福島瑞穂さん、安保論をちょっとは勉強して/小沢流安保論の面白さ(2009年THE JOURNAL)

2012-08-12 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

福島瑞穂さん、お願いだから安保論をちょっとは勉強して下さい! —— 小沢流安保論のどこが面白くどこが問題なのか?
【高野 論説】《THE JOURNAL》2009年3月2日07:20 高野孟
 今日の日経によると、民主党の小沢一郎代表の「第7艦隊だけでいい」発言について、28日開かれた社民党の全国代表者会議で地方幹部たちから「防衛力強化を狙っている」などの批判が噴出、それを理由として総選挙後にありうると目されている民主党との連立も「決してしないほうがいい」との意見も出たという。
 前号で指摘したように、このような社民党からの批判、政府・自民党による批判、さらに新聞各紙の社説の論調にも共通する致命的な欠陥は、在日米軍を減らせばその分だけ日本の防衛力を増やさなければならないという二者択一的な固定観念を前提として論じていることである。
 繰り返しになるけれども、在日米軍も日本自衛隊も冷戦華やかなりし中での「旧ソ連の上陸侵攻に日米共同で対処する」ことが日本防衛の主シナリオであった時代と大筋において兵力・装備・配置を変えていない。そこで今日、その旧ソ連の脅威が基本的に消失した後で、別の(つまり北朝鮮や中国の)脅威があるとして、その脅威の量が減っているなら、日米両軍とも軍縮することが可能である。量は別にしても、(北や中国が日本に上陸侵攻することはあり得ないから)脅威の質が違ってきているという場合には、日米両軍の兵力・装備・配置の質も大きく改編しなければならないが、その改編に伴い両軍の質は強化されるが量は削減されるというケースもないとは言えない。例えば、北のミサイル攻撃と中国の海軍力増強に対処するということになった場合、米軍は第7艦隊を前面に立てて海兵隊をグアムに下げ、自衛隊は陸上自衛隊を大幅に削減して海空に重心を移すといった選択があり得る。いずれにしても、在日米軍が削減されれば自衛隊が増強されるに決まっているというような機械的なトレードオフの問題ではない。
 確かに、これも前号で述べたように、今回の小沢発言は、遊説先の立ち話のような形で、防衛の何たるかの最低常識も持ち合わせていないような番記者に持論の一端を語ったもので、説明不足は否めない。が、小沢はこれまでにもさんざん安保論を語っているし、私にしてみると、冷戦終結直後から日本防衛のあり方について繰り返し論じ、旧社会党が田辺誠委員長だった時代に上原康助議員を座長として組織された同党の安保政策議論に多くの論客と共に参加し、95年から96年にかけては旧民主党結成に向けた政策議論に参画する中で、小沢の安保論についてはほとんど論じ尽くしてきたので、今更こんな幼稚なレベルで小沢安保論への批判が出回るという状況そのものがビックリである。
 そこで今回はまず、古い話になるが、小沢が新進党党首時代の96年6月初めに「サンデー・プロジェクト」に出演して安保論を語ったことをきっかけとした長い論説記事をインサイダーのアーカイブの中から掘り出して再録する。私が上述の社会党の安保政策論議に加わっていた頃はまだ議員でも社会党員でもなかった福島瑞穂さん、お願いだからまずこの13年前の私の記事を読んで、それから少しでいいから安保論議の今の到達点について勉強して下さいよ。
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<INSIDERNo.364 1996年6月15日号より再録>
 論争:集団的自衛権——小沢流安保論の面白さ 
 新進党の小沢一郎党首は6月2日のTV朝日「サンデー・プロジェクト」に出演して、4月日米首脳会談による日米軍事協力の強化とそれに関連する“集団的自衛権”の問題を含めて、彼の安保論を展開した。それは正直に言ってかなりレベルの高いもので、彼を、冷戦思考から抜け出られない自民党のタカ派や外務省の日米安保至上主義と同質視するのは間違っている。
●安保論の3極化
