人類が初めて遭遇する「寝たきり100歳社会」の悪夢 後編〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第5回〉

2016-07-16 | Life 死と隣合わせ

人類が初めて遭遇する「寝たきり100歳社会」の悪夢 後編〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第5回〉
 90歳を超えると7割の人が認知症になるという。そうして家族の顔すらわからずに、寝たきりのまま命をながらえる。それが100歳社会の実態だと知っても、無暗(むやみ)に長生きを望むだろうか。しかも、延命コストのシワ寄せはすべて、子や孫の世代におよぶのである。
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「私は2人の娘に、“植物状態になったら延命治療をやめてくれ”と伝えてあります。また、“認知症になったら施設に入れてくれ”とも伝えている。特に認知症にはなりたくありません。ひどい認知症になってしまったら、もう生きていたくないと思います」
 ジャーナリストの田原総一朗氏(82)がこのように語るのは、来るべき「100歳社会」について、考え抜いた末であるという。
「私は70代のどこかで死ぬんだろうと思っていましたが、気づけばもう80をすぎている。今後90代をどう生きるかという話がでてくるかもしれません。ここまで日本人の寿命が延びた今、われわれが考えるべきは健康寿命と、その逆の不健康寿命についてでしょう。植物状態になってまで生きながらえることに意味があるのかという話で、それは必然的に尊厳死の話にもつながります」
 100歳社会がいかに不健康な社会であるか、前回で描写したが、簡単に振り返っておきたい。
 50年前は200人に満たなかった100歳以上の高齢者の数が、昨年6万人を超えた。今後も2020年には12万人、30年には27万人と倍々ゲームで増え続け、50年には68万人に達すると見られている。“予備軍”の数はそれどころではない。75歳以上の後期高齢者の数が25年に約2200万人と、日本の人口の18%に達すると推計されているのだ。
 誰もが健康な100歳社会が到来するならいい。だが、75歳を超えると、心身の健康度が下がって、病気のリスクが一気に高まるという。昔なら、その年齢で重篤な病気にかかれば、寿命と考えてあきらめたものだが、今は膨大な国費を投じて高価な薬を使い、生かしてしまう。その結果、認知症が進行した患者に胃瘻(いろう)をつくり、寝たきりの状態で無理に延命するケースが後をたたない。また、救命救急センターも高齢者であふれ、寝たきりの人が心肺停止で運ばれ、何百万円もかけて応急措置が施された結果、寝たきりの期間がさらに延長される、という事態も日常茶飯事だという。
 しかも、こうして不健康寿命を延ばすのにかかる膨大な医療費を負担するのは、超高齢者の増加に反比例してその数が減り続けている現役世代なのである。
 さて、田原氏は認知症への強い懸念を語ったが、実際、認知症の罹患率は年齢が上がると急増する。東京都福祉保健局の調査によれば、70代前半では4・3%にすぎないが、70代後半になると10・1%に跳ね上がる。そして80代前半が23・4%、80代後半が43・6%で、90歳を超えると69・2%。3人に2人は認知症になってしまう。すなわち、100歳社会はおろか、田原氏の言う「90代をどう生きるか」という社会も、認知症の超高齢者があふれ返る「悪夢」の具現化にほかならないのだ。
 そんな中で、自らも寝たきりで、家族の顔すらわからなくなったまま生きながらえたいと望む人が、どれだけいるだろうか。
 国際医療福祉大学大学院の高橋泰(たい)教授が言う。
「私は食事と排泄が自分でできなくなることが、人生の分岐点だと考えます。食事がとれなくなったり嚥下(えんげ)障害が起きたりした時点で、無理に食べさせない選択をすれば、2週間から1カ月ほどで枯れるように亡くなっていきます。一方、胃瘻をつくれば2~3年は延命できますが、健康状態を取り戻せる可能性は低い」
 そういう現実を間近で見ていればこそだろう、
