耳かき店員ら殺害事件 死刑賛成が8割超の国民世論のなか、被告に無期懲役判決=裁判員裁判/判決文要旨

2010-11-01 | 裁判員裁判/被害者参加/強制起訴

〈来栖の独白 2010/11/01〉
 無期懲役という報道に接し、良かった、と温かい気持ちになった。裁判員の6名が、命や更生そして被害者感情に対し、真剣に向き合われた姿が如実に伝わってくる。
 死刑賛成が8割超という国民世論を反映して死刑が選択されるのか、と予想していたが、外れた。人や物事に、現場で直接に向き合うのと第三者でいるのとでは、対応が大きく異なるということだろう。京都大学大学院教授大澤真幸氏は、【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】の中で次のように言う。

 日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。

 ただ、これ(命について考える)をもって、だから裁判員裁判は良い、とは私は言わない。いずれ死刑を選択しなくてはならないような事案も出てくるだろう。その場合の裁判員の負うてしまう心の傷が案じられる。大きな傷を負う。おそらく、判決後の裁判員の人生を左右してしまう。職業裁判官でない一般のフツーの市民に、国がそのような人生を強いてよいなどとは、到底思えない。
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〈来栖の独白 2010/10/31〉
 裁判官は最高裁判所の提出する名簿によって政府が任命すると憲法上決まっており、任期や身分保障についても専門の裁判官のみを想定している。抽選的に選ばれた裁判員が裁判の審議、判決に裁判官と同じ資格で関与することは憲法違反ではないか、違憲の疑いがある、と元最高裁判事伊藤正己氏、香川保一氏らは言う。    
 一方、このような素人に裁かれることの苦痛を漏らす被告人も、いる。佐賀県唐津市の養鶏場で2009年7月に起きた殺人事件で、強盗殺人罪に問われ、佐賀地裁の裁判員裁判で求刑通り無期懲役の判決を受けた住所不定、元養鶏場従業員の小野毅被告(45=福岡高裁に控訴)である。「無期懲役判決の小野毅被告「審理尽くされたか疑問…プロの裁判官のみに裁かれたかった」裁判員裁判」と語っている。以下、ニュース記事より抜粋。

 裁判を終えた小野被告には、「審理は尽くされたのか」との疑問がぬぐえない。複数の裁判員から公判後の会見で、「評議の時間がもう少し長かったら良かった」「評議の間、考える時間が短いと感じた」などと発言があったことに、「審理が不十分で疑問点が未解決なのに、審理時間の短縮こそが目的であったのなら、残念と言わざるを得ない」と手紙につづった。
 公判では、被告側が争った罪名について、裁判員から直接の質問があったのは1回だけ。会見で裁判員が、「証言を聞いてすぐの質問では頭が回らなかった」「休憩を挟めば、質問できたかもしれない」と発言したことに、小野被告は「納得がいく審理ができないと感じたのなら、途中でも裁判員を辞退すべきで、そのために補充裁判員がいるのではないか」と疑問を示した。
 「裁判員は国民の義務との意見があるみたいだが、人が人を裁く責任も生じている。時間的、精神的問題で不十分と感じるなら、判決を下すことは必ずしも義務ではない。責任を放棄しては義務を果たしたことにはならない」とした。
 小野被告は、審理日程の短縮を目的に、裁判員裁判の導入を機に始まった、公判前に争点を絞るやり方にも不満を持ったという。「(養鶏場であった別の盗難事件について)異常な状態が事件の背景にあったことなど被害者が不利になる事柄まで、公判前整理手続きの名の下に除外されたという見方もできる。今までの裁判ではあり得なかったことではないか」との感想を話した。また、「プロの資質を備えた裁判官のみに裁かれたかったという思いはあります」とも語った。