 すなわち(1)自民党内では、冷戦型の敵対的軍事同盟である日米安保条約の継続を自明の前提として、その下での日米の共同軍事行動を「日本有事の際の米軍来援」から「極東有事の際の日本支援」へと拡張するために“集団的自衛権”の概念を活用せざるをえないが、その場合に集団的自衛権の発動による自衛隊の対外軍事行動を後方支援など非戦闘行為に限定すれば憲法に抵触しないと解釈するか、実際には戦闘・非戦闘の区別など無意味なので必要なら憲法を変えるべきだと考えるか、という2つの流れがあり、前者が主流になっている。
 それに対して(2)小沢は、日米安保の下での集団的自衛権の発動による日本の対外軍事行動は国権の発動としての対外戦争を禁じた憲法に背馳するとしてこれを原則的に否定する一方、将来創設される国連警察軍もしくはそれが出来るまでの過渡的形態である国連決議に裏付けられた多国籍軍に積極的に参加することは、国権の発動ではないので憲法に抵触しないどころかまさに憲法の理念に合致するのであり、その多国籍軍参加の場合に国連憲章42条および51条に言う集団的自衛権の概念を準用することはありうると主張する。
 この小沢の論は、後に詳しく検討するようにいくつかの問題点を含んでいるものの、自民党=外務省の冷戦後遺症に対する脱冷戦の立場からの批判として一定の有効性を持っており、その限りにおいて、(3)リベラル的見地からの「普遍的安全保障」もしくは「協調的安全保障」論と部分的に一致し部分的に競合する関係にある。つまり、(1)自民党的な冷戦思考の延長上での安保観を乗り越えようとする場合に、(2)小沢流の新保守主義的な論理と、(3)旧社会党改革派の普遍的安全保障論やさきがけの国連安保常任理事国入り慎重論に見られるリベラル的な論理とがあって、それは、鳩山新党の結成によってこれからようやく明確になろうとしている政界の“3極化”と照応している。
●未整理な船田の議論
 (1)と(2)(3)は対立関係にあり、(2)と(3)は(1)を乗り越えようとする限りにおいて競合関係にある。ということは、小沢と自民党タカ派の保・保連合は少なくとも安保観をめぐっては成り立ち得ないということになる。他方、鳩山由紀夫の新党づくりのパートナーと目されている新進党の船田元が次のように言って、鳩山らと安保問題で一致出来るかどうか分からないとためらいを見せているのは、彼の頭の中でよく問題が整理できていないことの現れと言える。彼は『現代』7月号の「小沢一郎党首に申し上げる」でこう書いている。
「集団的自衛権の行使について、私は小沢党首のように集団的自衛権を憲法改正なしに解釈の変更だけで認めるなどというのは、極めて乱暴な議論で到底容認できないと考えている。かといって、社民・さきがけのほとんどの人々のように『集団的自衛権は憲法でも許されていないし、許す状況をつくるために憲法を見直す議論をすることさえいけない』という立場も取らない。この問題は国民の見える場所できちんと議論し、合意が得られれば憲法を改正することで集団的自衛権行使を認め、日本の安保政策を一人前にしなければならないというのが私のスタンスである」
 まず彼は、自分の党首の提起していることをよく理解していない。小沢は、日米安保条約ベースの日米軍事協力を極東有事対応にまで拡大する場合に集団的自衛権の概念を適用すべきだとは言っていないし、それが憲法の解釈変更で可能だとも言っておらず、むしろそういう自民党的な議論は「間違っている」「危険だ」と明言している。そうではなくて、国連ベースの制裁行動として多国籍軍に日本が参加する場合に集団的自衛権の概念を準用することが可能で、その場合には憲法の理念と余りにも合致していて解釈変更さえ必要がないくらいだと主張している。とすると船田が「憲法改正で集団的自衛権の容認を」と言っているのは、日米安保条約ベースでの集団的自衛権の容認のために憲法改正を辞さないという自民党タカ派の議論と同化してしまう。それでは彼がリベラル結集の一角を担うことにならないのは当然のことで、彼には、一旦は小沢の安保論のレベルにまで到達した上で、さらにそれをリベラル的に克服する議論に参加することが求められるのではないか。
●小沢のサンプロ発言
 そこでまず、小沢の言っていることを先入観なしに聞いてみよう。彼が6月2日のTV朝日「サンデー・プロジェクト」で田原総一朗の質問に答えた内容を要約すると以下のようになる。
