名フィルのゲネプロ

2009-12-18 | 日録
 名フィルのゲネプロを聴きに行った。ティエリー・フィッシャーさん。やはりオーケストラが、いい。音の豊かさ、深さ。100人ほどの団員が奏で、聴かせててくれる贅沢。
 ふと、私はどうして一度も音楽をやってみよう(仕事にしよう)と思わなかったのだろう、と考えた---音楽の才は別にして---。幼い頃から、私はピアノしか稽古しなかった。オケのなかにピアノはない。生まれ変わりなんて信じていないが、もし生まれ変わりがあるのなら、オーケストラの団員になってストリングスを弾いてみたい。普段着で演奏する団員を見ながら、そんな事を想った。
 そして、さらに思い巡らす。いま「介護認定1」となってホームに暮らすあの愛おしい婦人を母として生まれたのも、その母の勧めでピアノを弾くようになったのも、凡て何もかも私自身の意思ではなく、五木寛之氏の言葉を借りるなら「他力」のなせる業であった。第1志望校を不合格となり、ミッションスクールの大学へ入学したが、そこでイエスに出逢った。あの母校へ行っていなかったなら、今の私は、ない。「み言葉」(聖書)なくしては、コルベ師との出会いもなく、いまの私はなかった。
 親鸞は『歎異抄』のなかで次のように言う。
 「こころのよくてころさぬにはあらず」
 人の心が善いから殺さないのではない。それは「業縁」のなせるわざである、と。
 五木寛之氏は「人間というものが、状況と行動のはざまにおいて、常にぐらぐらと不安定な、おそるべき存在である」と言われる。換言するなら、人は状況次第でどのような悪行でも行える、と言われるのである。更に突き詰めて極論するなら、人間はすべて悪人である、悪を抱えている、そういう存在である、と。
 私が人を殺さなかったのも、心が善かったからではなく、たまたまそういう状況に立ち至らなかったからにすぎない。また、死刑囚を弟に迎えたのも、私が何か働きかけたり頑張ったりしたゆえではなく、たまたまそういう環境に身をおいていたからにすぎない。
 ことほどさように、自らの力によってどうこうできることは、実は皆無である。そう思い至ったとき、歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悲苦の深いものから救われる)の弥陀の本願が無上に有難く感じられるのである。判断基準は、行いの「善」「悪」ではない。悲しみ・苦しみの深さである。悲苦に悩む人をこそ、弥陀は憐れんで救ってくださる・・・。

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