早稲田J-School@現代ビジネス
シリアで取材中に亡くなった山本美香さんが学生たちに遺した「最期の講義」後編 「死にゆく人を目の前にしてカメラをまわせるか」
現代ビジネス2012年08月29日(水)
日時:2012年5月15日 18時15分~19時45分
場所:早稲田大学8号館311講義室
講演者:山本美香氏(フリージャーナリスト)
シリアで取材中に銃弾で倒れたジャーナリストの山本美香さん(45)の葬儀が、8月28日、出身地である山梨県都留市でとりおこなわれた。アフガニスタンやイラクなどいくつもの戦場で取材を重ねてきた山本さんは、早稲田大学大学院のジャーナリズムスクール「J-Scool」で、今年5月、自らの体験を踏まえ、「ジャーナリズムと戦争」というテーマで講義をしていた。現代ビジネスでは、前回に引き続き、山本さんが生前、公開するように託していた講義録を紹介する。そこには、厳しい戦地での取材現場でジャーナリストとしての使命とそこから生まれる葛藤に向き合う山本さんの真摯な言葉があふれていた。
■「ロイター事件」
イラク戦争が終盤に向かっている、2003年4月上旬のことです。アメリカ軍がイラクの首都・バグダッドに侵攻していきました。軍事力の差は明らかで、米軍は圧倒的に強く、最先端の武器を使っていました。一方、イラク側は旧式の武器を使っていて、また「どこにいってしまったの?」というくらい人数も少なかった。武力の差がはっきりしている状況でした。
このような状況の中、報道陣はバグダッドにあるパレスチナホテルに拠点を構えて取材をしていました。パレスチナホテルはイラク当局から「報道陣はここにいてください」と指定された3つのホテルの内の1つです。テレビ中継の拠点があり、イラク当局の記者会見も行われていました。そこにジャーナリストたちが居を構えていることは、もちろん米軍も知っていました。
開戦から3週間近く経った4月8日、事件は起きました。当時は連日空爆が続き、市民の被害も拡大しており、戦争が長期化すると予想されていました。もしかすると市街戦になってバグダッドが火の海になるのでは、という話も出ていた時期です。国境は完全に封鎖されており、バグダッドにいる記者たちが脱出するというのは非常に難しかった。動く車両は空爆されるし、イラク当局のチェックもある。いずれにせよ移動や脱出は難しい状況でした。
この事件で被弾した部屋はロイター通信が拠点としていました。カメラを構えたり、寝たり、オフィスとして使っていた。私はその隣の部屋を取材拠点にしていました。
共和国橋から米軍の戦車がこちらに砲弾を向けて、そこから撃ったのです。1kmほど離れていたんですが、われわれのいたパレスチナホテルが被弾しました。私は直前までロイターの隣の部屋におり、被弾した瞬間は向かい側の部屋にいました。ものすごい揺れがあった。「近くに空爆があったな」と思った一方で、今までの衝撃とは違うレベルの揺れだと感じました。
その直後、廊下のほうが大騒ぎになっていて、叫び声が聞こえました。とっさにいつも持っているビデオカメラをつかみ、その部屋に向かったところ、ロイター通信の部屋で人がうめき声をあげていたのです。そしてもう一人は、ベランダにうずくまるようにして倒れていました。
これこそ本当に人命か報道かという究極の現場でした。ジャパンプレスの佐藤和孝と私が最初に現場に駆けつけました。さて、こういう場合、一体どうすればいいのでしょうか。
例えばあなたが現場に居合わせたジャーナリスト・報道カメラマンだったら、どうしますか。 市民であれ報道関係者であれ、死にゆく人を目の前にしたときどうするか。皆さんの考えはどうでしょう。これは戦争ですが、大地震や災害でもこのような場に遭遇することはあります。
学生1: 私は高校の教員を目指しており、その立場でお話させていただきます。一般の人はジャーナリストに対して、なんとなくかっこいいイメージを持っていて、報道するのだったら命をかけてやってくださいと思っている人が多いと思います。そこでもし私がジャーナリストだとしたら、カメラマンがうずくまっていて命を落としているかもしれないという状況を目の前にしても、その彼自身をも報道の材料にしてしまう。もしかしたらもう一発撃たれて、私自身が倒れている彼になりうるという状況でも、報道するという判断をするかもしれません。またそこで見たことは、帰国した後にも伝えていきたいと思います。
学生2: 私は、まず場の様子を見ます。他の人がいて、私が救助に行かなくてもいい状況なら記録をする。自分だけであったら、カメラをどこかに置いて録画しながら人を救います。
学生3: 私はこの本(『中継されなかったバグダッド』)の中でここが一番印象的です。片手で撮影して、出来ることならもう片方の手で救いたいと書いてあった。私はジャーナリストを目指してここにいますが、まだそこまでの覚悟が出来ていない。私ならまず救って、出来ることならそれを撮影したい。もし救える命であって、同時に撮影できないならカメラを置いて助けます。そのときの状況が映像に残せればベストですが、言葉で語ることは出来るし、他に伝える手段はあるので救う方を選びます。