——小沢さんが3月にこの番組で、現在の憲法でも集団的自衛権の行使は可能だと言った時には、冷戦が終わったいま、時代感覚とギャップがあると感じた人が多かった。
「それは、共産主義が崩壊して冷戦が終わって、これでめでたしめでたし、みんな仲良く平和に暮らせると思ったのだろうが、2大強国によるそれなりの秩序が崩れて、もろもろの宗教的・民族的・国家的紛争が出てくる。ユーゴ内戦も、フセインの侵攻もある意味でそうだ。だからそれをきちんと国際社会の共同の責任で、国連中心にして抑えていくことを考えなくてはならない」
●国連の平和維持に参加
——クリントン大統領が来て「極東有事」ということが言われ、政府でもしきりに議論されているが、これを小沢さんはどうイメージしているか。
「極東有事というところだけが取り上げれられるが、ぼくの議論はまったくそうではなくて、日本国憲法は『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持しよう』『我らは平和を維持し……ようとている国際社会において名誉ある地位を占めたい』と、自国のことだけ考えていてはダメよ、他の国のことも考えなさいと謳っている。だから日本が平和に暮らしていくためには、世界の国々と仲良くすること、世界全体が平和であることが絶対条件になっている。だからこれまでのように主権国家、独立国家としての論理……主権国家である以上は自衛権がある、自衛権には集団・個別の両方あると、こういう議論から入っていくのではなくて、これはすでに日本国憲法の理念から言えば古い考え方であって、日本国憲法はそういう主権国家の個々の議論ではなくて、世界中がみんなでまとまって平和を維持していこうという議論だから、言ってみれば、世界連邦、地球国家という理想を描いているわけだ。そこで機構として国連があるわけだから、それに日本は積極的に参加する。加盟申請書にも『あらゆる手段で協力する』となっている。そういう意味での世界に対する日本の責任は九分九厘、民生上の問題で、安全保障はごく一部でしかない。だけど民生上の問題はいくらやっても問題にならない。問題になるのは安全保障の部分だから、そこはきちんと認識しておいたほうがいいと私は主張している」
●多国籍軍参加の論理
——国連中心で行くのはいいが、国連軍はまだ出来ていないから、湾岸戦争の場合のように多国籍軍ということになる。そこに日本は……。
「ですから、そこへ行く前に、まず国際社会に参加するのだという論理をきちんと国民が認識し、政治の場で議論しなければいけない。これなしに、すぐに集団的自衛権とか、やれ日米安保の問題を無原則に拡大していこうとする傾向がある。それはいけないと僕は言っている。日本国憲法は戦争を放棄した。ではどうして平和を守るかというと国際社会で協調して守っていく。国連憲章も武力行使は禁止して放棄している。しかし共同の利益を害する行為、あるいは侵略行為、犯罪行為に対してはみんなで安全保障措置、強制措置をとろう。これが国連軍になるわけだが、これにはわれわれは全面参加する。これは憲法で許されると言うよりも憲法の理念そのものだと私は思うのですが、ここの議論をまずやって、それがいいとなってから、では国連軍というのは完璧な形で出来るかどうかという議論に移っていく。ここがまだはっきりしないで有事の際にどうだこうだと言っても意味がない。ただし実際の軍事力行使という場合に、今までも憲章42条に至るまでの手続きの完璧なものは出来ていない。[そこで多国籍軍を作るとなった場合に]それをどう考えるかという問題になってくるわけで、私共はこれに2つの考え方があると。1つは、完璧なものではないけれども、これは国連の平和活動だと国際社会が認知したものは認めるという立場に立てば[集団的]自衛権の論議は要らなくなる」
——そうするとこの前の湾岸戦争の時の多国籍軍は……。
「安保理で決議し、国際社会でフセインの行為は侵略だと認めたのだから、これは完璧に国連軍ではなかったけれども、国際社会の共同の作戦だった。ということならばこれでいいと認めれば、これは1つの筋道だ。しかしもう一方は、これは手続き上完全なものではないから、やはり国連軍と同じように見るわけにはいかないという論議に立つと、それではどういう形で国際社会の役割を果たすか。そこに集団的自衛権の論理を援用することによって、もちろん何でも出来るわけではなくて、前提は国際社会の共同の平和活動ということだが、それに参加する。その2つの考え方がいまあると思う」
