「自信は未だにないが、麻原について書く」魚住昭/ 最高裁、オウム遠藤被告の判決期日を指定 / 死刑弁護人

2011-11-01 | オウム真理教事件

「自信は未だにないが、麻原について書く・・・」魚住 昭
週刊現代[2011年11月5日号]/ジャーナリストの目
p67
 昨秋からパソコンに釘付けになり、画面の文字を追う作業を続けている。オウム真理教の麻原彰晃の評伝を書くためだ。
 パソコンには彼の裁判資料や説法、関係者の証言など膨大なデータが詰まっている。その中には世に知られていない獄中での麻原の言葉も含まれている。
 それらを解析していくと検察が作った事件の構図とは異なる真相が見えてくる。中でも地下鉄サリン事件のどんでん返しは衝撃的だ。仏教を下敷きにした麻原の「人類改造計画」のスケールの大きさにも目を瞠る。
 私が麻原に関心を持つのは個人的理由がある。彼と私は同じ熊本県八代市出身だ。私が4年早く生まれただけで、同じ時代に同じ空気を吸って育ってきた。
 麻原は地下鉄サリン事件より7年前の講演で「小 さい時は死にたくない、死にたくないなと思っていました。何で人は死ぬんだろうと一人でよく泣いていました。なぜ、すべては終わるんだろうかと」と語っている。
 これが「生死を超える」(彼の主著の表題)という彼の宗教的遍歴の原点だろう。弱視のため6歳で家を出され、熊本市の盲学校に入ってからの孤独が、彼の宗教志向を一層強めたであろうことは想像に難くない。
 私も彼と同じように幼いころ死の恐怖に脅えた。いずれ両親や自分が死ぬと思うと怖くてシクシクと泣き続けた。ただ私は健康で、偶々両親の愛情に包まれて育ったから、やがて死の恐怖から逃れられたのだと思う。
 その私の両親も2年前に母が郷里で死に、父は今年5月に鎌倉の病院で死んだ。父は母を亡くして以来衰 弱し「もう(この世から)退散したい」と漏らしていたから、重体の知らせを受けた時もさほど驚かなかった。
 病院に駆けつけると、父は酸素マスクをつけてベッドに横たわっていた。私の顔を見て微かに笑ったが、容態は悪化していった。肺炎のため父は水に溺れる時のようにあえぎ、呻き続けた。「何とかこの苦痛だけでも薬で抑えられませんか」と医師に聞くと、「その薬を投与すると回復の見込みがなくなります。それでよければいつでも…」という答えが戻ってきた。
 私は迷った。医師は言外に父は助からぬと言っている。ならば早く楽にしてやりたい。だが、奇跡的に回復する可能性を考えると、遂に決断できなかった。
 その夜、父はしきりに何かを訴えようとした。息が苦しくて言葉が出ない。ボールペンを震える手に握らせ、紙を胸の前に差し出すと、必死に何かを書こうとしたが、途中で力尽き、ボールペンを落としてしまった。
 それから3日後、父は逝った。私は鎌倉で葬儀をし、遺骨を郷里に持ち帰るつもりだったが、姉から意外な事実を聞かされた。父が「自分が死んだら、母ちゃんの葬式の時と同じ(郷里の)お寺さんに頼んで、同じお経を読んでもらってくれ」と言い残していたというのである。
 私の知る父は仏教とは無縁だった。死後の世界も信じていなかったはずだ。なのになぜ?と当時は思ったが、後になって考えるとその訳がわかった。
 恐らく父は母の没後、孤独に苛まれる日々を過ごすうち、幼いころ馴染んだ宗教的風土に回帰し、仏教に救いを求めるように なったのだろう。とすれば死の間際に父が言おうとしたことも察しがつく。母が待つ「あの世に行きたいから、早く死なせてくれ」と言いたかったのだ。
 父の遺言通り、郷里で葬儀を済ませ、東京に戻るため私は鹿児島本線の電車に乗った。窓外には夕靄に覆われた田畑が広がっていた。この風景は麻原の心にも刻まれているはずだ。
 そう思ったとたん身震いした。麻原の思想を説き明かすには、私が封印してきた死の恐怖と向き合わねばならぬと気づいたからだ。そんなことが意気地なしの私にできるだろうか。確たる自信は未だにない。それでもパソコン相手の作業をやめるつもりはない。これが私の選んだ仕事なのだから。(了)
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オウム裁判:最高裁が遠藤被告の判決期日を指定 終結へ
