阪神でもエースになった巨人エース 小林繁氏が死去 2010/1/17

2010-01-17 | 相撲・野球・・・など

阪神でもエースになった巨人エース 小林繁氏が死去 スポニチ2010/1/17
 1978年11月、巨人が浪人中の江川卓投手と野球協約を無視して入団契約を交わし、プロ野球界を揺るがす騒動に発展した「江川事件」で、交換要員として巨人から阪神に移籍した現日本ハムの小林繁(こばやし・しげる)投手コーチが17日午前11時、心不全のため福井市内の病院で死去した。57歳。鳥取県出身。葬儀・告別式は20日正午から福井市の千福寺りんどうホールで。喪主は妻静子(しずこ)さん。
 小林氏は鳥取・由良育英高から全大丸を経て72年にドラフト6位で巨人入り。細身の体を目いっぱい使った独特の横手投げで、76、77年にはともに18勝(8敗)を挙げて長嶋茂雄監督率いるチームのリーグ連覇に貢献した。江川事件の際には当時の金子鋭コミッショナーの「強い要望」で阪神に電撃移籍し、1年目の79年には巨人戦の8連勝を含む22勝(9敗)を挙げて最多勝を獲得した。
 77、79年には沢村賞に選出された。83年、13勝を挙げながら現役を引退。通算成績は実働11年で139勝95敗、17セーブ、防御率3・18。引退後は、近鉄、日本ハムでコーチを務めた。95年には「さわやか新党」を結成し、参院選の比例代表に立候補したが、当選は果たせなかった。
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“若すぎる死”悼む声…長嶋氏「頼りがいある投手」
 巨人、阪神で活躍し、2度沢村賞に輝いた現日本ハムの小林繁投手コーチが17日、57歳で死去した。
 巨人の長嶋茂雄監督の初優勝に大きく貢献した一方、「江川事件」で電撃トレードされて悲劇のヒーローになるなど、波乱に富んだ野球人生だった。キャンプを直前に控えたこの時期の突然の悲報。ともに今季を戦おうとしていた日本ハムの梨田昌孝監督ら、球界からは若すぎる死を悼む声が相次いだ。
▼日本ハム・梨田昌孝監督の話 会ってから丸1日たっていないわけだから、本当に信じられない。まだ亡くなった感じがしない。1軍で一緒に戦えるのは近鉄以来で、本人も燃えていた。若い芽をどんどん育ててほしいと思っていた。
▼阪神・南信男球団社長の話 突然の訃報に大変驚いております。年代が近かったこともあり、親しくさせていただいていました。ご冥福をお祈りいたします。
▼阪神・真弓明信監督の話 びっくりした。現役でも(阪神で)一緒にやって、近鉄でもコーチで一緒にやらせてもらった。野球に対して熱いし、いい理論を持っていた。気も使うし、頭の回転の速い人。決して恵まれた体ではなかったが、気で投げる投手だった。
▼阪神・久保康生投手コーチの話 細い体からは想像もできないほどの熱血漢で、若い選手を熱心に指導されていたことを思い出します。(近鉄では)わたしもコーチになって間もないころだったので、いい勉強をさせてもらいました。
▼元阪神・掛布雅之氏の話 小林さんが阪神に入団された79年は、前年に田淵(幸一)さんが西武へトレードになり、僕が中心になってやらなければ、と思っていた年でした。いい意味ですごく刺激になりました。小林さんに負けられないという気持ちが、その年の48本塁打につながったと思っています。
▼巨人・長嶋茂雄元監督の話 1976、77年のリーグ優勝に大きく貢献してくれたことを鮮明に覚えています。細身の体からは想像もつかないくらいスタミナがあり、本当に頼りがいがある投手でした。正直にいうと、阪神へトレードになったことは残念な思いでいっぱいです。現場の監督として悪いことをしてしまったという気持ちがいまだに残っています。若すぎる、早すぎる最期です。
▼ソフトバンク・王貞治会長の話 短い期間でしたが、阪神で一時代を築いた好投手でした。これから後進の指導や、多くの子どもたちに野球の素晴らしさを伝えてほしかっただけに、まだ57歳という若さで逝ったことは残念でなりません。
▼江川事件を知る坂井保之元西武球団代表の話 江川事件はいまだに語られる球界にとってマイナスの出来事。でも彼のある種のプロに徹した潔さ、すがすがしさで負の事件を終わりに導いた。拒否することもできる立場だったけど、彼の決断が多くの人に感動を与え、球界は救われた。
▼オリックス・岡田彰布監督の話 小林さんとはタイガース入団が同時期だったこともあり、大変お世話になりました。野球に関してもそうですが、プライベートでもよくしてもらったことを今でも思い出しますし、大変感謝しています。
▼江川卓氏の話 入団したときから小林さんの成績を抜かないと、と思ってやった。(共演したCMを撮影した)1年半前にはすごい元気だった。びっくりしている。その時「お互い大変だったな」という言葉を掛けてもらい、すごくほっとした。申し訳ないという気持ちは一生消えない。一生持ち続ける。
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【1月31日】1979年(昭54) 巨人のエース・小林繁、“阪神の新人”・江川卓とトレード
 3度目のドラフト1位指名を受けた、法大卒で「作新学院職員」の江川卓投手は、この日阪神と契約。背番号「3」に決まったが、契約から約7時間半後に巨人へ移籍となった。プロで1球も投げていない投手の交換相手は、沢村賞、最多勝などのタイトルをとり、長嶋巨人のV2に貢献した小林繁。時計の針はあと30分で2月1日になろうとしていた、キャンプイン寸前の駆け込みトレードだった。