●自民党の議論は危険
——日米防衛協力のガイドラインを見直すについて橋本首相は従来の憲法解釈の中で波風立てないようにやろうということになってきたが、これをどう思うか。
「こういうやり方は反対です。非常に危険だと思います。要するにさっき申し上げたような憲法上のきちんとした議論と認識なしに、アメリカから勧められてからこうするとかああするとかいうのは非常に日本的なやり方だが、非常に危険でよろしくないと思っている。なし崩し的、場当たり的、泥縄的で、こういう事態にその時その時対応して、極東の範囲を拡大するとか日本の役割を拡大するとかいう形になると、余り例はよくないが、例えばベトナム戦争のようなものにも日本は参加できるのかという類の誤解を、あるいは可能性を開くことになってしまうわけで、僕はあくまで日米安保は基本的に2国間の条約であって、直接的な日本に対する脅威がない限りは共同行為とならないわけで、そういう意味で拡大解釈は危険だと……」
——そうすると、極東有事に日本は何をするか、後方支援くらいはやるとかいう話は……。
「そういう切り口が間違いだ。極東が有事だとかいう議論の入り方が逆なのだ。極東であれどこであれ、世界の平和を乱すような行為が起きて、それに対して国際社会が侵略だ犯罪だとみなせば、共同の制裁行為がある。それが基準になるのであって、その時は日本は全面的に参加する。しかし、ベトナム戦争は国連や国際社会で認知された行動ではなく、南ベトナムとアメリカとの集団的自衛権の問題だった。こういうものは日本は参加できないと言えばいい。ただし、極東でどこかの国が平和を乱すようなことをして、それが国際社会で侵略だと認めたら、こういうケースがどうのこうのという問題ではなくて、日本は参加する。ただ、それは日米安保と矛盾しないかという議論をする人がいるが、矛盾しない。なぜならアメリカももう今後は国際社会の世論に逆行するような大規模な軍事行動は出来るはずがない。やはり国際世論をバックにして平和を乱す侵略的、犯罪的行動に対する制裁であって、それに日本も参加するのだから、結果的にアメリカと共同行動するかもしれないが、それはアメリカとの共同行動ではなくて国際社会全体の共同行動である。アメリカが全く独自で勝手な軍事行動をとる場合に日本はそれに参加する必要はない。今それがごっちゃになっている」
●邦人救出には反対
——小沢さんが集団的自衛権についてこの番組で語ったら、朝日新聞が社説で集団的自衛権に踏み込むことは海外での武力行使に道を開くことになる、アメリカの戦争に日本が巻き込まれる可能性があると書いたが、これはどうか。
「私の主張をまったく理解していない。国際社会の平和を乱す行為に国際社会が強制行動をとる場合に参加する。その時国連の機能が完璧ならば、さっき言ったように個々の自衛権の論議は要らない。例えば日本の国内で誰かが殺人を犯したからといって、普通の人がだからお前を処刑するというわけにはいかず、必ず警察が、司法が判断する。それと同じように、日本が勝手にやってはいけない。だから僕は日米安保の無原則ななしくずしの拡大解釈はいけないと言っている。だから朝日新聞のその論調のように、憲法論議をごまかして徐々に拡大していくというのは危険だ」
——いま政府はガイドラインを見直して、米軍が出動した時に邦人救出から後方支援までのグレーゾーンの部分を変えようとしている。
「政府は旧来の解釈をそのままにして、実態を拡大しようとしている。政府の従来の解釈で言えば、戦闘行動が予想される地域で邦人が孤立しても、武力行使は禁止だから救出は出来ない。死んでも仕方がないということだ。それをきちんと憲法解釈をしないで、邦人救出が大事だからとかなんとかいう名目でやるとすれば、それは戦前の軍部がやったことと同じ論理になってしまう。邦人救出、権益確保と言ってどんどん軍隊を派遣したわけだ。それは非常に危険だ」
——小沢さんは、本当は今の憲法は変えたほうが言いと思っているのか、変えないほうがいいと思っているのか。
