小沢一郎妻に「離縁状」を書かせた男

2012-12-24 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

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第1回
 その記事は、確かに衝撃的な波紋を引き起こした。さる6月14日に発売された『週刊文春』(6月21日号)が、次のような大見出しを掲げ、トップ記事として放った“スクープ”である。
〈小沢一郎 妻からの「離縁状」全文公開 「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃〉
 30年以上にわたって日本政治の舞台中央に立ち続け、いまもなお、良きにつけ悪しきにつけ一挙手一投足がメディアの関心事となっている小沢一郎(70)。その妻・和子が小沢の地元・岩手の支援者らに向けてしたためたとされる手紙には、にわかには信じがたいような内容がいくつも綴られていたのだから、衝撃を呼ぶのも無理はなかったろう。
 〈小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました〉〈長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました〉〈八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました〉〈三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました〉〈それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をさすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました〉〈ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました〉……。
 『週刊文春』の発行元である文藝春秋などによれば、公称70万の部数は発売の翌15日夕までに完売し、手紙の内容はネット上などでも凄まじい勢いで伝播していった。同時に、日ごろから小沢に批判的な識者たちも、ついに決定的なダメージを「剛腕・小沢」に与える大スキャンダルが飛び出したと沸き立った。
 たとえば、評論家の立花隆は翌週号の『週刊文春』(6月28日号)に、次のような一文を寄せている。
 〈「これで小沢一郎はおしまいだ」と確信した。誰がどう読んでも、小沢は政治家失格だと確信する、それほど衝撃的な手紙だった〉
 〈何しろあの一本の記事が当代随一の政界実力者の政治力を一挙に奪ってしまったのだ〉
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 問題の手紙が真に小沢和子の手によって書かれたものであり、その内容がすべて事実であるならば、こうした指摘も決して的外れではなかっただろうと思う。しかし、以後の経過を見ると、事態は必ずしもそのように推移していない。有力週刊誌や夕刊紙などはさまざまな形で後追い報道を繰り広げたものの、新聞やテレビといった大手メディアはほぼ沈黙を守り、問題の手紙がまるで「なかったもの」であるかのように振る舞っている。実際には政治家・小沢の今後にボディーブローのように効いてくるのかもしれないが、〈当代随一の政界実力者の政治力を一挙に奪ってしまった〉とまで断じるような状況には、少なくとも見えない。すべてがどこか霧のようなものに覆われたかのごとく、もやもやとしたままである。
小沢一郎への嫌悪感
 それにしても、小沢一郎という政治家は、ひどく奇態な存在である。いや、正確に記すなら、小沢一郎という存在そのものよりも、それを取り巻く周辺状況の方が奇態というべきなのかもしれない。
 さまざまな世論調査などに目をやれば、世の人々の相当数は小沢一郎という政治家に嫌悪感を抱いているらしい。民主党を飛び出した小沢が立ち上げた「国民の生活が第一」なる新党について、結成直後に共同通信が世論調査を実施したところ、「期待している」とする回答が16・5%にとどまる一方、「期待していない」とする回答が81・8%にも上ったというのは、その証左の一つであるだろう。
 しかし、一部の人々は小沢を熱心に支持しているらしい。世の多数が小沢に嫌悪感を抱いているのは、検察や官僚組織が意図的かつ恣意的に小沢の追い落としを謀っているからであり、しかも新聞やテレビといった大手メディアがその尻馬に乗って小沢バッシングやネガティブキャンペーンを繰り広げているからにほかならないと主張する人々は、さらに熱狂的に小沢支持に突き進む。
 そうした主張には頷ける部分もあるにはあるのだが、小沢を取り巻く奇態な風潮の中で、事実は往々にして極端な方向へと歪められていく。一方の側は、事実を過大視してここぞとばかり小沢バッシングに狂奔し、もう一方の側はやはり事実を過大視したり過小評価したりしながら、すべては背後に「政治的謀略」がある、などと声を張り上げて訴える。