学生4: 私も山本さんと同じようにまず助けに行ったと思います。ジャーナリストという職業である前に、一人の人間としてするべきことをしなければジャーナリストという職業を全うできないからと思うからです。人としてやるべきことをした上で、ジャーナリストの仕事をすべきではないかと思います。
報道する立場にある私たちは、まず目の前で起きている状況を素早く判断し、記録・撮影し、取材するということが基本だと教わると思います。私もそう教わってきましたし、今でも揺るぎない報道の基本だと思っています。
それとともに当事者性ということがあります。しかし、当事者とはどこまでが当事者なのか。ちょっと離れているとそうでないのか、他に誰かいるのかいないのか、どのくらいの距離感なのかなどといった状況によって随分と変わってきてしまう。
私の中でも、頭で理解している報道の基本はあるのですが、このときはとにかく目の前で「助けてくれ!」と言って這いずってくる人を助けないでカメラをまわすという判断には至らなかったわけです。
こうして話をしていると、「いや、こうだったのでは」などと説明する余裕がありますが、現場では現在進行形で物事は進んでいます。その時点では誰が攻撃したのかわからず、再び撃たれるかもしれないという緊迫した状況の中で、選んでいかなければならなかった。その中で、この目の前の人をなんとかしなきゃということで動きました。
今でも思いますが、出来ることならどっちもやりたい。私の中では報道するということが染み付いてますし、そのために危険とわかっている戦争の現場にいるのです。
よくジャーナリストは当事者になってはいけないと言いますが、なってしまうことだってあるのです。そのときにどうするか。私の場合は救助する側にまわりました。けれどももしそこで撮影するという人が出てきたとしても、それは間違いではないと思います。
私自身このときの行動で自分は「こういう人間だったんだ」と気付きましたが、その状況で撮影する方に動いた人がいてもそれは間違いではありません。
ただこれほど近い距離でできることというのは実は限られています。最終的に選択肢は限られており、私はカメラを置くしかなかった。だけど両方できたらと今でも思っています。どちらが正しいというのは決められないことです。
私は自分の行動をまったく後悔していません。このとき目撃したことの表現の仕方や伝え方は、例えば、今日のように語ることもできるし、その後、検証番組を作って「あのときの事件は一体何だったのだ」ということを含めて、番組の中で分析したり、本の中でふれたりしてきたことは、ジャーナリストとしての活動の役に立っています。
正解が決まっているものではないのです。それを忘れないでほしい。私たちが習う基本はありますが、現場、現場によってそこから先どう動くかというのはその場に居合わせた個人が決めなきゃいけません。どんな取材をしていても、自分の意思が必要になってくるので「こうマニュアルで決まっているのでこうしました」という考えに陥ってほしくない。
これからメディアの世界に就職すれば、基本として多くのことを教わります。それらを守っていくうえで、ケースバイケースで対応していかなければならない場面は、現実としてやってくる。そのとき自分はどうするのか、どうしたらいいのか、ということを悩みながら考えてほしいと思います。
■「イラク自衛隊事件」
イラクに派遣された自衛隊取材の制限についてです。当時、自衛隊が派遣されたサマワの宿営地の取材は制限されており、現地で申請してもできませんでした。ではそういうときにどうするかということを考えてみたいと思います。
たとえば取材許可が下りない理由として「自衛隊員の活動を報道することは隊員の安全を脅かすので自粛して下さい」となった場合、現地での取材をするのかしないのか。
2004年1月、戦後初の自衛隊の戦地派遣という報道がされ、各社各局ものすごい体制で自衛隊が現場に入っていく様子をリポートしました。「たった今現場に着きました」というように。私もその場にいました。
しかしその後、取材の許可が出なくなりました。そのとき許可がでないから取材をやめるのか、あるいは何とかして取材をするべきなのか、せめぎ合いがありました。
現地の安全状況が不確かでした。また現地は非戦闘地域ではあるけれども、危険なので邦人の退避勧告がでているおり、取材活動は控えてほしい、といった矛盾した主張がまかり通っていました。
そして、もう一つ、自衛隊の活動を報道することで隊員の安全が脅かされる可能性があるのでしないでほしい、という要請もありました。では、どうするのかということです。
結果として、サマワの取材はある一時期からできなくなりました。自粛してくれという要請に対して、報道機関が記者クラブを通じて、報道のルールを防衛省と取り決めてしまった。「自衛隊の安否に関わらないようにしましょう」というルールを決めてしまったのです。この場合、隊員の安全にかかわるかどうかの判断はだれが決めるのか、ということです。
