウムの)マインドコントロールが外れて、初めて反省が生まれました。オウムと出会ってしまったことは、“業”だったと思います。私の宿業です。業は人によって違います。武士は人を殺さなければならない時があります。また、貧しい人はつらい生活をしなければいけません。人間にとって、それぞれの宿業があるのです。
 自分を見失っていたこと、そこに私の後悔があります。先生がいたとしても、先生から学んで、先生から自立してこそ、本当の弟子のはずです。しかし、私は自立しようとしなかった。
 そして、麻原も私を自立させようとはしなかったのです。私は、師の誤りを正すことができませんでした。その意味で、すべての罪はわが身にあり、と思っています」
 越えてはならないものを越えてしまったオウムの信者たち。自分勝手な教義で、殺人さえ正当化して突き進み、あれほどの犯罪を引き起こしたのである。
 嘉浩はその幹部として、数々の犯罪に関わったのだ。そして、その陰で無念の思いを吞んで死んでいった犠牲者や、二度と幸せを摑むことができなくなった遺族たちがいる。
 事件から15年という歳月によって、やっと嘉浩は法廷での自分の役割を終え、自身の判決も確定したのである。
 嘉浩は、私にというより、自分に言い聞かせるように、こう語った。
 「本当に自分が解脱を求めていたなら、そして、おかしい、と思ったら麻原のもとを離れなければなりませんでした。そうあるべき自分が、“そうではない、これについて行かないといけない”と思い、若さで妥協してしまいました。しかし、若いからこそ、私は離れなければいけませんでした」
 そして、こうつけ加えた。
 「私は、お釈迦様の伝記も読んでいました。お釈迦様は、自分の師から離れ、自立していきます。その部分も私は読んだことがあります。師から学び、そこから自立してこそ、本当の弟子のはずです。しかし、私はオウムの中でただ“盲信”してしまい、おかしいと思っても、ただ黙っていました。そこに私の弱さがあったんです。その意味で、私は、すべての罪はわが身にあり、と思っています」
 すべての罪は、わが身にあり――その言葉を嘉浩は短い間に何度もくり返した。懸命に、私にその意味を伝えようとしていた。三度の面会でも伝えられなかったものが、嘉浩には残っていたに違いない。
 「坂本弁護士事件も、私は、薄々気づいていました。これはおかしい、と心の中で思っていました。でも、その疑問を口に出さず、黙っていたんです。
 完全にわかったのは、もちろん逮捕されてからですが、くさいなあと思っていました。なぜ、それでも(オウムから)離れられなかったのか、それが私の罪なんです」
 坂本事件にも触れながら、嘉浩はこうつづけた。
 「私が16歳でオウムに出会ったこと、これも自己弁解にすぎません。私には、(師を)止められるはずだったと思います」
 自らに言い聞かせるように、嘉浩はそう呟いた。
 16歳ということを聞いて、私は、ふと、40歳の大台に乗った感想を聞きたくなった。
「嘉浩君、いよいよ40代になったけど、これはもう、中年になったということだなあ」
 深刻な話がつづいていたのに、私は急にそんなことを言ってしまった。
 その瞬間、嘉浩の話が止まった。
 さまざまなことを話していた真剣な表情が急に緩んで、嘉浩はにっこりと笑った。人なつっこい、あの独特の笑顔だった。
 「まだまだこれからですよ。“命あるかぎり”生きていきますよ」
 中年という言葉が、いささかのユーモアを含んでいたのかもしれない。彼自身も、まだ自分は若い、と思っていただろう。しかし、まさにその中年である私が、そんな言葉を発したので、おかしくなったのかもしれない。
 深刻なことであるはずなのに、嘉浩は、「“命あるかぎり”生きていきますよ」と言ってのけた。面会室が柔らかい笑いに包まれた。
 ちょうど刑務官が、「そろそろ……」と、遠慮がちに時間が来たことを告げた。
 刑務官は、お互いを笑顔のまま別れさせようとしてくれたのかもしれない。笑みをたたえたまま、嘉浩はすっと立ち上がり、私に向かって深々と礼をした。それは、法廷で見つづけたあの嘉浩の“九十度の礼”だった。
 私が礼を返しても、嘉浩は深々と頭を下げたままだった。
 「生を与える」という一審判決、「死を命じた」二審と三審。そこには、生と死の狭間で揺れた司法判断とは、まったく別の次元の男がいた。
 すべての罪はわが身にあり、という嘉浩の言葉を反芻しながら、私は、嘉浩との最後の面会を終えた。

 ◎上記事は[PHP Biz Online]からの転載・引用です
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