「医療関係者を対象に、自分が治る見込みがない場合に胃瘻をふくむ延命治療を望むか、とたずねた調査では、“望まない”という回答が医師で85・1%、看護師では88・8%と、いずれも高い割合を示した、という結果があります」
 と、桜美林大学老年学総合研究所の鈴木隆雄所長。医療関係者のみならず、食事や排泄の介助が必要になってまで生きたくない、と答える人が多数派だというデータもある。しかし、現実には、本人の意思とは裏腹に「生かされて」しまっているというのである。臨床医の里見清一氏が語る。
「不健康な状態で長く生きることが、本人にとってどれだけ良いことなのか。75歳をすぎて大きな病気になったら、寿命だとあきらめたほうが幸せなのではないでしょうか。しかし家族はそう思わず、ある意味、家族の側の納得、もしくは満足感のために生かされてしまうことがままある。むろん、家族に悪気はまったくなく、むしろ、せめてもの親孝行だと思っているわけですが、そうした考え方からの転換点を見つける必要があると思います」
■治療にはやめ時がある
 本人は望んでいないにもかかわらず生かされ、生かすためのコストで国家財政が逼迫する。そうであるなら、二重の悲劇である。
「われわれ日本人は、医学の進歩のおかげで寿命を延ばしてきました。一方、このまま平均寿命だけが延び、不健康な期間が長くなれば、当然、巨額の医療費と介護費用が発生するわけで、国家財政にも大きな負担になるということを十分認識しておくべきです」
 と鈴木所長は語るが、現実にはその認識がまだ十分ではないようだ。次の逸話もそのことを物語る。
「私自身、終末期の高齢者と家族のありようを数多く見てきましたが、胃瘻をつくることを強く訴えたあと、あまりお見舞いに来ない家族もいました。一方、あえて延命治療を望まず、本人が納得して眠るように死を迎えることを選択し、最後まで付き添う家族もたくさんいました」(同)
 前回の末尾に、「『100歳社会』を乗り越えることができるかどうか」と書いた。しかし、結局は、不幸な長寿者であふれ返る「100歳社会」の到来を阻止するほかに、それを「乗り越える」道はないのではなかろうか。
「私は治療にはやめ時があると考えています。際限なく治療を継続することが本当に患者本人のためになるのか。そうした議論をていねいに尽くせば、終末期医療における人間の尊厳と医療経済の状況改善は、両立できると思います」
 日本尊厳死協会副理事長で医師の長尾和宏氏は、そう語りつつも、「しかし」と継いで、こう続ける。
「日本には本人の意思を尊重するための法的担保がありません。ですから、ご本人がリビング・ウィル(生前の意思表示)で延命治療を拒んでいても、家族がそれを蔑ろにするということが起こっています。そういう事態に直面した際、医療者は本人の意思を尊重するか、家族の意見を聞くかで迷うのですが、結局は、訴訟リスクを恐れて家族の意見を優先せざるをえない場合があるのです」
 その一方で、皮肉な現象もあるという。
「天涯孤独のいわゆる“おひとり様”たちは、希望どおり延命治療なしで自宅で看取られています。本人の意思を通すのを邪魔する家族がいないから、それが叶うのです」(同)
 少し脱線するが、おひとり様が厚遇されるある環境にも触れておこう。刑務所および医療刑務所である。
「刑務所内の高齢者は増加し、認知症の受刑者数も多いのです」
 と言うのは、桐蔭横浜大学の河合幹雄教授(法社会学)。ちなみに2014年までの20年間で、65歳以上の受刑者は4・6倍に増加し、60歳以上の受刑者約9700人のうち、13%超の1300人に認知症の傾向が認められるという。
「軽微な犯罪の場合、家族や身寄りと被害者の間で弁済し、刑務所に入れないものですが、身寄りがない独居老人は刑務所に入れざるをえない。そういう方が増えています。彼らは出所しても受け入れ先がないので、刑務所に戻りたい余り、あえて無銭飲食などをして戻ってきてしまう。刑務所には、法務省の定めた基準を満たす一定レベル以上の医師や看護師がいるので、十分な治療が受けられる。究極の福祉施設なのです。そして、大酒ぐらいなどで肝臓や腎臓を悪くしていた人などは、医療刑務所に行く。建前では病気が治れば通常の刑務所に戻りますが、実際は、終の棲家になることがほとんどです」(同)