「変える必要はないと思う。補足する必要はあると思うが。平和原則と平和主義と憲法の理念は変える必要はないと思う」
——小沢さんは政府の言うグレーゾーンなんて甘っちょろい、もっとドーンと集団的自衛権に踏み込んでしまえと思っていると一般の人は見ているが、これは誤解なのか。
「まったく今のやり方、発想は賛成できない」
●補足的な質問
 この番組では質問者は田原1人に限定するとの条件だったので、終了後に控え室で10分間ほど高野が補足的な質問をしてやりとりした。
——今日の小沢さんの話だと、ほとんど一致してしまうので私は困ってしまう(笑)。ただ決定的に違うのは、多国籍軍のところだ。湾岸戦争にしても結局のところ本質はアメリカの戦争であったわけだし、米英仏を中心とした参加各国の国権行使を束にしたのが多国籍軍であって、いくら国連が追認したとはいえ、安保常任国でさえもソ連と中国は参加していない。だから小沢さんは先ほど2つの道筋のどちらかで多国籍軍に日本「参加する」と言ったが、もう1つ「参加しない」という選択肢もあるはずだ。
「うーん、それは[議論としては]あるだろう。ただ、これは私も知らなかったのだが、旧公明の冬芝議員が教えてくれたところでは、国連憲章のずっと後ろのほうの106条に、国連による共同行動が出来ないあいだ常任5カ国が責任をもって対処するということがちゃんと書いてある」
——それは知らなかった。しかし常任の大国主導の運営に第3世界からは大国エゴだという批判が根強くあるのだから、そのあいまいさを避けるには国連警察軍をちゃんと作ることが先決だ。
「私は、自分たちが政権を持ったら率先してそれに取り組むと言っている」
——自衛隊の3分の1を削って、それをそっくり国連に差し出せばいいと思う。
「そうそう、それは賛成だ」
——えっ、賛成なんですか。弱ったなあ(笑)。それから、さっきのお話では、邦人救出は、やるなら憲法を変えてからやるべきだ、憲法を変えないならやるべきでない、というふうに聞こえたが……。
「私は“極東有事の際に邦人救出”という概念そのものに反対なのだ。邦人であろうと誰であろうと、極東であろうとどこであろうと、救出を求めている人たちがいれば、国連として救出しなければならず、国連がやる以上、それには日本も参加するということでなければならない」
——そうすると、日米安保に基づく集団的自衛権の発動の対象として邦人救出を挙げるのは間違いということだ。
「日米安保は2国間条約だから、日本が(侵略の)脅威に晒された時に米軍と共同行動するのは当然だが、日本にとって脅威がない時に米軍の極東での行動に日本が一緒にやらなければならないということはない。米軍と一緒でも、日本単独でも、自衛権の名による邦人救出のための海外軍事行動はありえない」
●憲法と国連
 冷戦が終わった以上、日本国憲法と国連憲章の初心に立ち返って、新しい安保論議の枠組みを作り出さなければならないという基本認識において、小沢とリベラル派は一致している。高野はかつて旧社会党改革派を中心とする「普遍的安全保障」構想の議論に参画する中で多くを発言してきたが、その一例は本誌No.250(92年5月1日号)の特集「日本国憲法と国連」である。新しい読者のためにその要点を再録すれば……、
▼1946年6月の国会での憲法提案理由説明の中で吉田茂首相は第9条について「かくして日本国は永久の平和を希求し、その将来の安全と生存を挙げて、平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであります」と述べ、さらに本会議での答弁を通じて(1)この規定は直接には自衛権を否定していない、(2)しかし第9条第2項で一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も放棄した、(3)近年の戦争は多く自衛権の名によって戦われた、(4)この条項の期するところは、国際平和団体の樹立に依ってあらゆる侵略戦争を防止しようとするところにある、(5)もし国際平和団体が樹立された場合においては、正当防衛権を認めることそれ自身が有害——と述べた。