 地下鉄・松本両サリンなど4事件で殺人罪などに問われたオウム真理教元幹部、遠藤誠一被告(51)=1、2審死刑=の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は判決期日を21日に指定した。オウム事件の裁判で継続しているのは遠藤被告と中川智正被告(49)=1、2審死刑、18日に上告審判決=の2人のみ。いずれも上告が棄却されれば遠藤被告の上告審判決でオウム事件公判は終結する。
 一連の事件では計27人が死亡、計189人が起訴された。96年4月の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(56)の公判開始以来、被告全員の刑確定まで15年余を要したことになる。これまで死刑が確定したのは11人。
 1、2審判決によると、遠藤被告は松本死刑囚らと共謀し94年5月~95年3月、両サリン事件で計19人を死亡させたほか、信者脱会を支援した滝本太郎弁護士らをサリンやVXで襲撃するなどした。【石川淳一】毎日新聞 2011年11月1日 19時29分
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麻原が「子供を苛めるな。ここにいる I証人は 類い稀な成就者です」と弁護側反対尋問を妨害 オウム事件
 裁判記録を読んでわき上がってきた「オウム事件」 魚住 昭
 「ジャーナリストの目」週刊現代[2011年2月26日号]
 この10数年、書こうかどうか迷いつづけてきたテーマがある。オウム真理教が引き起こした地下鉄サリンなど一連の事件の深層である。教祖らの裁判は終わっても、オウム事件には訳の分からぬことが山ほど残っている。
 その一例を挙げよう。教団がサリンを生成しているのを警察がつかんだのは地下鉄サリン事件(1995年3月)が起きる約半年も前だった。山梨県上九一色村(当時)で異臭騒ぎが起きたため調べたところ、第7サティアンの側溝からサリン分解物質が見つかった。94年6月の松本サリン事件への教団の関与を示す決定的証拠である。
 にもかかわらず警察は強制捜査に踏み切らず、地下鉄サリン事件を招いてしまった。なぜ警察はこんな奇妙な行動をとったのか。私の知る限り、まだ誰もその謎を解明していない。
 89年11月の坂本弁護士一家殺害事件も教団の犯行を疑わせるデータが多数あった。翌年2月ごろには実行犯の1人が坂本弁護士の長男の遺体を埋めた場所の地図を神奈川県警などに匿名で送った。同県警はいちおうその場所を捜索したが、なぜか遺体は見つからなかった。
 それから5年後の95年9月に遺体が発見された時、遺体があった場所の地下約70センチから、錆びたスプレー缶が出てきた。5年前に神奈川県警が捜索した際、地表面に碁盤の目のように線を引いて区分けするために使ったラッカーだった。
 神奈川県警は「たまたま遺体近くまでしか掘り起こさなかったため発見できなかった」と釈明したが、約40平方㍍の狭いエリアなのに、その一部しか掘らないのはあまりに不自然だ。もしかしたら警察は事件を握りつぶしていたのではないか。
 オウム事件の裁判記録を読むと、そんな疑問が次々と湧いてくる。事件の首謀者とされた麻原彰晃の人物像もそうだ。報道では麻原は自らの罪を免れるため、元弟子たちに責任をなすりつけようとした男である。
 だが、実際に責任逃れをしようとしたのは元弟子たちのほうだろう。麻原は彼らの悪口を一度も言っていない。彼らから糾弾されても気にせず、彼らをかばう姿勢を崩さなかった。
 麻原弁護団は元弟子たちの暴走で事件が起きたことを立証しようとした。そのため元弟子たちの証言の矛盾を追及した。すると彼らは言い逃れができなくなって窮地に陥る。そんな場面になると、たいてい麻原が「子供をいじめるな」と言いだし弁護側の反対尋問を妨害した。
「ここにいるI証人(地下鉄サリンの実行犯)はたぐいまれな成就者です。この成就者に非礼な態度だけではなく、本質的に彼の精神に悪い影響をいっさい控えていただきたい」
