能『定家』の物語 / 能楽『定家』が描く愛欲地獄

2015-01-03 | 本/演劇…など

能『定家』の物語
 神無月十日の頃のことです。未だ都に上ったことのない、北国育ちの僧が、一度は都を見てみたいと思い立ち、京の都へとやって参りました。
 都はといえば、冬枯れの木々にも名残の紅葉がところどころに残り、鮮やかに彩られており、折しも冬になるかならぬかの時雨の頃です。空模様が怪しくなり、上京(かみぎょう)という処に着いたころ、ついに雨が降り出してしまい、僧とその従者は、ちょうど近くにあった建物で雨をしのぐことにしました。
 しばらく雨宿りをしていると、どこからともなく手に数珠を持った女が現れました。
(女)「もうし、お坊様、どうしてこの建物にいらっしゃるのですか」
(僧)「時雨が降ってきたので、雨宿りをしているのです。そうお聞きになったということは、この建物はなにか特別な所なのでしょうか?」
(女)「ここは『時雨の亭』という名の由緒あるところです。そのことをご存知だったわけではないのですね?」
(僧)「なるほど、あらためて建物に掲げられた額を見ますと『時雨の亭』と書かれていますね。」
(女)「それは昔、藤原定家という貴族が建てたものです。洛中といわれていますが、昔から寂しいところで、今の時季…時雨の頃にはとても趣深い場所で、定家の卿は、ここに居を構えて、毎年歌を詠んでいました。ちょうどこの時季に、あなたさまのようなお坊様がここを立ち寄られたのも、何かのご縁でしょう。今は亡き定家卿の菩提を弔って下さい。」
 僧は、この話に興味を惹かれ、『時雨の亭』について、定家の卿という人について、さらに詳しく話をしてもらいました。
(女)「定家の卿はここで様々な歌を詠われました。ですから『時雨の亭』という名の由来は、定家卿のどの歌であるかはわかりません。ただ有名な〈偽りの なき世なりけり 神無月 誰がまことより 時雨初めけん〉という歌の詞書きに〈私の家にて〉とありますから、もしかするとこの歌に由来するのかもしれません。」
 僧は、とてもいい歌だと思いました。
 この世には、嘘偽りは多くありますが、時雨の時季になれば時雨が降る、これに偽りはなく。作者はすでに亡き人ではあるものの、定家卿がここで風雅を楽しんだ昔と同じように時雨は降っているのでしょう。
 そうしてみると、人というものは本当にはかないものです。ですが、この儚い世でこうして誰かと出会うというのは、〈一樹の蔭、一河の流れ〉というように前世からの因縁があるのでしょう。そう思うと僧は、この浅からぬ縁に心惹かれるものを感じました。時雨の亭の周りは今や荒れ放題で人の訪れもないのでしょう、時雨が去ったあとの夕暮れが、さらに寂しさを増しています。
 女はさらに、今日は供養するために行くところがある、と言って僧を案内しました。
 連れてこられた場所には、蔦葛が這い纏っている石塔があり、どうやら年月の経ったお墓のようです。
(僧)「ずいぶんと古いお墓ですね、これはいったいどなたが眠っているのですか?」
(女)「これは、式子内親王のお墓です。ここに這っている草は定家葛です。」
 どうやら先ほどの『時雨の亭』を建てたという定家と関係のある場所のようです。
(女)「式子内親王という人は、もともと賀茂の斎院を務められた方です。しばらくして、その任を退かれると、藤原の定家の卿と秘めた恋をし、契りを結ばれたのです。しかし、その後、内親王は亡くなられ、定家の卿は思いの深さゆえに執心が葛となり、お墓に這いまとっているのです。そのため、内親王も定家の卿も、成仏ができず苦しんでいます。どうか、お坊様、お経を読んで弔ってください。」
 僧は、その申し出を受けることにして女の話をさらに聞きました。
(女)定家と内親王は世間に秘めた恋でした。それもそのはず、内親王は後白河法皇の姫であり、定家は歌を詠む貴族にすぎません。ふたりの身分には大きな差がありましたから、世に認められるはずもないものです。 〈玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする〉と内親王が詠まれたように、絶え忍ばねばならぬ恋の辛さに、ふたりの心はやがて弱ってゆきました。いつしかその秘めた仲も人の知ることとなり、離れ離れにならざるを得なかったのです。内親王はなんと、悲しい女性でしょう。辛い恋などしない、とお就きになった斎院の位であったのに、神はその思いを聞いて下さらなかったのでしょうか。定家の卿との恋があらわになってしまったのは、本当に悲しいことでした。隠そうとしても、ふたりが恋仲であるという噂は、世間に広まってしまい、それを恐れるが故に、まるで太陽が雲に隠されるように、定家の卿の通い路も絶えてしまい、互いが苦しい思いをしたのです。定家の卿が〈君葛城の峰の雲〉と詠んだのは、手の届かぬ存在のたとえなのでしょう。この思いこそが執心を生み、定家葛となり、お墓から離れることなく、乱れた髪のように這いまとい、思い焦がれるかのように赤く紅葉するのかもしれません。」