 余談に属するのかもしれないが、小沢一郎をターゲットとする東京地検特捜部の捜査が繰り広げられていた当時、私は検察捜査の問題点をさまざまな場で批判した。どう考えても無理筋の捜査であったし、過去の政治資金事件に比べて捜査のハードルが明らかに低く、戦後初の本格的政権交代を検察ごときが掻き回すことにどうしようもない不快感を覚えたからなのだが、小沢を支持するらしき人々からはネット上などで随分と過分なお褒めを頂戴した。
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 一方で私は、小沢一郎という政治家に一片の好意も抱いていない。だから、同時に小沢批判にも幾度か言及したのだが、その途端、同じような人々からひどく感情的なバッシングを浴びることになった。別にネットなどで何を書かれようとどうでもいいのだが、小沢一郎という存在をめぐる近年の議論は、かくも感情的で、かくも極端に走りがちなことは痛感させられた。
 つくづくと思うのだが、事実はもっと虚心に見つめられねばならない。さもなくば、歪んだ見方が大手を振って罷り通ってしまうし、エキセントリックな謀略論に閉じこもって異論を封殺するような輩も跋扈してしまう。 では、衝撃的に報じられて世に広く伝播しながら、新聞やテレビがほぼ沈黙した小沢和子の手紙の実相とは何だったのか。普段は「恣意的な小沢叩きに躍起となっている」と揶揄される新聞やテレビはいったいなぜ、格好のネタともいえる和子の手紙に反応しなかったのか。
 幾人もの小沢関係者のもとを訪ね歩いたのだが、長きにわたって小沢と行動をともにしてきた元側近に尋ねてみると、やや言葉を濁しながら、こんなふうに打ち明けはじめた。
 「あの手紙は、小沢先生の奥さまが書かれたものに間違いありません。ただ、おそらくはすべてが自らの意志で書かれたものではないと思います」
―自分の意志じゃないとすれば、いったい誰が?
 「実は……」
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第2回
妻・和子の変調
 小沢の妻・和子は1944(昭和19)年9月、新潟市に本社を置くゼネコン「福田組」の創業者一族に生まれた。福田組は明治期の1902年、初代の福田藤吉が個人企業として立ち上げたものだったが、戦後に四代目の社長となった藤吉の子・福田正が社勢を急成長に導き、鉄道、港湾、発電施設などの土木工事を幅広く手がける東証一部上場の中堅ゼネコンにまで育て上げている。
 急成長の背後にあったのが、故・田中角栄の威光と政治力だった。四代目社長の福田正は角栄の後援会「越山会」の最高幹部であり、全盛期の越山会は角栄の地元・新潟で泣く子も黙る権勢を誇った。「列島改造」を唱えて角栄が政界の出世街道をのし上がっていくのと歩調を合わせるように、福田組も業績を拡大させてきたのである。
 この福田正の長女が和子であった。ちなみに福田正の次女・雅子は、故・竹下登の異母弟で自民党衆院議員の竹下亘の妻となっており、角栄門下である竹下登―小沢一郎という恩讐も入り交じった師弟は、福田組を軸として姻戚関係を形作っている。いずれも角栄の紹介によるものであり、古くからある言葉を用いれば、まさに「政略結婚」と評すべきものだったろう。
 そうして小沢と和子が結婚したのは、73(昭和48)年のことである。翌74(昭和49)年には長男が、77(昭和52)年と78(昭和53)年には次男と三男も生まれている。一方、当時30代になったばかりだった小沢は、少壮の衆院議員として自民党最大派閥の田中派に所属し、角栄や金丸信の寵愛を一身に受けて急速に政界での力を蓄えていった。
 これを陰で支えたのが和子だった。小沢が代議士だった父・佐重喜から引き継いだ地盤をさらに固め、岩手に強大な“小沢王国”をつくりあげるのに、和子の地道な奮闘は欠かせないものだったらしい。田中派時代から小沢周辺を取材し続けた大手紙のベテラン政治記者がこう解説してくれたしてくれた。
「もともと和子さんは人前で話したりするのが得意なタイプじゃなかったようですが、岩手で(小沢の母の)みちさんの薫陶を受けて、とことん裏方に徹しながら、小沢さんの“名代”として一生懸命に地元の支援者回りを積み重ねてきました。いまだって岩手では『和子さんがいなければ地元がまとまらない』という声が出るくらいです」
 一方、東京の小沢事務所でも和子の存在と献身は大きかった。小沢の秘書を長く務めた衆院議員の石川知裕のもとを訪ねると、当時の日々を懐かしむようにこう語った。
 「とにかく小沢さんはぶっきらぼうで、秘書や住み込みの書生にも優しい言葉をかけることなんかまったくありませんからね。そんな小沢さんに代わって、秘書の動きに気を配ったり、やる気を引き出してくれたのは、いつも奥さんでした。小沢家における奥さんの存在は、相撲部屋のおかみさんをイメージするとわかりやすいかもしれません。むかしは、台所で奥さんと一緒に小沢さんやわれわれ秘書の朝食をつくっていました。料理のつくり方なども、よく教えてもらったものです」
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 そんな小沢と妻・和子の関係が大きく変質していったのが、おおよそ10年前ごろからのことだったようである。前出した小沢の元側近が、こう明かしてくれた。
 「弟さんが亡くなられたころの話です。あれから、奥さまは急激に体調を崩されましてね。よっぽどショックだったんでしょう、それから間もなくお父さんまで亡くなられて、ますます体調が悪くなって……」
―体調というと?