 これらの論説や記事を見るにつけ、裁判員制度の危うさを感じないではいられない。命を値踏みしなければならないような(死刑が求刑された)事案は、裁判員にとって荷が重過ぎそうだし、被告人にとっては、何ら権能を有しない人からの宣告には、承服し難い思いが残るに違いない。
 「危うさ」には、種々あると思う。
 「司法制度改革の中核は、被害者参加制度である」と、安田好弘弁護士は言う。被害者が法廷で陳述するようになった。このことによって、法廷が、感情横溢する場となった。被害者・遺族が訴える切なる思いの前に客観的に判断する冷静さを維持できる裁判員が、どれだけいるだろう、と考えてしまう。公判前整理手続きにより、被告人の身上経歴など事件の深層にまで追及、審理される時間は極端に少なくなり、結果のみがクローズアップされがちとなった。被害者陳述は、その象徴的なものであり、「無惨なビデオ映像を前に、目を背ける裁判員」という報道も、よく耳にする。
 安田弁護士は、「〔両親が極刑訴え〕 感情ほど強烈なものはない. 私的化された死刑の中の被害者感情」のなかで次のように言う。

 皆さん方は、これまで死刑事件にかかわってこられておわかりと思いますが、事件を起こした人というのは、その起こした瞬間から、すでに自分の命を捨てています。1日も早く処刑されてこの世から消えることを彼自身は願っている。そういう中で、弁護人が一生懸命彼を励まし、一つ一つ事実について検証していこう、検察官が出してくる証拠について確認していこうよと呼びかけても、被告人からは「とにかく裁判を早く終わらせてくれ」と求められるわけです。そういうことを新しい法律が見越して、被告人がそういう状態にいる間に裁判を終わらせてしまおうというのが、この新しい法律の狙いです。ですから大道寺さんたちをはじめ、私たちが今まで死刑事件でたたかってきたことは、この裁判員制度の導入ということですべて禁止されてしまい「違法な行為」ということにされてしまったわけです。
「裁判員制度」の導入は徴兵制と同じ
 裁判員制度の導入によって、裁判に抵抗することは完全に不可能となりました。さらにこれに被害者の刑事手続参加が新しく法律化されようとしています。被害者遺族が検察官と同じ席に座って被告人や情状証人に直接尋問し、検察官とは別に求刑をすることが認められようとしています。検察官が無期懲役を求刑しても、それでは軽すぎる、被告人を殺してくれと、死刑を求めることができるというのです。そういう中で裁判はどうなるのかといえば、情状証人として出てくれる人もいなくなるでしょうし、被告人は、被害者からの尋問を避けるために、終始沈黙せざるを得なくなるわけです。被告人から弁明の機会を奪う、情状証人に援助してもらう機会を奪う、つまり、法廷は、被害者の復讐の場に純化されてしまうのです。
 すでに言いましたとおり、裁判は、公判前整理手続や新たな国選弁護人制度の下で完全に争う場面そのものが剥ぎ取られた上で公判が始まります。判決は市井の裁判員6名と裁判官3名の9名の多数決によって決められるので、当然社会の世論がそのまま裁判に反映されることになります。有罪無罪から始まって死刑か無期かに至るまで、多数決、つまり今の世の中にあふれている感覚がそのまま法廷で判決という形で実現されるということです。今の世の中では8割近い人が死刑を容認しています。マスコミの事件報道の氾濫により、殆どの人が治安が悪化していると思い込んでいます。さらに多くの人が犯罪を抑止するためには厳罰が必要だと確信しています。そういうものがそのまま法廷に登場するわけです。それだけでなく、被害者の訴訟参加によって被害者の憎しみと悲しみと怒りがそのまま法廷を支配するのです。法廷が煽情化しないはずがありません。感情ほど強烈なものはありません。感情に対しては反対尋問も成立しません。感情は理性を凌駕します。まさに法廷はリンチの場と化すのです。

