中川昭一氏死去「こういう別れ方をするならば、話すことは沢山あった」=鈴木宗男氏

2009-10-05 | 政治

新S「編集局から」2009/10/5
朝日新聞
 悲報を聞いた瞬間、二十数年前の出来事を思い起こしてしまいました。57歳で自殺した中川一郎氏です。その長男の中川昭一・元財務相が4日朝、自宅で死亡しているのを発見されました。父と1歳違いの56歳という若さでした。「もうろう会見」、財務相引責辞任のあと、民主党の猛烈な風圧の中で落選。体調を崩し、睡眠薬に頼っていたといいます。自殺や事件の可能性は薄いようですが、「緩慢な自殺」に近い状況だったような気がしてなりません。(圭)
日本経済新聞
 中川一郎氏57歳、中川昭一氏56歳。政治面の記事によると昭一氏は父親一郎氏が亡くなった年齢を意識していたようです。駆け出しの記者時代に一郎氏の死因を取材するため札幌の街を走り回ったことを思い出しましたが、親子2代で将来の首相候補と言われながらも逝った無念さはいかばかりでしょうか。特集面では「自民党半世紀」を掲載しています。「国対政治」を通し自民党や野党の人間模様を描いています。中川親子は自民党全盛時代を生き急いだのでしょうか。(K)
読売新聞
 「中川昭一氏急死」の悲報が、日曜の街を駆け巡りました。非難を浴びた記者会見、閣僚辞任、衆院選落選。「総裁候補」とまで期待された政治家には、苦難続きの晩年となりました。再起途中の56歳。早過ぎる死に、盟友たちが涙しました。父、一郎氏も57歳で急逝。地元支持者に辛い思い出がよぎりました。一郎氏の秘書だった鈴木宗男氏の悼む声に万感がこもります。「こういう別れ方をするなら、話すことがたくさんあった」(中)
---------------------------
「タカ派」の代表格=麻生、安倍両氏の盟友-中川氏足跡
 自民党の中川昭一元財務・金融相は、直言実行タイプの「タカ派」論客で知られた。ただ、発言が物議を醸したり、飲酒による体調不良の問題が指摘されたりすることも少なくなかった。落選した先の衆院選後、周囲から再起を促す意見も出る中、突然の死去となった。
 中川氏は1983年1月、父の中川一郎元農林水産相の急死を受け、勤めていた日本興業銀行を退職、同年12月の衆院選で政界に転身した。弱冠30歳だった。後継をめぐり、一郎氏の秘書だった鈴木宗男新党大地代表と骨肉の争いを繰り広げたのは有名で、自民党でもライバル関係は続いた。
 政界では農政通として知られ、初入閣も小渕内閣の農水相だった。小泉内閣以降は経済産業相や自民党政調会長など、ほぼ一貫して内閣と党の要職に起用される。
 経産相当時は、メキシコなどとの自由貿易協定(FTA)締結などに尽力。日中間の懸案である東シナ海のガス田開発では、中国の反発を覚悟で国内開発業者に試掘権を与えるなど、強硬姿勢で臨んだ。党政調会長当時の2006年には、核武装の議論を容認する発言をして波紋を広げる。
 拉致議連会長や、歴史教科書問題に取り組んだ「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表を務め、07年11月には、平沼赳夫元経産相らと「真・保守政策研究会」を旗揚げした。思想信条が近い安倍晋三元首相、麻生太郎前首相とは長年の盟友関係にあった。
 麻生内閣では安倍氏、甘利明前行政改革担当相、菅義偉元総務相とともに、首相の側近グループを形成。4氏の名前の頭文字を取って「NASA」と呼ばれ、麻生氏の衆院解散判断にも影響を与えた。
 所属する伊吹派内では、将来の総裁候補との声も上がっていたが、今年2月、ローマで開かれた先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の記者会見にもうろうとした状態で臨んだことが批判され、引責辞任。衆院選では北海道11区で民主党候補に敗れ、比例復活もかなわなかった。
 地元支持者からは「来年夏の参院選出馬を模索すべきだ」との声も出ていたが、同僚議員は「精神的に参っていた」と中川氏の心中を代弁した。(時事通信2009/10/04-19:24)
--------------------------------
【中川昭一氏死去】保守派の論客、父と重なる政治家人生
産経ニュース2009.10.4 21:48
 中川昭一氏が、『北海のヒグマ』と呼ばれ、やはり「将来の総理」の呼び声も高かった父、中川一郎氏=当時(57)=の自殺を受けて政界に進出したのは昭和58年12月。30歳のときだった。保守、農政、時に見せる大胆さ…、父と重なり合う政治家人生だった。
 「私の1回目の選挙であるのと同時に、中川一郎8回目の最後の戦いです」。一郎氏の秘書を務めていた鈴木宗男議員も同時に出馬したため、初の選挙は後継者争いや後任問題をめぐり“骨肉の争い”と注目を集めた。
 政界では、父ゆずりの農政通として知られ、2回にわたり農水相を歴任。
 平成19年12月に保守系議員らと政策研究会を立ち上げた時は、父がかつて石原慎太郎都知事らと保守の政策集団「青嵐会」を結成したことを引き合いに「われわれは、その政治的DNAを受け継いでいる。歴史的使命を果たしていきたい」と述べた。
 ただ、酒癖の悪さが、さまざまな形で取りざたされてきた。今年2月にローマであった先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の“もうろう会見”は、国際的にも批判を浴びた。その際には「風邪薬を普段の2倍ほど飲んだ」「昼食会でグラスワインが出たが『ごっくん』と飲んではいない」と釈明したが、財務相辞任に。
 8月の選挙戦では「必勝」と書かれたはちまきを巻き「このはちまきは父のもの。なんとしても勝ち抜かせていただきたい」と訴えたが落選。その後は「私には何の力もなくなったが、みなさんにご恩返しをしたい」と、復活に意欲を見せていた。
--------------------------------------
中川氏死亡:「どうしてという思いが去来」鈴木宗男氏
 中川昭一氏の死亡を受け、鈴木宗男・新党大地代表(61)は4日午前、札幌市中央区の事務所で記者会見。「まだ56歳。早すぎる。つらいというか悲しいというか、どうしてという思いが去来する。政治の世界は厳しい」と目に涙を浮かべて語った。
 鈴木氏は中川氏の父で元農相、故中川一郎氏の元秘書。83年の衆院選を前に自殺した一郎氏の後継争いを繰り広げた。鈴木氏は「世間で言われるほど2人の間に確執はなかった。私は『お仕えした人の息子さん』として一歩下がってみていた」と振り返った。
 鈴木氏は中川氏を「中川一郎先生の息子さんとして得した面もあり、本人の努力もあり、それなりに自分の道をつくってきた。お父さんの情、優しさが備わっていれば、もっと大きなステージがあった」と惜しんだ。
 最後に顔を合わせたのは、衆院解散前の7月。国会内で中川氏から「元気か」と声をかけられ、「何とか生きています」と答えたという。選挙後に顔を合わせる機会はなかったが、「後援会関係者から『次に向かって頑張っている』ということを聞いていた。こういう別れ方をするならば、話すことはたくさんあった」と沈痛な表情で語った。【水戸健一】
毎日新聞 2009年10月4日16時34分
---------------------
〈来栖の独白〉
 とっても残念だ。これからこそ期待される保守本流。性格的には繊細な人、という印象が私にあった。また、必ず父昭一氏の自裁が脳裡をよぎった。繊細さと共に昭一氏の自裁がトラウマのように遺っていないはずはない、と私は思ってきた。残念でならない。ご冥福を祈るしかない。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。