光市母子殺害事件 被告の話 大人は聞かず

2008-04-26 | 光市母子殺害事件

 http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/modoshi-kiyotaka.htm

「光市事件」 綿井健陽
 

2008/04/24 中日新聞

 「何度も自殺したいと思った。死にきれなかったけど。僕がやったことは少年事件なのに、少年として扱われていない。また、大人なのかというと、大人としても扱われていない。僕は人間の道を外れたことをしでかしたから、人間として扱ってもらえないことも仕方ないけど」 「光市母子殺害事件」で死刑判決を受けた「事件当時18歳の元少年」は今月3月1日、拘置所での接見に訪れた弁護人に対してこう答えた。
 そのとき彼はまもなく27歳の誕生日、そして判決の日を間近に控えていた。そして「ただ、今は生かされていることに感謝している」と話した。彼は昨年12月に送った遺族への謝罪の手紙の中でも、自分の立場を「生かされている」と表現する。
 昨年9月の差し戻し控訴審公判の被告人質問の中でも、弁護人から「そもそも君は生きたいと思っているのか」と聞かれると、「亡くなられた二人のことを思うと、生きたいとは言えません。ただよければ生かしていただきたいのです。すみません」と法廷で話した。
 元少年は父親の家庭内暴力を小学校のときから受け、同じ家庭内暴力を受けていた母親は、元少年が中学1年の時に自殺している。事件を起こしたとき、高校を卒業して水道設備会社に就職してわずか2週間目だった。そのとき18歳の誕生日を30日。
 逮捕されて以来9年間、警察の留置場、山口刑務所、広島拘置所の中で彼はずっと過ごしてきた。事件後に面会に来た父親からは最初に「死ね」と言われ、今では絶縁状態に近い。
 信頼していた実弟は事件後に失踪して行方不明。彼はいま自殺防止用の監視カメラと集音マイクがつく独房にいる。1時期は向精神薬を大量に投与され、その後も抗うつ剤や睡眠薬を飲んだり飲まなかったりという日が続く。
 多くのメディアと世論は、被害者遺族の男性の気持や発言を通して、この裁判の行方を見守った。だが、私は事件の事実関係をもう一度見直そうとする弁護側の活動に焦点をあて、そして元少年とも拘置所で面会を重ねた。何とか彼の心や情の部分を探し求めた。
 弁護側は昨年12月の最終弁論で「彼は今後どうやって生きていけばいいのか。彼に生きる道しるべを指し示す判決を」と締めくくった。
 だが、広島高裁の判決はこれとまったく逆の内容を強く示した。裁判長は「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見出す術もなくなった」と弁護側と元少年に対して告げた。
 事件当時18歳になったばかりの彼に対して、大人の側が彼の話を真摯に聞こうともせず、最初から反省や悔悟だけを求め、事件の実行行為や動機の事実を見つけようともしなかった。そして彼の生い立ちや人格に合ったさまざまな「術」を与えようともせず、探そうともせず、司法は最後に「術がなくなった」と結論づけた。これは大人の側の責任放棄としか言えない。
 「事件当時18歳の元少年」とメディアで称される彼は、いま少年でもなく、大人でもない。そして判決内容では、結局一人の人間としても扱ってもらえなかったに等しい。この判決からは、彼も私たちも、何かを教訓とすることはできない。彼の謝罪も、反省も、更生も、そして人生までも、司法はすべて死刑という「術」によって終わらせようとしている。
 
     綿井 健陽(わたい たけはる) フリージャーナリスト    
 71年生まれ。イラク戦争取材でボーン上田賞特別賞。光市母子殺害事件は、昨年の差し戻し控訴審開始から公判を傍聴・取材。月刊誌『創』で連載「逆視逆考」を掲載


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