 私が強く危惧する裁判員参加・被害者参加裁判の問題点は、被告人のこともさることながら、裁判員の将来である。
 1966年6月、静岡県清水市(現静岡市)で味噌会社の専務一家4人が刺殺体で発見されるという事件が起きた。従業員の袴田巌さんが逮捕された。この事件の一審静岡地裁の裁判官で有罪の判決を書いた熊本典道さんは、「無罪の心証があった」と告白し、現在、袴田氏の救済に人生を投げ打っている。心にわだかまりを抱いて、歩まれた重い人生だった。
 裁判員裁判の場合、どうだろう。死刑が求刑され峻烈な被害者感情に押される形で、永山基準を逸脱して、死刑を選択した場合の裁判員の将来はどうだろう。永山基準は、言う。「死刑は生命そのものを永遠に奪う冷厳な極刑で、究極の刑罰であることにかんがみると、その適用が慎重におこなわれなければならない」と。その深い憂慮の下に「極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」として提示した「基準」であった。
 人は変わる。とりわけ「感情」は移ろい易い。この世に、不変なものが果たして一つでもあるだろうか。世に言う「無常」とは、そのことを指しているのではないか。
 もしも、裁判員の一人でも、後になって「あの被告人に死刑を選択した」ことを後悔するとしたら・・・。取り返しはつかないのである。その後悔、傷を、一生背負っていかねばならない。それは、職業裁判官でない一市民には、重すぎるくびきである。このようなことを国は国民に押し付けていいものだろうか。
 死刑を取り巻く情報が国民に全くといって知らされていないことも、裁判員が判断する上で大きな障壁となる。およそ死刑とは何かも知らないで、確信ある判断は下しようがないのではないか。この夏、千葉元法相は、死刑廃止論者でありながら、苦悩の末に死刑執行命令書に判を押した。死刑囚の命を差し出すことで、法務官僚と一つの取引がなされた。処刑場の公開である。もとより不十分な公開に終わったけれど、これまでの法務行政を振り返るなら、画期的なことであった。
 最後に余談になるが、この10月から放映開始となった死刑囚と刑務官を描いた某テレビドラマ。処刑に臨む死刑囚の姿を、前手錠で映していた。収監されている行政施設が特定されていないが、もし名古屋拘置所であるなら、この姿は事実と異なる。名古屋拘置所に於ける処刑は、後ろ手錠()であるから。このように、現実と違っているために、首を傾げる情景は何箇所かあった。ドラマでは、病人でもない死刑囚が横になっていた。が、(名古屋拘置所の場合)死刑囚は、房内では正座か安座と決められている。横になるには、然るべく許可を要す。正座、安座の位置も、厳しく定められている。このドラマで私が抱いた不満は、「死刑囚は処刑までは自由に過ごせるのだな」との安易な感想を観る者に与えるのでは、という危惧であった。情緒的に描かれているのも、不快であった。ことほど左様に、「死刑」は、我々から隔たって、遠い。(私は「後ろ手錠」に拘らないわけにいかない。前手錠と違って、後ろ手錠が「犯罪者」の姿であると感じるからだ。勝田清孝が銀行の地下駐車場で逮捕され、引き起こされたときの姿は後ろ手錠であった)
 迂闊な私は、勝田清孝の受刑の知らせを受け暫くは(教誨師から知らされるまで)、前手錠で執行されたと思い込んでいた。坂口弘死刑囚の“後ろ手に 手錠をされて 執行を される屈辱が たまらなく嫌だ”(1996年4月発行『しるし』)との歌を読んでいながら。
 少年院送致となった少年事件以降、清孝は犯罪者の烙印を背負って生きた。113号事件により逮捕の直後からは「真人間」になろうと決意して、自ら7人殺害の大罪を自供した。私にも「今の俺は、お世辞も言いません。お世辞も、嘘やと思うから。嘘は、金輪際つきません」と言った。人間になりたかった。人間に立ち返った清孝である、と私は確信している。その人になお、官は後ろ手錠をかけた。死刑をしくじらずに成し遂げるためには、前手錠では万全でなかったのだろうが、最後の姿としては、酷くて辛い。人間の尊厳を侵すようで、受忍しがたい。