 女はここまで話すと、僧に、どうかこの妄執を断ち切ってほしいと願い、姿を消しました。自分こそが式子内親王であると、云い残して……。
 この出来事を不可思議に思った僧は、近くに住んでいる都のものにこのあたりの話を聞くことにいたしました。
(都の者)「今はむかし、後鳥羽上皇の時代のこと、式子内親王という方が賀茂の斎院になりました。しばらくして、その位を下りられ、この近くの歓喜寺というところにお住まいになりました。そのとき、〈恋せじと御手洗川にせし御祓 神や受けずもなりにけるかな〉とお詠みになったのでございます。男性と恋をしないという心が込められております。しかしながら、定家の卿が内親王に恋慕し、忍びつつこちらへ通われたのです。その恋は秘めたものでしたが、やがて世間の知られるところとなり、定家の卿は通うのを憚られるようになりました。その後、内親王はこの世を去り、お墓はこの場所に築かれました。年月が経ち、定家の卿が亡くなられますと、内親王のお墓には蔦葛が覆い隠すほどに這い纏うようになったのでございます。近くのものたちがそれを取り除きますが、不思議なことに一夜のうちにまた元通りになってしまうのです。みなは気味悪がって、このことをとある位の高い人に相談いたしますと、その御方は夢でみたことをお話になりました。〈式子内親王のお墓に這い纏う蔦葛は、取り除くのではない。それは定家の卿の執心であり、もしこの後、それを取り除くようなことをすれば、祟りを起こす〉と告げたれたそうでございます。その後は、誰もその墓を触るものはなく、ただ、あの植物を《定家葛》といい、この建物を『時雨の亭』というと伝えられているのです。」
 都の者の話は、僧が不思議な女から聞いたものと同じでした。
(僧)「なるほど、先ほど、あの『時雨の亭』に立ち寄ると、どこからともなく女性が現れてそのような話をした。不思議なことに、その女性は、自分は式子内親王だといい、姿が見えなくなってしまった…」
(都の者)「なんということでしょう、お坊様は不思議な体験をなさいました。それは間違いなく、式子内親王が妄執にとらわれた亡霊の姿となって、あなたさまに助けを求めたのございましょう。どうか、お坊様、ここでありがたい読経をなさって、おふたりの執心をお弔いになってください」
 僧は、その言葉に、先ほどの女は式子内親王の亡霊であると確信し、弔いをしよう、と約束しました。
 荒れ野の原は、日が沈むと、なおいっそう恐ろしさが増します。
 月の光があたりを照らすと、時雨の名残の露が哀しく光っています。
 僧は、人の世の儚さを思い、読経をはじめました。
 すると、僧へ語りかけてくる声が聞こえて来ました。
 これは、式子内親王に違いありません。
(内親王)「夢なのでしょうか、月影の闇の路を、あなたの弔いの声を頼りにやってまいりました。思い出します、定家の卿もこうして、私の住まいへと闇に紛れて忍びつつ通ってきたものです。しかしそのような通い合った心もやがて、紅葉が散り散りになるように、薄れてしまいました。人の心は無常なものです。私の住まいもまた、無常なもので、このような荒れ野になってしまいました。しかしそれだけならばまだしも、私の墓は定家の妄執の葛が這い、私は成仏もできず苦しいのです。」
(僧)「なんとお痛わしいことだ。『仏平等説 如一味雨、随衆生性 所受不同』」
(内親王)「私はこうして苦しい姿でいるけれども、今のお経は私の心に響いてまいります。なんと有難いことでしょう。今のは法華経の薬草喩品ですね?」
(僧)「そうです、この教えによって救われない草木はありません、定家の執心によって苦しめる葛を払いのけ、どうか成仏なさいませ。」
 仏の慈悲は雨のように万物に与えられ、『草木国土 悉皆成仏』という言葉の通り、すべての衆生は成仏がかなうのでしょう。
 やがて纏わりついていた葛と涙とが、ほろほろと落ち、解け広がり、そこに内親王の姿が現れました。苦しみからやっと逃れられた内親王は、よろよろとした弱い足取りながらも、お礼に、と、
(内親王)「昔、宮中で華やかに過ごした有様を舞でお目にかけましょう」
 そう云って懐かしむように、舞いました。
 しかし舞終えると、今度は恥ずかしそうに、顔を伏せ涙を流し…
(内親王)「昔は私も、〈月の顔、桂の眉〉といわれるように美しかったものですが、この世から消えたのち、悲しくも定家葛に纏われ、醜いゆえに夜しか姿を現さぬ葛城の女神のようになってしまいました。私も女神にならって、夢の覚めないうちに、姿を隠しましょう。」
 そう言うと、内親王の姿は墓の影へと消えて行きました。
 見れば、またもとの通りに定家葛が墓に這い纏ってゆきます。
 ありがたいお経によって、内親王は成仏がかなったのでしょうか?