 こうして寝たきりになった犯罪者を国費で延命するのだとしたら、「国がもたない」ことは言を俟(ま)たない。
■すべては子供や孫の負担に
 話を戻そう。日本尊厳死協会の白井正夫理事も、
「本人のリビング・ウィルを家族が否定するというケースは、日本特有の問題かもしれません」
 と指摘して、続ける。
「極めて個人主義の社会であるヨーロッパに対し、日本は家族主義。個人の意思はあくまでも家族という枠組みの中で尊重されるところがある。そのうえ尊厳死を規定する法律もないので、家族が強く反対すれば本人の意思が生かされない」
 人生を自らの意思で締めくくることすら許されない──。そうだとすれば、日本人は不幸であろう。欧米諸国ではどうなのか。
「ヨーロッパには元来、尊厳死は当たり前という風潮があるので、わざわざ法整備しない国が多いといわれますが、フランスには尊厳死法が、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国には安楽死法があります。スイスも法律はないものの、安楽死が認められています。また、アメリカではオレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、ニューメキシコの5州が、医師による自殺幇助を認めている。カナダも安楽死法案を審議中です」(同)
 実は、この流れはアジア圏にもおよんでおり、
「台湾では昨年12月、新しい尊厳死法が成立し、韓国でも2018年から尊厳死法が施行されます」(同)
 オランダの安楽死事情を覗いておきたい。『認知症の人が安楽死する国』の著書があるオランダ在住でジャパン・ユーロ・プロモーションズの後藤猛代表は、
「認知症になったら安楽死したい、というのがオランダ国民のコンセンサスですが、かつては認知症患者をベッドに縛りつけたり、精神病院に収容したり、ということも当たり前に行われていたのです」
 と言って、安楽死の現実をこう語る。
「1971年と82年、医師が患者の強い願いを聞いて安楽死を施し、自首した事件があり、そこから長い国民的議論をへて、2001年に安楽死法が制定されました。オランダ人の宗教的バックグラウンドは、個人による神との対話を重んじるプロテスタントのカルヴァン主義で、自らの死は自らで考えるべきだという考えが根底にあります。医師が薬物を注射するなどする積極的な安楽死と、医師が用意した致死量の薬物を本人が摂取する消極的安楽死の2種類があり、後者のほうが多い。私もペーターさんという方の安楽死の現場に、立ち会ったことがあります。ホームドクターが用意した致死量の薬を好きな赤ワインに混ぜ、奥さん、息子さん、娘さん、そしてホームドクターの前で飲み干されました。それに先立ち、自分の人生への満足感と家族への感謝を、晴れ晴れとした笑顔で伝えておられました」
 ところで、こうして延命の是非と老人の死に方に繰り返し言及するのは、あらためて言うが、本人の幸福につながるとは思えない延命が、次世代の不幸に直結するからだ。評論家の大宅映子さん(75)が言う。
「日本の医療費は、若年層よりも老人に多く分配されすぎています。貯金があるのは老人なのに。老人に医療費を注ぎ込んでも生産年齢に戻るわけでなく、一度病気になれば、医療費を注ぎ込み続けなければなりません。日本は人間が資源なのに、そのお金を保育や教育に回さなければ、人間の質がどんどん下がってしまいます。こういうことを言うと、“姥捨て山だ”と非難する人が出てきます。でも、このままでは、ギリシャどころではすまない危機が、自分たちの子供が住む日本を襲いかねません。自分たちは医療費を使ってぬくぬくと生き、子供や孫に負担を押しつけ、“はい、さようなら”でいいのか」
■氷山が眼の前にあるから
 この連載では、年間3500万円かかる肺がんの新しい治療薬「ニボルマブ(商品名はオプジーボ)」を、薬価、ひいては医療費高騰の象徴として取り上げてきた。仮に5万人が1年間使えば1兆7500億円。今後も次々と登場する高価な新薬を同様に使い続ければ、
「間違いなく、国家財政がもたない」