 「体調……というより、はっきり言えば、精神的に病を抱えたような状態になってしまわれたんです。最初のころは、更年期ということもあるのかな、と思っていたんですが、どうやらそんな程度じゃなくて、小沢さんとの関係も急速に悪化しましてね」
 和子の実弟である福田実は、父・正の跡を継ぎ、92(平成4)年から福田組の五代目社長に就いていた。ところが2003(平成15)年3月10日、食道ガンのため54歳という若さで急逝してしまったのである。福田組名誉会長の座に退いていた父・正が世を去ったのは弟・実の死より後、09年10月のことであった。元側近の話を続ける。
 「弟の実さんは、奥さまと非常に仲良しでね。それに、お父さんの正さんはリクルート疑獄の際に小沢先生や竹下先生に代わって未公開株を受け取り、激しいバッシングに晒されていますから、実家の福田家は政治に翻弄されておかしくなってしまった、という苛立ちも募りに募り、それが一挙に爆発した面もあったんじゃないでしょうか。以後、(和子は)もうすっかり人が変わってしまったようになって、この10年くらいは、地元(岩手)にもほとんど入らなくなってしまいました。あれほど一生懸命に後援会活動を続けてきたのに……。『週刊文春』に報じられた手紙にも書かれていましたが、『隠し子』の問題が浮上してきたことも影響したと思います。同じ家の中にいながらも別居状態になられて、夫婦間の会話もほとんどなくなってしまいましてね」
 東京・世田谷区深沢の小沢邸は、敷地面積が600坪もある。その敷地内の一角に、2階建ての別棟が新築されたのは2002年のことだったという。所有者は和子。間もなく和子はこの別棟に閉じこもって暮らすようになり、小沢との夫婦関係は完全に冷め、破綻状態となっていった。
 いまもむかしも、政治家と呼ばれる人種は大抵、自らの地盤を世襲によって維持したがるものである。戦後日本で初の政権交代が成し遂げられた先の総選挙―2009年8月の衆院選を例に取れば、立候補者のうち3親等内に国会議員を持つ「世襲比率」は自民党が約39%、民主党でも約15%に上っている。世襲がうまくいくか、無惨に失敗するかはともかく、また、政治家の世襲そのものの是非はともかく、現下日本の政界では、おおよそ4人に1人以上が何らかの形の世襲議員で占められている、とも言われる。畢竟、大物と呼ばれるような議員の子息は、秘書などの形で早くから公の場に姿を現し、マスメディアなども彼らの動向に注目する。
 しかし、小沢の場合は違う。小沢自身が父・佐重喜の地盤を継いだ世襲議員であるにもかかわらず、それを引き継ぐ可能性のある子息らの動静がまったく明らかにされていないのである。
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第3回
父への憎悪
 前記したように、小沢と妻・和子の間には3人の息子がいる。74年に生まれた長男は、早稲田大学理工学部を卒業後に海上自衛隊の幹部候補生学校に入学し、海上自衛官となった。77年生まれの次男は98年に東京大学文科・類への合格を果たし、78年生まれの三男は慶應義塾大学に進学しているから、いずれも随分と立派な学歴の持ち主である。しかも三男は、卒業後にプロボクサーになるという異色の人物だという。
 ところが長男は2001年に海上自衛隊を退職し、プロボクサーとなった三男は鳴かず飛ばずの戦績のまま引退してしまったらしい。東大を卒業した次男も、既に30歳を超えているのに、定職に就いている気配がない。少し前まで小沢番だったテレビ局の政治部記者もこう言う。
 「小沢さんの長男と三男はもう深沢の家(小沢邸)を出ているのですが、いまどこで何をやってるのか、わたしたち番記者にもわからないんです。そもそも小沢さんは長い間、番記者とそういう話をする機会を持とうともしませんから。そういえば、3年ほど前に小沢さんがラジオ番組に出た時、『息子は派遣社員をやっている』と明かして話題になったことがありました。三男のことだと思うんですが、これも真偽は定かじゃありません。次男ですか? 次男だけは、いっつも和子さんと一緒にいるようです」
 この次男について、前出した小沢の元側近に尋ねると、次のように打ち明けてくれた。
「(次男は)いまでもずっと奥さまと一緒にいるはずです。あの方(次男)は、むかしから奥さまと本当に仲良しでね。大きくなられてからも腕を組んで一緒に出かけるほどでしたから、傍から見ていると少し異常なくらいでした。それに、大学時代ぐらいから小沢先生にものすごく反発するようになりましてね」