 あとには、時雨の露に濡れた寂しい荒れ野が残るばかりでした…。
(終わり)
 現代語訳 伊奈山明子・粟谷明生

 ◎上記事の著作権は[粟谷能の会]に帰属します  
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能楽『定家』が描く愛欲地獄 
 特集 能楽の扉を開く  観世清河寿 / 松岡 心平 (聞き手)
 nippon.com [2014.07.08] 

松岡心平 今回のテーマは「愛欲」です。
観世清河寿 人間の悲喜劇は、愛欲を抜きにしては語り得ません。現代社会にも十分通じるテーマだと思います。
松岡 能楽には、愛欲をテーマにしたさまざまな演目(※1)がありますが、今回は金春禅竹(こんぱるぜんちく)(1405-1470頃)(※2)作の『定家』を題材にして、能楽において愛欲がどのように表現されているのかを見ていくことにします。
観世 『定家』に描かれた男女の姿には凄まじいものがあります。室町時代(1336-1573)にこうしたドラマが生まれたこと自体が驚きです。
松岡 ここで描かれるのは、後白河法皇の三女で幼くして賀茂の斎院(※3)に選ばれた式子内親王(しょくしないしんのう1149~1201)(※4)と、当時最高の歌人として有名な藤原定家(ふじわらのていか1162~1241)(5)の死後も続く“ラブストーリー”です。神に近い存在の女性との許されない関係について、曲の中で内親王が「邪淫(じゃいん)の妄執」と語る通りの愛欲ドラマが繰り広げられます。伝承をもとに創作されたようで、年齢差などからも実話ではないという説もあります。
松岡 『定家』の舞台の中央には、二人の関係を暗示する存在として、定家の妄執が蔦葛(つたかずら)となってまとわりついた内親王の墓が置かれています。この蔦が“定家葛”と呼ばれるものです。旅の僧が通りかかると里の女(実は内親王の霊)が現れ、生前の恋と死後も自分を縛り続ける妄執について語り、「成仏したい」と救済を頼みます。
観世 演者としては、もだえ苦しむ内親王の苦悩を伝えなくてはなりません。呪縛が解けない状態ではあまり動かず、定家の怨念がいかに激しいかを演じます。その業(ごう)の深さを通して、一人の女性の弱さを表現します。
 僧が供養するために読経を始めると、少しずつ身体を動かし、次第に自由になっていく様を見せます。そしてこの演目の見せ場である報恩の舞(序の舞)を舞うのです。この舞も解放の喜びを体中にみなぎらせた舞というよりは、どこか抑制された感じで舞わなくてはなりません。
松岡 定家との情熱的な思い出、その後の苦しみ、読経の功徳によって内親王にもたらされた解放感。こうした内親王の心の動きがこの舞を通して観客に伝わってくる場面ですね。しかし、舞を終えた内親王は再び墓に戻ろうとします。
観世 内親王が愛欲地獄から抜け出したわけではなかったことを暗示する極めて重要な場面です。解放されたかに見えた内親王が再び定家の妄執に囚われていく過程を示していきます。
 同じ男女の愛欲を扱った作品でも、『井筒』のような世阿弥作の能であれば、一番華やかだった時代を思わせる美しい舞を舞わせて霊を慰め、供養してあの世に送り返して終わります。しかし、『定家』はそうではありません。いったんは呪縛が解けたと喜びの舞を舞わせるのですが、結局、内親王は墓に戻り、再び定家葛が這(は)い回ってついには墓を覆い隠してしまいます。
松岡 悩みに悩んだ末に、内親王は成仏よりも定家の妄執を選んでしまったというわけですね。愛のためにあえて堕(お)ちることを選んだ内親王の心の葛藤が見る者を重苦しい気分にさせて、『定家』は終わります。
観世 内親王は定家葛に身を絡めとられるのが、嫌ではなかったと思います。「ともに邪淫の妄執を」と言っています。一度は解放されたのに自分の住む世界はそこしかないと定家葛がまとわりつく墓に戻っていくのですから、彼女は愛欲地獄が好きなのでしょう。
