大学文学部軽視の政官財の風潮に、警鐘を鳴らしたい 2019/7/13

2019-07-13 | 文化 思索

大学文学部の逆襲
   大波小波  2019/7/13 Sat 中日新聞夕刊
 過日本紙「紙つぶて」欄(1日夕刊)で、『三田文学』副編集長の粂川 麻里生(くめかわ まりお)が、文学とは人間の別名、と書いていた。大学文学部軽視の政官財の風潮に、小生も警鐘を鳴らしたい。『すばる』7月号でも伊藤氏貴らが、国語教育の変貌について論を述べていた。効率と合理性、情報の検索の能力を高め、AI化社会を目指すのが為政者の思惑だ。しかし人間は機械ではない。
 ところでジュンク堂池袋本店では「立教大学文学部書店」が開店中だ。程近い立教大学とのコラボレーションで期間限定の店舗内に、文学部教員が執筆した書籍をはじめ、一般教養のお勧め本や、逆に学生が選定した書籍も並べる。学生が書店に来る機会も増え、一般人は現在の大学文学部での参考文献や専門書などを知る機会となる。せっかくだから、学生が書店員になってもよいではないか。売る苦労もわかるだろう。過日本欄で紹介された早大学生誌『蒼生(そうせい)』の「文学とハラスメント」と併せ、新発想に一票。
 各大学の文系学部は内向せずに、文学フリマなど外に出て、意気軒高な企画を立てるべきだ。非合理や非効率であっても、自ら恃むところがあって怠け者になる人材こそ生むべきだ。(遊民)

  ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
............
〈来栖の独白〉
 過日、「紙つぶて」欄で、粂川 麻里生氏の「文学とは人間の別名」を興味深く読んだ。
 また、本日の夕刊『短歌を掴む』(佐々木定綱)欄に、

 文学の一側面は「死」とどう向き合うかという問いでできている。脳がデータ化されたとしても、たぶん人はいつまでも誰かの死と言葉で対峙し続けるのだろう。

  とあった。
  文学が軽んじられ、AI化社会を目指すのが為政者の思惑とは、恐ろしい。
 上記事中、思いがけなく「池袋」だの母校の大学名に接し、懐かしさも湧いて、本欄支持に1票。


「人間」は定義できない。 「文学」で描くしかないのである。  2019/7/1 
文学とは 粂川 麻里生(くめかわ まりお)
 紙つぶて  2019/7/1 Mon 中日新聞夕刊
 「文学」というものが昨今はなはだ旗色が悪い。各大学では「文学部」は続々と解体・改組に追い込まれているし、文芸雑誌はどんどん廃刊だ。文部科学省は国語教育から「文学」の要素は極力減らしてゆく構えだ。
 ディランがノーベル文学賞を受賞すれば大騒ぎになり「ハルキは?」とも話題になるが、大多数の方々にとって文学まるでいらないものなのだ。しかし、ちょっと待っていただきたい。皆さんは文学とは何か、おわかりの上でそういう態度をとっておられるのだろうか。
 文科省の役人は、国語科目から減らすべき「文学」とは「フィクション」であると説明した(苦笑)。優秀なる官僚がその程度であるから仕方がないが、本当は文学とは「人間」のことである。古代以来、欧州では文学こそ「神」や「国家」の前で「人間」を担保するものであり続けた(今は欧州人も忘れているヒシもあるが)。うそだと思うなら、「人間」を定義してみていただきたい。どうやっても「人権」とか「自由」の基礎になるような定義は出てこないはずだ。「人間」は定義できない。「文学」で描くしかないのである。
 もちろん、ちゃんと「人間」に挑んでいない現代文学にも責任はある。しかし人間不在の社会運営、高位の人々の言葉の貧困を見るにつけ、近い将来「文学」は立ち上がらなければならないと感じる。(『三田文学』副編集長)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
----------------------
〈来栖の独白 2019.7.1 Mon〉
 上記事、悲しいが、全く同感である。各大学では「文学部」は続々と解体・改組に追い込まれている…恐ろしいことだ。国、存亡の危機だ。
――――――――――――――――――――――――
阿刀田高の苦言 高校国語改革「違和感を覚えるのは私だけでしょうか」 『文藝春秋』2019年1月号 
◇ 中3に英語テスト 19年度実施 「祖国とは国語だ」シオラン 「無機的な、からっぽな、経済大国」三島由紀夫 
..................


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。