2・26将校の遺書

2005-07-14 | 本/演劇…など

  本日ライトハウスから音訳原本が届いた。『ONE DAY 』《残された24時間で、ぼくは人生を取り戻すんだ!》ポプラ社刊。

 昨日、正文館書店へ行き、単行本『吉良の言い分』(下巻)を受け取る。

 同じく昨日の新聞記事。                                                ■2・26将校の遺書発見 処刑前の心情切々 69年ぶり、17人の45枚 「我が魂魄を愛するより國を愛するの熱情に死せむ哉」(安田少尉)「大君に御国思ひて斃れける若き男乃子の心捧げん」(栗原安秀中尉)・・・略・・・

  『吉良上野介を弁護する』より                                  ■さらにこれは上野介の『日記』にも書かれているのだが、綱吉の前の四代将軍・家綱が亡くなり、その法要が例の増上寺でおこなわれたおりのことである。法事のあった本堂で、志摩鳥羽藩主の内藤和泉守忠勝が乱心し、丹後宮津藩主の永井信濃守尚長を刺殺するという事件が起きている。 じつは、その内藤忠勝は浅野内匠頭の叔父にあたり、殺された永井尚長の墓は東京・上高田の萬昌院巧運寺にある。そう、吉良上野介の墓とおなじ寺の墓地に埋葬されているのだ。(略) ましてや、内匠頭には痞の持病があって、心身が極度に衰弱し、もうろうとした状態にあった。そのことは既述したとおり、いくつかの根本(ないしは準根本)資料によって立証されている。 もうひとつ、これも本章で明かしているが、上野介には、京からもどって勅使挨拶の儀式のときまで、2週間ほどの時間しかなかった。その短いあいだに、彼は京での役務の報告やら、残務整理やら、いろいろとこなさねばならなかった。きたるべき式典にそなえ、高家肝煎としてみずから準備せねばならぬことも多かったろう。 内匠頭に意地悪をするどころか、ほとんど会えない。ろくに顔を見る暇もなかったというのが、実情ではなかろうか。


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