松岡 片思いではないですね。「ともに邪淫」なんです(笑)。若い頃はこうした女性心理はなかなか理解しづらいでしょうね。
観世 若い頃、『定家』を稽古している時、父(先代の家元、二十五世観世宗家・観世左近元正)から言われた言葉を今でもよく覚えています。最後に墓に戻り扇で顔を隠して崩れていく場面で、父は「美しく、華やかに終わるように」と言うのです。
 旅の僧に弔ってもらい報恩の舞を舞ったにもかかわらず、また定家葛に捕まってしまう。墓から離れれば悟りの世界に行けるのに、彼女はあえて永遠に解脱できずにもがき苦しむ道を選ぶ。それなのに、どうして父は「美しく、華やかに」と逆説的なことを言うのか。当時の私には全く理解できませんでした。
松岡 あえて言えば、堕ちていく快楽とでも言うのですか。神に仕える神聖な自分と、愛欲に溺れる自分がいて、結局は肉欲の方に傾いてしまう。女性としての欲望を抑えなくてはならないのですが、それが弾けてドロドロとした世界に舞い戻っていく。
観世 非常にダークな世界だと思います。だから正直言って、若い者に稽古はつけられません。「邪淫って何ですか」と聞かれても、言葉に詰まってしまいます。師匠としては、お前たちにはまだ早いと(笑)。
観世 それにしても『定家』は発表当時としては、かなり前衛的な内容だったと思います。
松岡 禅竹は当時の一流の歌人、連歌師、僧侶(※6)などと親交が深く、時代の最先端を行く教養人として知られていました。能楽の演目の他にも、哲学的な能楽の理論書を数多く著しています。そうした幅広い教養があってはじめて、『定家』のようなアバンギャルドな作品を書くことができたのだと思います。
観世 そこで一つ疑問が生じるのです。『定家』の中で、旅の僧が霊を供養するために唱えるのは法華経です。仏典の中で最高の教えとされるこの経によって救済されず、また愛欲地獄に堕ちていくというのは、ある意味、法華経の否定にもなりかねません。法華経の否定は中世において、あってはならないことだったと思います。能楽の演目でも『通盛(みちもり)』(※7)のように法華経の功徳によって救済される演目が多いですから。それを否定したら、能楽自体が成り立たないような気がします。
松岡 禅竹は仏教を否定しているのではなく、別の仏教の教えを信じていたのだと思います。彼は歓喜天(※8)信仰がとても強かった人です。歓喜天は欲望を抑えられない人々に対しては、まず願望を成就させて心を鎮め仏法を説くとされています。当然、性愛も否定せず、むしろエネルギーを高めるために積極的に活用します。こうした教えは江戸時代になると邪宗として排除されてしまいますが、禅竹の時代にはやましい教えではなかったのです。
 禅竹は60歳を過ぎて、奥さん、つまり世阿弥の娘と一緒に歓喜天信仰の寺に参籠するのですが、祈願したのが精力の回復なのです。もう一度奥さんとセックスをしたいと祈っているんですね。それを真面目に書き残すのが禅竹らしくて微笑ましいのですが…。
観世 そんな禅竹ですから、性愛の行為をけがれたものとして考えていなかったのですね。
松岡 定家だけでなく式子内親王もまた、優れた歌人でもありました。ですから、禅竹は定家と内親王を「歌道の菩薩(ぼさつ)」としてあがめ、二人をたたえるために、『定家』を書いたのだとも言えます。
観世 父が内親王の堕ちていく姿を「華麗に演じろ」と言ったのは、そうしたことを踏まえての上だったのかもしれません。
(※1)^ 愛欲をテーマにした能としては、紀有常の娘と在原業平の関係を描いた『井筒』、『源氏物語』の登場人物「六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)」を題材にした『野宮』などが知られる。
(※2)^ 室町時代の能役者・能作者。世阿弥の女婿。『芭蕉』や『楊貴妃』などの能を作るとともに、歌道や仏教の造詣が深く、『六輪一露』や『明宿集』など思索的な能楽の理論書も著す。現在の金春流中興の祖。