―というと?
「大好きな母を蔑ろにし、失意のどん底に追いやる小沢先生が許せなかったんでしょう。ものすごい政治嫌いになって、秘書や書生にも敵意を露にして、ほとんど口もきかないような状態になりました。あの手紙も、実は……」
―実は?
 「奥さまとずっと一緒にいる次男が、奥さまに書かせたんだと思います」
―次男が? どうしてそんなことを?
 「愛する母を不幸にした父や秘書たちへの復讐、ということじゃないでしょうか。もちろん奥さま自身の意志も入っているとは思いますが、いまの奥さまはきちんとした判断ができるような状態じゃありませんから。それに、あの手紙は明らかな間違いがいくつもある。小沢先生が放射能が怖くて逃げ出したなんていうことはないし、京都から出馬するなんていう話もありえない。小沢先生は奥さまや次男と会話も交わさないような関係になってしまっていますから、妄想的な話も交えて感情任せに書いたもの、という印象を受けました。書く必要もない秘書の名前まで詳しく書かれているでしょう。あれも秘書への恨みのようなものを感じます」
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野田首相が開口一番……
 小沢の周辺に当たってみると、問題の手紙が綴られた背後事情に関する証言には若干の食い違いもある。
 ただ、これだけは間違いなく断言できる。小沢の妻・和子は近年、まともな精神状態といえるような身体ではなかった。しかも、夫・小沢との関係は完全な破綻状態に陥っており、母・和子を異常なほど偏愛する次男は、父・小沢への反発と憎悪をたぎらせつつ和子にベッタリと寄り添っている。つまり、家庭内の不和が極限まで高まる中、妻と次男によって問題の手紙はしたためられた。
 その上、手紙の中には明らかに事実と異なる記述もあれば、ウラの取りようのない記述もあった。だから、大半の新聞やテレビは手紙を黙殺した。大手紙の政治部デスクがうんざりとした顔で言った。
 「小沢側から圧力がかかった、なんて話まで出ていましたが、ウラが取れない上、明らかに事実と違う内容がしたためられた感情任せの手紙なんて、記事にできるわけがありませんよ。唯一、読売新聞が(6月23日付の紙面で)取り上げていましたが、あれこそいかにも特定の政治的意図を持った下品な記事でした。一方で小沢シンパの議員たちは手紙がすべて捏造だと言い張っています。いや、捏造だと思い込むことにした、という方が正確でしょうけれど、これもなんだかなぁ……という感じです(苦笑)」
 衝撃の手紙の真相とは、つまるところそれだけの話に過ぎない。しかし、手紙をめぐる一連の経過を眺め見れば、キナ臭さが立ちこめているのも事実ではある。
 問題の手紙が岩手の後援会関係者に届いたのは、昨年秋のことであった。それが今年6月になってから『週刊文春』に報じられ、同誌の発売直後には、そのコピーが東京・永田町に位置する国会議員会館の各議員事務所に大量に送りつけられた。家庭内の不和から発せられた手紙は、作成・投函から半年以上も経過した後になって、突如として“利用”されはじめたのである。小沢と長く行動をともにしてきた衆院議員の松木謙公はこう言う。
 「あれ(手紙)が本物というのなら、(妻・和子らが)感情的になっているのは事実だろうね。でも、夫婦の間のことだからね。喧嘩することだってあるでしょう。それが政治的に利用されてしまった、ということじゃないですか」
 では、半年以上も前にしたためられた手紙を“利用”したのはいったい誰か。ある官邸関係者が、私にこんな話を打ち明けてくれた。
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 「今年の1月中旬のことでした。野田(佳彦)首相が大手メディアの幹部と密かに会食したことがありましてね。その際、野田首相が会食場所に姿をみせるや否や、開口一番に『小沢さんがついに離婚されたそうですね』と切り出したんです。出席者たちは、なんでいきなりそんなことを言うんだろうと怪訝な雰囲気だったんですが、今になって考えれば、1月の段階で官邸は手紙の存在を掴んでいたんでしょう。だから、ひょっとすると官邸筋があの手紙を“利用”したのかもしれません」