当時の新聞記事を調べると、毎日新聞や朝日新聞では、自粛要請に対するルールについて「果たしてこれでよかったのだろうか」と検証する記事が書かれています。中立でなければいけない報道機関が、防衛省のルールに従うというのは、あってはならないことです。
ではなぜ受け入れてしまったのかというと、それに従わないと「他の自衛隊関係や防衛省関係の取材をさせないよ」という取引が生まれてしまったといわれています。その結果、報道機関が自粛し、萎縮した。これは根深いことで、残念なことだと思います。
結局現場で取材していたのは限られた人であり、イラクから自衛隊が撤退するときに現地で取材していた日本のメディアは、ジャパンプレスだけでした。それは先ほどの報道ルールで、現地に記者が入れなかったからです。
「じゃあフリーランスが入ればいいじゃないか」と思うかもしれませんが、ビザがとれなかったのです。ビザは在外公館に申請するのですが、「日本人に対してはビザを出さないでくれ」という要請があったと言われていて、私もそれは聞いています。イラク大使館の職員も驚いていました。
イラク大使館側は復興支援ということで日本から多大な協力を得ているので、日本という大きな後ろ盾に逆らうことはできないわけです。私は幸いにもビザが取れたから現地に入れました。そのため現地で取材していたのは私たちだけになってしまっていた。
テレビのニュース番組で現地からの生中継したので、「スクープだからよかったじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、むしろこれほどの日本メディアの汚点はないんじゃないかというくらい、考えねばならないことだと思います。数多くの記者の目があるほうがいいに決まっています。メディアに対する規制が当局からあったことに対して、メディア全体が戦えない事態が起きているのがマイナス点でした。
また情報の管理という面でも、防衛省から出てきた情報を流せばいいという考えもあるそうですが、では、「いいところだけを出そうとしている報道」では無いと言い切れるか。その点についても分析しなければいけません。
自衛隊や防衛省からすれば、彼らの中に撮影班や広報班がおり、その情報は彼らの視点です。彼らは自分たちの活動をアピールするための情報を出します。それが果たして本当に復興支援の実態を国民に伝えるリポートになっているのかというと、そうじゃない。
多かれ少なかれ、見せたくないものは隠します。触れたくないことには触れません。でも、なにが問題点なのかを指摘するために記者がいるわけです。
例えば、自衛隊はよく頑張ったという結果があった場合、それは記者が分析したうえで出てきたものであるべきです。広報側から出てくるのと、たとえ同じ結果だとしても信ぴょう性は全然違うのです。そこにジャーナリストが現場に行く意味があるのです。例え自衛隊が出してきた映像を使うにしても「自衛隊からの映像提供」と入れる。それを用いて新たな分析や見解を報道番組で加えるならば、資料の一つとして使う意味はあると思います。
当時の報道では、あるメディアはイラク自衛隊を「撤退」と表現し、別のメディアはイラク自衛隊の「撤収」という表現を使っていました。
私は撤退だと思います。名古屋地裁で違憲判決が出たように、自衛隊の海外派遣というのは憲法に違反しているという考えがあるからこそ、撤退という言い方が出てきたのだと思います。しかし、自衛隊や当時の防衛大臣は撤収と言いました。
撤収と言ったのは、自衛隊は「はい、お片付けしました」というイメージにしたかったのだと思います。私が撤退という言い方をしたのはこの組織の位置づけという理由のほかに、当時宿営地にロケットを打ち込まれたり、宿営地以外での活動はほとんどできていなかったりで、つまり、逃げるようにして出て行ったからです。そういう印象が強かった。でも彼らは逃げたと位置づけられたくないでしょうし、もともと撤退という文字は彼らの頭の中にはないのかもしれません。
逆に気の毒だなと思うのは、自分たちのやってきたことや位置づけ、ビジョンを明確に広報しきれていない点です。やってきたことをもっとオープンにして、これだけのことをやったと逐一国民に知らせていくべきでした。
非戦闘地域か戦闘地域かとか、自衛隊が違憲かどうかの問題があったので、彼らとしては出来るだけ現地で活動している存在を話題にしてほしくないというのがあったのではないかと思います。
しかし隠せば隠すほど「何かあるのでは」と人は思うし、つつきたくもなる。自分たちの活動を公にしなければ国民の理解を得ることはできないと思います。
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◆ 山本美香さんが学生たちに遺した「最期の講義」前編 「それでも私が戦争取材を続ける理由」 2012-08-25 | メディア/ジャーナリズム