中日新聞読書欄 BOOKナビ
『刑罰と観衆』(昭和堂・3150円)で松永寛明は刑事司法が三つの役割によって構成されていると書く。第1にもちろん「犯人(法違反者)がいる。第2に犯罪を裁く「司法関係者(法執行者)」も抜きには済ませない。だが、それだけではない。近代以前の処刑は公開され、「観衆」が立ち会っていた。この観衆こそ刑事司法を支える第3の役割を果たしている。
法違反者の身体へ加えられる「罰」を見せしめとして観衆に示すことで秩序維持を図った公開刑は近代化につれて廃止されてゆくが、観衆が消えたわけではない。犯罪報道の送り手と受け手こそ新しい観衆となった。明治期の報道を子細に分析した松永は、犯罪報道が刑事司法を補完した構図を描き出す。被害が深刻なほど報道は法違反者の不当性を強調し、世論もそれに追従する。結果として法秩序の正当性が印象づけられてきた。
死刑を見すえる
そうした「三角関係」は今や変化したのだろうか----。取材で知り合ったオウム真理教幹部の裁判を通じて、森達也は改めて死刑制度に向き合う。しかし究極の身体刑である死刑は日本では非公開が徹底され、実像が見えない。それはただかくされているのではない。処刑の実態を調べ、伝える積極性をジャーナリズムは欠くし、犯罪報道の受け手もそれを知りたいと思っていないようだ。死刑を二重三重に視野外に置こうとする風潮に森は抗う。
森達也『死刑』(朝日出版社・1680円)では元刑務官や冤罪元死刑囚の話を聞いてその執行の実態に迫り、被害者遺族、加害者支援団体への丁寧な取材によって「死刑とは何なのか」を原理的に考え続けようとする。
死刑を見ようとしない犯罪報道システムは、死刑制度を緊張感なしに維持することに寄与してきたという意味で、やはり刑事司法を補完している。だが、それでは司法制度の一翼を担う「観衆」としての社会的使命が十分に果たせたとは言えまい。人が人を殺すという現実を、私たちは真っ直ぐに見据えるべきだと森は訴える。その手続きなしには死刑廃止論だけでなく、存置論もまたホンモノたりえないし、死刑をそもそも必要としない社会を目指す理想にも踏み出せないのだ。(武田徹・ジャーナリスト)