 「オレかもしれない」。小林はそんな予感を1カ月前から抱いていたという。78年12月22日、巨人ファンだったといわれる元富士銀行(現みずほ銀行)頭取の金子鋭コミッショナーのいわゆる「強い要望」で江川の阪神入団、即巨人にトレードのレールは敷かれた。阪神は王貞治一塁手まで交換相手に指名してくるのではないかとまで言われたが、現実的にはありえない話で、そうなると阪神に対して一番の天敵になる投手を指名してくるという図式が成り立つ。巨人在籍6年の小林の対阪神戦の星勘定は11勝3敗。たとえばトレードの候補として名前の挙がった、左のエース・新浦寿夫投手の同時期の対阪神戦の成績は10勝12敗。名前では堀内恒夫投手の方が格上かもしれなかったが、峠を越えた時期であり是非とも欲しいという感じではなかった。「そんことはない。お前は巨人のエースだ」と周囲は小林の心配を笑い飛ばしたが、エースと言われれば言われるほど、阪神が指名してくるのではないか強く思った。
 運命の日は宮崎キャンプに出発する日だった。小林、江川の動きを時系列で追うと、
 ▼午前11時50分 宮崎キャンプ出発のため羽田空港に到着した小林がすぐに球団職員に連れられハイヤーに乗せられる。「どこへ行くの?」(小林)「とにかく着いてから(話す)。(正力亨)オーナーと(長谷川実雄)代表がいるから」。
 ▼12時15分 江川が栃木の実家から上京、後見人の衆院議員船田中氏の事務所へ。
 ▼12時20分 ハイヤーは東京・紀尾井町のホテルニューオータニに到着。「小林君に阪神へ行ってもらうことになった」と長谷川代表。
 ▼15時20分 小津正次郎阪神球団社長らと江川親子の交渉。16時に契約。10分後に入団会見。報道陣からトレードについてきかれると「知りません」と江川。「阪神キャンプにはいつ行くのか」の問いには言葉に詰まる。
 ▼20時40分 ホテルを出た小林らは読売新聞社へ。阪神側も同席。
 ▼23時30分 巨人と阪神の間で交換トレード成立。
 ▼2月1日0時18分 トレード発表。
 ▼0時45分 小林が会見「請われて阪神に行くのだから、同情はされたくない」ときっぱり--。
 大丸神戸店の呉服売り場に勤務していた71年(昭46)、小林はドラフト6位で巨人から指名された。大学受験に失敗し、浪人を覚悟していた時に大丸から声がかかった恩義があり「都市対抗に出るまでは」と入団を保留。72年に出場したことで同年のオフに入団した。
 か細い身体から付いたあだ名が「ホネ」。1年目の73年9月に1軍昇格。V9へ首の皮一枚でつながっていた10月11日の阪神戦(後楽園)は球史に残る大乱戦で10-10の同点で9回へ。巨人は投手を使い切り、残っていたのは小林のみ。見事3者凡退に抑えて、引き分けに持ち込み、その11日後の甲子園での9連覇達成へとつながった。
 翌74年4月20日、中日1回戦(後楽園)で初勝利を挙げると、この年は8勝2セーブ、75年5勝の成績だったが、専らリリーフ。エースと呼ばれるようになったのは76年から。18勝を挙げた小林の先発、抑えでの大車輪の活躍で、76、77年と巨人はリーグ優勝を果たした。
 ところで、巨人では栄光の背番号「3」をなぜ阪神はすぐに出て行く江川に与えたのか。「たまたま空いていた番号だから」と関係者は言うが、そこには小津球団社長の意図的な演出を感じる。巨人では神聖な永久欠番が汚れることで、野球界のルールを曲げた江川に対する十字架を背負わせようとしたのだ。阪神の歴代「3」番は移籍選手らが付けることが多く、巨人のそれとは重みが違った。
 阪神の3番が生え抜きとして、チーム内に認められるようになったのは、“代打の神様”八木裕内野手が最初としても過言ではない。14番から入団2年目の88年に変更して以来、17年間付けていた。後を継いだ関本健太郎内野手が、八木を越えて、3番の代名詞になることができるだろうか。
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天声人語
2010年1月19日(火)付
 植木等さんは、映画で演じる無責任男と、きまじめな自分との落差に悩んだという。「僕の場合、何を演じているかというと、結局、植木等なんです」。そんな独白が残る。有名人であるほど、ひとたび固まったイメージは崩れにくい▼57歳で急死した野球人、小林繁さんは「悲運」の形容で語られることが多かった。江川卓投手を巡る「空白の一日」騒動の巻き添えで、巨人から阪神に出された。以後、江川さんには敵役、小林さんには悲運の影がついて回ることになる▼実力の世界で、妙な虚像は迷惑だったかもしれない。小林さんは移籍の年に22勝をあげ、中でも巨人戦は8勝負けなし。シーズン終了後、文芸春秋誌に語っている。「ぼくを支えたものは、巨人には絶対優勝させないぞという意地でした」▼地力があっての話だが、逆境をバネにする生き方というものを教えてくれた。帽子を飛ばし、気迫、執念、反骨が現実の力に転じるさまは、それぞれに闘う多くの人を勇気づけたものだ▼七つの球種を際どいコースに放り込んだ。ストライクゾーンを48のマス目に分け、外側のマスを狙って投げたという。ボール一個分は無理でも、ミット半分のコントロールを自らに課していた▼自身は「意地っ張りで見えっ張り」、阪神の先輩江本孟紀さんは「投手らしい最高のナルシスト」と評した。格好はどうでもいいから、球場でもっと見たかった。何も悲運のイメージを早世で完結させることはない。どのマスを狙ったのか知らないが、運命の神様のノーコンぶりに涙が出る。
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〈来栖の独白〉
 今になっても、江川を好きになれないのは、あのトレードがあるからだ。或る意味、江川も被害者ではあるだろう。


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