▼国際平和団体とはさし当たり国連で、つまり日本の第9条はそれ自体で完結することを予定しておらず、国連が成長してその憲章に謳っているとおり、一国の単位を超えた国際的な警察軍など秩序維持機構が生まれ機能するようになるに連れて、各国ごとの武装力も自衛権も限りなく無用のものになっていくとの想定に立っていた。その意味で憲法と国連憲章は内容的に深く連関しており、1919年の国際連盟規約や28年のパリ不戦条約を含めて国際法上に不戦の原理を確立しようとする人類的な努力の到達点を示していた。
▼しかし国連は初めから二重性を持っており、一面では、第2次大戦の戦勝国が日独伊の復活を警戒しながら引き続き力で抑えつけようとするところに本質があり、そのために5カ国が常任理事国を務める安保理に強大な権限が与えられた。ところがもう一面では国連は、人類普遍の名において世界平和を実現しようとする世界連邦的な理想主義を掲げた。5大国中心主義は、その後第3世界が陸続と独立を遂げて国連に加盟してくると、大国の集団的覇権主義による引き回しという反発を買った。さらに冷戦の激化とともに米ソの駆け引きに翻弄されて、その安保維持機能はほとんど無意味なものになってしまった。
▼憲法と憲章の理想が冷戦の現実によって裏切られ続けた40年間が終わった今、その理想の初心に戻って国際平和主義の実現に立ち向かうのが当然で、この国連中心の国際平和主義によって旧自民党的な一国平和主義的な冷戦ボケと旧社会党的な同じく一国平和主義的な平和ボケを克服しうる……。
 以上が5年前の本誌の主張の要旨である。
●多国籍軍の評価
 国連中心の国際平和主義に日本が積極参加すべきだという点で、小沢とリベラル派に違いはない。旧社会党改革派の議論の中には「自衛隊3分割」論があり、それは現在の自衛隊を国土防衛隊と災害緊急派遣部隊と国連常備軍への派遣部隊に3分割し、その国連派遣部隊は極端に言えば日本国籍を離れた国際公務員として完全な国連指揮下に差し出して、PKOなり紛争介入に従事させるというもので、92年のPKO国会での論議で言えば、自衛隊そのものを出すのでなく別の国連協力専門の部隊を創設して出すという“別組織”論をさらに発展させたものである。それを念頭に高野が小沢に「自衛隊を3分の1削って国連に差し出せば」と言うと、彼は賛成だと言った。
 問題の第1は、そのような国連警察軍のようなものがまだ出来ていない現実の下で、湾岸戦争のように米国主導の多国籍軍が編成された場合に日本がどうするかである。
 小沢は、湾岸戦争型の多国籍軍に日本が参加するのは当然だという立場で、ただしその場合に、国連の決議に裏付けられていれば直ちに国連警察軍に準じるものと解釈して参加するか、国連憲章42条・51条の集団的自衛権の発動を日本国憲法との関わりできちんと位置づけてそれを準用するか、2つの回路のいずれかが採用されるべきだとしている。
 しかしまず、湾岸戦争の多国籍軍が国連憲章上の手続きを満たしていたかどうかは大いに疑問がある。確かに安保理は90年11月29日に武力行使の権限を認める決議を行ったが、モハメド・ヘイカルが『アラブから見た湾岸戦争』(時事通信社)で指摘しているように「イラクを含むアラブ人の専門家の中には、決議それ自体国連憲章に反するものだと論じた者も多かった」し、また「国連のルールが厳密に守られなかった事実は、国連事務総長デクエヤルによっても指摘されている」。
 ヘイカルは別の部分でこうも書いている。「デクエヤルは、多国籍軍が国連軍であるかのような印象、そしてのちにはこの戦争が国連戦争であるかのような印象が出来上がりつつあることを心配するようになった。国連決議は、多国籍軍の基礎となる政治的指令は提供したが、その形成自体を命じたわけではなかった。多国籍軍が青いベレー帽を被らなかったのも、国連旗を掲げなかったのもこうした理由からである。デクエヤルは、国連決議と国連軍の違いを保つよう最善を尽くしたが、メディアの報道が誤った印象を強化しがちだったため、およそ勝ち目はなかった」
 裏返せばあの戦争は、本誌も当時から繰り返し指摘し、ヘイカルもまた書いているように、何よりも、世界の石油の3分の1を消費し、そのための原油の半分をサウジアラビアはじめ湾岸に依存する米国が、その石油ジャブジャブ文明を死守するという意味での国益を賭けた“ブッシュの戦争”だったのであり、それを英国のサッチャー首相がけしかけて真っ先に多国籍軍に馳せ参じたのは、これまたヘイカルが的確に指摘しているように、20世紀を通じて米英がお互いを“特別な関係”と呼んで緊密な同盟関係を築いてきたからだが、その特別な関係の「中身は、中東の石油利権の分け前、ということである」。