 真相はわからない。しかし、だからといって家庭内の不和が極限状態にまで達した中で発せられた感情的で不正確な代物―という以上の意味が、問題の手紙に付されるわけでもない。また、小沢周辺の関係者によれば、和子は以後、さらに体調を悪化させているという。
 「和子さんは、手紙が報道されて以降も地元の小沢支持者からの電話には何度か応じたそうです。その(支持者たちの)話によると、報道の反響でストレスが溜まり、極端な睡眠障害に陥り、鬱症状もさらに悪化して、再び入院したそうです。たぶん、次男がそう(入院)させたんでしょう。一部では、自分で歩けないほどに衰弱してしまっている、という話もあります」
 この“手紙”をどう読むか
 断っておくが、私はここで、『週刊文春』が和子の手紙をスクープしたことについて疑義や異論を挟み込むつもりなど微塵もない。30年以上にわたって日本政界の中枢に居続けた男の動静は、相当にプライベートな部分まで含め、報道する価値は十分にある。また、大抵の情報は、発信者の背後にさまざまな思惑が横たわっていることが常であり、それがゆえに報道そのものを封ずるという選択肢はあり得ない。
 しかし一方、この手紙をもって〈当代随一の政界実力者の政治力を一挙に奪ってしまった〉などとはしゃぐのは、明らかに歪んだ見方である。同時に、すべてが仕組まれた謀略のように物事を捉え、事実を直視しようともしないのは、まさに愚か者の振る舞いである。繰り返すが、事実は虚心に見つめられなければならない。
 まず、こう判断することができるだろう。長く自身を支えてくれた妻をそのような精神状態に追い込み、子どもからも憎悪と反発の対象とされるような人物は政治家としても失格であり、国政の重要部分を担うには相応しくない、と。実際、小沢の周辺では、小沢という人間の「情の欠落」を難ずる声は実に多い。
 一方、家庭や私生活などは政治家としての資質とは無関係であり、そのようなことをうんぬんするのは意味がない、とみなすこともできる。事実、隠し子や愛人を抱えた政治家など過去に数多いるのだから、そのようなことに目くじらを立てる必要はないようにも思う。
 おそらく、いずれの立場も正しい。煎じ詰めれば、あの手紙はその程度に冷めて見るべき代物に過ぎない。それこそが、手紙の“利用者”に踊らされぬ道でもある。
  了

<筆者プロフィール>
  青木理 Osamu Aoki ジャーナリスト
 1966年、長野県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。1990年、共同通信社入社。警視庁警備・公安担当などを経て、2002年から2006年までソウル特派員を務め、『北朝鮮に潜入せよ』(講談社現代新書)を執筆。2006年に独立し、主な著書に『絞首刑』(講談社)、『ルポ 拉致と人々』(岩波書店)がある。近著は『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』(小学館)
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小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相 週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日発売)

         

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小沢一郎 妻からの「離縁状」全文 『週刊文春』2012/6月21日号 
 小沢一郎「妻からの「離縁状」全文公開 週刊文春6月21日号
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 (ジャーナリスト松田賢弥+本誌取材班)

        

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孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』  第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎

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