(※3)^ 京都の賀茂神社(現在の上賀茂神社・下鴨神社)に仕えた天皇家の未婚女性。平安初期に始まり鎌倉時代まで歴代35人の斎院がいる。また「禁じられた恋」の対象として「伊勢物語」などの平安文学に登場する。
(※4)^ 後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の娘)、高倉天皇は異母弟。歌人としても有名で「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする」(新古今和歌集)は百人一首に入っている。
(※5)^ 平安末期から鎌倉時代の日本を代表する歌人。『新古今和歌集』や『新勅撰集』の撰者。歌風は絢爛・巧緻を極める。歌論書を数多く著す。日記に『明月記』がある。書家としても優れ、後世、その書風は定家流として珍重された。
(※6)^ 禅竹と親交があったとされるのは関白太政大臣で歌人としても有名な一条兼良(1402-1481)や連歌師で俳諧の祖といわれる山崎宗鑑( -1540頃)、とんちの「一休さん」のモデルとしても知られる禅僧の一休宗純(1394-1481)ら。
(※7)^ 平家物語の登場人物、平通盛と妻の小宰相局(こさいしょうのつぼね)の最期を脚色した能。源平の戦いで滅びた通盛は僧の回向で成仏できたことを喜び、消え去る。
(※8)^ ヒンドゥー教の象頭人身の神ガネーシャが仏教に取り入れられ天部(守護神)となったもの。歓喜天または聖天男女の神が抱き合っている像が多く、日本ではほとんどが厨子に納められ秘仏とされている。
■観世清河寿 KANZE Kiyokazu
 二十六世観世宗家。1959年、二十五世宗家観世左近元正の長男として東京に生まれる。4歳で初舞台を踏む。90年、家元を継承し、二十六世観世宗家として、現代の能楽界を牽引する。1995年度芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。99年、フランス芸術文化勲章シュバリエ賞を受賞。2012年度芸術選奨文部科学大臣賞、2013年第33回伝統文化ポーラ賞大賞を受賞。2014年元日、「観世清和」より「観世清河寿」に改名。重要無形文化財(総合指定)保持者、(一財)観世文庫理事長、(一社)観世会理事長、(一社)日本能楽会常務理事。(独)日本芸術文化振興会評議委員。東京芸術大学音楽学部講師。著書に『能はこんなに面白い!』(小学館)、『新訳風姿花伝』(PHP研究所)など。

 ◎上記事の著作権は[nippon.com [2014.07.08]]に帰属します  *着色は来栖

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名古屋能楽堂 3月定例公演  

    

「秀吉と能」 ― のふにひまなく候 ― 名古屋能楽堂 3月定例公演
日 時: 平成27年3月7日(土)13:30開場 14:00開演
演 目: 狂言「柑子(こうじ)」(和泉流)/シテ 野村又三郎
      能「定家(ていか)」(観世流)/シテ 久田三津子  
 秀吉が内裏で催した前代未聞の大イベント、文禄二年の禁中能。その二日目に演じられたのが能〈定家〉である。式子内親王と藤原定家の忍ぶ恋を描いたこの能で、秀吉がシテの式子内親王を、秀吉の近習・下村徳左衛門がワキの僧をつとめた。間狂言は、これも秀吉の近習であった岩井弥三郎。笛は伊藤安中、大鼓に名手として知られた樋口(ひぐち)石見(いわみの)守(かみ)、小鼓に金春座の大蔵道意といったプロの囃子方。秀吉やその近習という素人とプロの囃子方がそろって舞台に立ち、演じること、それを観ることを楽しむのは、当時すでに標準的な能の愛好のスタイルであり、今日に至るまで続いている。
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