 ブッシュの戦争が、米国の巧みな外交とメディア操作によって擬似的な国連の制裁活動として仕立てられて行ったのが実態であったが故に、いくら国連決議があったとしても、常任理事国のソ連や中国は、反対はしなかったが人も金も出しはせず、またヘイカルによると、例えば「デンマーク、オランダ、ベルギーの存在はほとんど(多国籍軍を装うための)政治上の名目に等しく、1カ国につきわずか1人か2人の地雷撤去者しかいなかった」。
 つまり、多国籍軍は仮に国連憲章の手続きに沿って形成された場合でも、なお実態を見ればいくつかの大国の自国の国益のための戦争の偽装にすぎない場合もありうるのであって、日本がそれに無条件に参加すべきだと小沢が言うのは楽天的に過ぎるということになろう。
 それに対してリベラル派は恐らく、多国籍軍が憲章の手続き上、齟齬のないものであることが明らかな場合で、その達成目標と行動様式について国民の合意が得られる場合に限って、自衛隊ではなく予め編成された“別組織”が参加することはあり得ると考えるのではないか。いずれにしても、この点は湾岸戦争の総括を踏まえて大いに論争すべきポイントである。
●国連改革の必要性
 その問題は、国連改革と日本の安保常任理事国入りをどう考えるかという問題ともつながっている。
 小沢は、自分らが政権をとったら国連警察軍の創設に取り組むとは言ったが、その創設されるべき警察軍にしても現状での多国籍軍にしても、それを第2次大戦の戦勝5カ国であり同時に核独占クラブでもある現在の常任理事国に委ねていいのかどうかには触れていない。
 著書『日本改造計画』では国連強化に言及し、「現在の国連機関は戦勝国の国益に合致したものとなっている。安保理の拒否権つき常任理事国制度がその最たるもので……新しい秩序の構築が模索されている今日、このような国連機構は当然、見直す必要があり、日本は改革に積極的に参加すべきである」と述べている。それ自体はそのとおりで、国連の改革案を示さずに大国エゴと指摘されている安保理の現状を容認したまま日本の常任入りを目指している自民党=外務省の路線とは一線を画した考え方であることは分かる。しかし改革の中身・方向には触れていない。
 この問題の焦点は、ともかくも入ってしまって、その後に常任としての発言権をテコに改革に努力すればいいではないかという自民党的立場と、さきがけの田中秀征がかねて主張してきたように、軍事的安全保障中心で50年やってきた国連を、もちろん安保も含むけれども、環境、食糧、人口、麻薬、エイズ、人権など人類共通の切迫した課題に対応出来る「新しい国連」を作る構想を抱いてそのために努力することが先決だというリベラル的な立場(田中・高野・河辺『異議あり!日本の「常任理事国入り」』=第三書館を参照)との違いにある。
 現在の安保常任理事国の体制をおおむね認めるというのであれば、その5大国主導の多国籍軍についても積極的に評価することになるのは当然の帰結だが、前国連事務次長補の功刀達朗も語っているように(前出の本誌No.250参照)、安保理は、5大国が何かと言えば力で世界を動かそうとする「集団的覇権」の道具と第3世界からみなされていて、核を含む軍事力で優勢な者が世界の秩序に責任をもつかのようなこれまでの原理を「軍事力を一切使わずにいかにして平和の構築に寄与するかを基準と」した原理に転換することが求められているのだとすれば、「入ってから改革する」という程度の曖昧な姿勢では嘲笑をあびるだけではないのか。
●有事の前に無事を
 功刀が言っているのはもう1つの論点で、有事の際に国連ベースにせよ日米安保ベースにせよ、どう対応するかというところから話が始まる点では、小沢と自民党は似通っている。それに対してリベラル派は、有事になってからどうするかを議論し準備することを否定しないが(そこは旧左翼とは決定的に異なる)、まず有事に至らないよう無事を確保するための努力に最大限の知恵とエネルギーを投入すべきだと主張するのだろう。