 里見清一氏はこう訴える。それはすなわち、われわれの子供や孫が、まともな医療すら受けられないような社会の到来につながりかねないということである。だから里見氏は、
「75歳以上では延命治療を中止すべきではないか」
 と提案するのだ。あらためて里見氏が語る。
「75歳は、ひとつの目安としていいところだと思います。ペンシルベニア大学のエゼキエル・エマニュエル先生も、その年齢から生産性がガタッと落ち、そこから何かを達成した人はあまりいないと言っている。仮に本当のアンチエイジングが可能になり、生産性が失われる年齢が75歳から100歳に上がったとして、75歳から100歳の方が、若年人口に代わる労働力になりうるのか。かなり無理があると思います。やはり人間は、どこかに死ぬべき時がある。ただし、私は高齢者に“今すぐ死ね”と言っているのではない。“先に死ぬべきだ”と言っているだけです。年寄りから順に死ぬのがもっとも健全な社会です。老人の命が大切だとしても、若い人を押しのけてしまっていいのか」
 再び少し横道に逸れるが、高齢者が不健康寿命を無理に延ばすことに理がないのは当然として、からだだけ元気な90歳、100歳は歓迎すべきなのだろうか。
「認知症も進んだ高齢患者が、ただ寝ていることに意味があるかどうかは別にして、少なくとも周囲への迷惑は最小限です。一方、元気で暴れまわっている人は、周囲への迷惑も最大限になりかねない。そうなると、見た目だけは元気な90歳もいいものかどうか」(同)
 世にいう「老害」も、若い世代の活躍をはばむ点でまた、不健康寿命の一種と言えるのかもしれない。
 さて、都立墨東病院の救命救急センター部長、濱邊祐一氏も、高齢者の救急搬送が増えた結果、若い人が押し出されることを危惧し、里見氏と同様に訴える。
「高齢者の救急医療に公的医療保険を適用しない、さらに言うなら、高齢者医療に公的医療保険を適用しない、ということも考えざるをえない。たとえば、救命救急センターに入れるのは75歳未満までで、それ以上はお断りにする。収入よりも年齢で区切るほうが公平で平等だと思います」
 100歳社会を迎えてはいけない。それは破綻とイコールだ。里見氏も濱邊氏も、だから声を上げるのである。医療コストの削減や、高齢者延命治療の中止に言いおよぶとき、「勇気ある発言」と評されることが多いという里見氏だが、
「私は氷山を眼の前に見つけて、反射的に“危ない”と叫んでいるだけです」
 とのこと。では、われわれが「氷山」に衝突して沈没しないためには、どうしたらいいのか。
「健全な死生観とは、人はいつか死に、その死には誰も責任がなく、不老不死なんて幻想だ、と思えることです。“人の命は地球より重い”という死生観を改める。それが社会を継続する方法だと思うんです」
 濱邊氏はそう結んだ。膨大なコストをかけ、本人すら望まない不健康寿命を延ばすことによって到来する、空前の100歳社会。ゆめゆめそれを正夢にしてしまってはなるまい。
「短期集中連載 医学の勝利が国家を亡ぼす 第5回 人類が初めて遭遇する『寝たきり100歳社会』の悪夢 後編」より
•  2016年6月9日号 掲載 ※この記事の内容は掲載当時のものです

 ◎上記事は[デイリー新潮]からの転載・引用です
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人類が初めて遭遇する「寝たきり100歳社会」の悪夢 前編〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第4回〉
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1 コメント

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初めまして (たにむらこうせつ)
2016-07-16 11:01:49
寝たきり100歳。考えないといけない問題ですね。
私の母も軽度の認知症です。
みんなのブログからきました。
詩を書いています・・・よろしくお願いします。
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