◇ 刑場〈厳粛な場〉と死刑執行の姿〈後ろ手錠〉
◇ 千葉法相、死刑執行命令書の威力
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耳かき店員殺害:裁判員「命の重さ考えた」
 苦悩した末の「選択」だった。裁判員裁判で初めて死刑が求刑された林貢二(こうじ)被告(42)に対する1日の判決公判。難しい判断を迫られた裁判員たちは、判決後の会見で「人の命の重さについて考えた」と口をそろえ、遺族への思いと被告の更生への期待の間で揺れた胸の内を明かした。【伊藤一郎、和田武士、長野宏美】
 「正直、しんどかった」「やればやるほど責任感みたいなものを感じた」。判決後、会見に出席した裁判員4人と補充裁判員2人は審理を終えた感想を問われ、一様に疲れたような表情で語った。
 検察側が裁判員裁判で初めて死刑を求刑した25日。女性裁判員は「あり得ると想定していたが、やっぱり動揺した」と打ち明けた。男性裁判員も「求刑自体は驚かなかったが、その後の評議は重くなっていった」と語る。
 評議は1日午前まで5日間続いた。30代の別の女性裁判員は「裁判員をやることで死刑の重さを感じ『そんなに簡単に死刑にできるのだろうか』という気持ちになった」。補充裁判員を務めた男性は「いろんな話をして、死刑の選択もあり得ると気付いたし、(一方で)生きる中で何かを見つけ出すのが人間じゃないかとも思った」と揺れた心情を吐露した。もう1人の補充裁判員は「裁判員制度でこういう事件が起きないことをただ願いたいなと思った」と述べた。
 1日午後3時半前、東京地裁104号法廷。裁判員や補充裁判員は全員が黒い服装で席に着いた。若園敦雄裁判長が主文を告げると、証言台の前に立っていた林被告は身じろぎもせず、何度もまばたきした。
 「こんなのやだ! 納得できない!」。閉廷直後、裁判員がいなくなった法廷に、殺害された鈴木芳江さんの妹の声が響いた。「こんなことってない! 絶対ダメ、ダメ!」。抱きかかえられるように法廷を後にした。
 会見に出席した6人によると、裁判員たちは極刑を求める遺族感情を目の当たりにして苦悩したという。男性補充裁判員は「遺族の身になろうと努めたことに間違いない。こういう判決になったが、遺族の方には少しでも希望を持って生活をしていってほしい」と気遣った。
 ◇検察幹部ら批判と理解
 判決後、死刑を求刑した検察のある幹部からは「これでは遺族が納得しない。被告の同情すべき点をくみ取ろうとし過ぎている」と批判する声も出た。
 一方で「死刑と無期の両方が選択肢としてあれば、やはり死刑を選ぶのには勇気がいるのでは」と一定の理解を示す声も。ある法務・検察幹部は「裁判官だけの裁判でもあり得る判決」と見る。ただし控訴については「検察も相当の覚悟で死刑を求刑しているので、よく検討する必要がある」と話した。【山本将克】
 ◇「何人殺せば死刑に」…江尻さんの父
 判決後、江尻美保さんの父(57)は弁護士を通じコメントを発表した。全文は以下の通り。
 この判決を聞いて、悔しくて涙も出ませんでした。この事件は、家の中にまで入ってきて、関係のない祖母まで殺害するという本当に陰湿で残虐な事件です。被告人に前科がなければいいのか、「自分なり」に反省を示せばよいのか、人間を2人殺してこんな判決でいいのかと思います。この事件で、無期になるのであれば、一体何人殺せば死刑になるというのでしょうか。
 また、判決の中では、検事の言い分を否定した部分もありましたが、その理由も明らかでなく、納得できません。
 検察官には、ぜひ控訴していただきたいと思います。
毎日新聞 2010年11月1日 21時36分
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耳かき店員ら殺害事件:地裁判決(要旨)
 落ち度のない被害者2人を惨殺した責任は極めて重大で、死刑か無期懲役かの選択が問われている。いわゆる「永山基準」に基づき、極刑がやむを得ないと認められる場合に当たるか議論した。
 犯行態様の残虐性、結果の重大性はいうまでもなく、審理・評議を通じて、被害者の苦しみや恐怖に思いをめぐらせた。遺族が極刑を望むのは当然で、その思いには深く動かされた。その上で、死刑選択の余地がないか徹底的に議論したが、極刑がやむを得ないと認められる場合に当たるとの結論には至らなかった。理由は次の通りである。