 朝鮮半島に関して言えば、本誌No.361で指摘したように、米韓首脳による「4者」協議の呼びかけをさらにロシア・日本を含めた「6者」へとスライドさせ、さらにそれを朝鮮問題だけにとどまらない北東アジアの包括的な協調的安全保障の枠組みへと発展させていく外交戦略を描くべきである。そのような努力が破れて軍事的対処しかなくなった場合が有事だが、それもまた詳しい事情を見ないで何もかも有事の概念に流し込むのはいかがなものかという問題もある。
 朝鮮情勢に明るい毎日新聞の重村智計は『中央公論』7月号に「朝鮮半島“有事”はない」という端的なタイトルの一文を書き、その中で朝鮮有事として考えられることとして、
(1)戦争が起きる、
 (2)北朝鮮で核兵器が完成する、
 (3)日本にミサイルが飛んで来る、
 (4)北朝鮮から難民が来る、
 (5)北朝鮮でクーデタが起きる、
 (6)金正日書記暗殺、
 (7)金正日書記亡命、退陣、
 (8)北朝鮮で大暴動が起きる、
 を列記し、1つ1つ検討している。ほぼ同意見なので多少補足しながら紹介しよう。
 このうち日本が軍事的に対処しなければならない直接の有事は、(1)〜(4)だろう。北朝鮮の通常戦力が日本に侵攻することは考えられず、また半島で戦争が起きて米軍が出動しそれに日本がどういう形にせよ協力を求められた場合、自衛隊が(輸送であろうと邦人救出であろうと)一歩でも半島に足を踏み入れることは韓国も北朝鮮も「再侵略」とみなして決して認めないから、(1)は日本にとって直接の有事ではない。また45年前の“国連軍”が対処する形になった場合は、小沢の論理に従えば、日本が半ば自動的に参戦しなければならないが、それも韓国は望まないだろう。
 (2)の核兵器と(3)のそれを日本に撃ち込むだけのミサイルは、まだ完成していない。(4)の難民は、北朝鮮の人々の対日観からして、まず海を渡って日本に来るよりも陸伝いに北方に逃げる。
 (5)〜(8)は基本的に北の国内での異変や崩壊で、それがきっかけで戦争の危険が高まらないとは言い切れないが、基本的に米国にせよ韓国に
 せよ、まして日本にせよ、軍事力を用いてどうにかしなければならない事態ではない。それでも万が一、戦争となれば日本にとっては間接の有事である。その時に米軍もしくは国連軍に間接的に何を協力できるかはそれとして検討し議論しておくことは必要だろうが、重村は、それだけでなく「有利」と「有助」のことを論じておくべきだと指摘している。有利とは、日本が再び朝鮮特需で潤うことであり、有助とは戦争や崩壊が起きないために、あるいは起きた場合でも、日本が軍事面ではなくアジアの隣人のために何ができるかを考えることだと彼は言う。
 米国でも日本でも、真の脅威は北朝鮮でなく中国だと見る人もいる。中国が台湾を武力解放しようとすることはないとは断言できないが、その場合も中国・台湾双方にとって基本的にそれは国内問題であって、日本にとっての直接の有事ではない。しかも一方の当事者は中国なので、この場合に国連は全く機能せず、米軍が台湾側に立って介入したとしても、それは日米安保ベースで日本の対応が問われるケースになる。小沢が言うとおり、この場合は米国が行動したから必ず日本が追随しなければならない理由はない。
 要するに「極東有事」というがその実態は何かをよく見極めて、他国が手をだすべきでないし出すことも出来ない国内問題と、間接的には影響を受ける有事であって米軍もしくは国連から何らかの協力を求められる場合と、直接の有事で日本が単独ででも軍事力を用いて対処しなければならない場合とをよく区別して、しかも起こったらどうするかだけでなく、そのそれぞれが起こらないようにするにはどうするかを含めて、激越でない議論をしなければならない。
 こうして、小沢の安保論はいくつかの問題点をはらんでいるとはいえ、その基本的な論理構成においてリベラル派の人々が大いに論争するに値するものである。日本の政治地図の中に本格的なリベラル政党が出現するかどうかは、今や「鳩船新党」の行方にかかっているが、その鳩と船は安保論で十分な議論を熟させていない。そこにこの動きの成否の鍵の1つがある。
投稿者: 《THE JOURNAL》編集部 日時:2009年3月2日07:20 |


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