 まず、犯行に至る経緯と動機である。身勝手な犯行だが、被告は江尻美保さんに恋愛に近い強い好意を抱いていたからこそ、来店を拒絶されたことに困惑し、真剣に思い悩み、もう会えないとの思いから絶望感を抱き、抑うつ状態を悪化させ、強い愛情が怒りや憎しみに変化したことから殺害を決意するに至った(相手が自分の意に沿わなくなったから殺害したとする検察官の要約は不適当である)。
 このような心理状態の形成には、約1年間にわたって店に通い詰めていた被告と江尻さんとの表面上良好な関係が少なからず影響していることも否定できない。これらのことからすると、犯行に至った経緯や動機は極刑に値するほど悪質とまではいえない。
 次に、(祖母の)鈴木芳江さん殺害には計画性がなく、被告にとっても想定外の出来事であったということである。
 三つ目は、被告なりに反省の態度を示していることである。もっとも、被告が正面から事実と向き合い、本当の意味で反省を深めているとは認められない。江尻さんの気持ちを誤解し、一方的に感情を募らせて犯行に至ったことについて反省を深めるべきなのに、被告は恋愛感情という言葉の定義にこだわり、「恋愛感情は持っていなかった」「来店を拒絶された理由が分からなくて悩むようになった」などと述べるにとどまっている。
 他方、被告の言動や態度は、人格の未熟さ、プライドの高さなどに起因するもので、江尻さんの名誉や遺族を傷付ける意図は認められない。被告が事件を後悔し、被告なりに反省していることは相応に考慮すべきである。
 加えて、被告には前科がなく、20年以上勤続していた会社でまじめに働いていた。死刑を選択すべきかどうかという観点でみれば、やはり酌むべき要素の一つである。
 死刑は、人の生命を奪う究極の刑罰である。既に述べた事情なども考慮すれば、被告に対しては、この裁判を契機に、被害者の無念さや遺族の思いを真剣に受け止め、人生の最後の瞬間まで、なぜ事件を起こしてしまったのか、自分の考え方や行動のどこに問題があったのかについて、常に強くそれを意識し続け、苦しみながら考え抜いて、内省を深めていくことを期待すべきではないかとの結論に至った。
毎日新聞 2010年11月2日 東京朝刊
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取材ノート:死刑宣告 /福岡
 耳かき店の従業員と祖母が殺害された事件の裁判員裁判で、東京地裁は被告の男に対し、求刑の死刑ではなく無期懲役を言い渡した。一報を聞いて、知人の裁判官が以前、死刑の判決文を書き上げる際の苦悩を語っていたのを思い出した。
 裁判員裁判が始まる前の話。3人の裁判官全員の意見が死刑で一致しても、いざ判決文を書く段階になると、公判のさまざまな場面が頭に浮かぶという。被害者の遺体写真、遺族の悲しみ、被告の言い分……。評議の決定は覆らないが「これでいいのか」と筆が止まるという。
 プロの裁判官でも揺れ動く死刑宣告。裁判員の心労はいかばかりか。最高裁による電話相談窓口はあるが、厳しい判断を迫られるだけに、もっと心のケアに対する議論があってもいい。 毎日新聞 2010年11月4日 地方版
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1 コメント

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ごぶさたしてます (森 利行)
2010-11-02 22:00:46
ゆうこさん、ごぶさたしてます。お元気ですか? 初めての死刑求刑裁判員裁判、死刑回避となりましたね、ほんとうに良かったと思います。
 それにしても検察のロジックは相変わらず酷いものでした、なんとしても「死刑」判決の判例が欲しかったのだと思います。
 しかし、今回しっかりした裁判員に恵まれた被告は幸運だったのかもしれません。なにしろ無作為の6名の過半数で人ひとりを殺す事ができてしまう「歴史的悪法」なのですから、同じような事件でも「死刑」になってしまう可能性も充分に考えられますからね。
 願わくばこの判決が良い前例となって、死刑判決が激減することを祈るばかりです。

http://moritakuto.exblog.jp/11511710/
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