 読者には信じがたい話だろうが、それが麻原の一貫した主張だった。彼は自分の生死には無頓着で、元弟子たちの魂が汚されることをひたすら恐れていた。裁判記録には、そうした麻原の宗教家としての姿勢がはっきりと描かれている。
 としたら、なぜ麻原の教団は凄惨極まりない事件を次々と引き起こしたのか。先ほど触れた警察の不可解な動きや、元弟子たちの教団内での確執、それにオウムの教義の変遷の歴史を丹念に調べていけば、謎は自ずから解けていく。私は最近そう思うようになった。
 折から麻原の親族が2度目の再審請求をした。松本サリンや地下鉄サリンの実行犯・遠藤誠一の控訴審での新証言をもとにしたものだ。遠藤は両事件とも「(刺殺された教団ナンバー2の)村井秀夫が独断でやったと思う」と述べている。別の死刑が確定した元弟子は、麻原から指示されたという自らの法廷証言を一部否定する手紙を書いた。
 事件の真相が関係者の口からじわじわと漏れ、検察が作った壮大な虚構が崩れる兆しが見えだした。遅ればせながら、私も本格的な取材に踏み切ることにした。近いうちに本誌でその結果をお伝えできると思う。 (了)
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『死刑弁護人』/“平和を実現する人々は幸いである。義のために迫害される人々は幸いである”マタイ5章 
〈来栖の独白2011/10/12Wed.〉
 10月10日0時45分からの東海テレビ「死刑弁護人」(安田弁護士の人間像に迫る)を見た。劣悪な放送時間帯につき、録画しておいて、お昼に見た。1時間45分ほどのドキュメンタリー。内容については、「安田さんの信条、生き方を是とする」とだけ述べるに留めたい。
 ここでは、番組の最終部分、「安田事件」が2審で敗訴となった、そのシーンを考えてみたい。安田裁判の報告会のシーン。岩井信さんの涙が止まらない。安田さん有罪判決を受けて、若い岩井さんの無念の涙がとまらない。。
 昔、「カトリック正義と平和協議会」死刑分科会に岩井さんをお呼びし、お話をお聞きしたことがあった。その頃、岩井さんはまだ弁護士ではなかった。「弁護士を目指して勉強しています」と言われ、安田さんのところへ出入りして、安田弁護士を敬愛している気配がうかがわれた。やがて首尾よく弁護士登録され、安田さんと同じ感性で活動されるようになった。
 その岩井さんが、ビデオで、泣いていた。ご本人の安田さんはと云えば、にこやかな笑顔である。周囲への気遣いもあるのかもしれないが、禁固刑でもないのだから、弁護士としてやっていくには別段支障ない。明るい、やさしい笑顔である。
 さかのぼれば、安田弁護士逮捕の理由は、オウム真理教松本智津夫被告(当時)の裁判(審理)引き伸ばしに業を煮やした当局が仕組んだものだった(安田さんたちは「はめられた」と表現した)。ことほど左様に、安田弁護士は社会を敵に回すような重大事件を多く担当するゆえに、数々の嫌がらせ、バッシングに曝されてきた。普通の神経ではもたないような人物破壊構造である。怒り心頭に発した安田さんは「チクショー」と記している(獄中メモ)。
 が、2審判決を受けての安田さんは明るい。いかなる逆境にあっても、自分はやましい生き方はせず、そして自分を信じてついてきてくれる仲間がいる。これが、笑顔の理由ではないか。
 いま一度、私は、岩井さんの泣き顔を思い出す。いい顔だ。人が人のために泣く、とてもよいことだ。人のために悲しんだり、喜んだりすることが、だいじだ。人間らしい行為だ。私はキリスト者だが、このように書くとき、けっしてパウロの言葉〈ローマ人への手紙12章15節〉の勧めに依拠しているのではない。自然に、そう感じて書いている。
 附記しておくが、安田さんの2審判決の前日が、光市事件の差し戻し2審判決の日であった。この期日を私は極めて意図的、作為的なものと受け止めている。裁判所の期日指定は決して偶然に任されてはいない。当局はすべてを用意周到にやる。そのように感じた。
 小沢一郎さんは、検察・裁判所・メディア、加えて政治家たちにより、政治生命すら危うくされるほどの厳しい状況が長年にわたって続いている。しかし、氏は、御自分を保っている。氏自身の精神の強靭さもあるだろうが、氏を理解し、信じて、ついてゆく人がいる。そのことが、氏を絶望から護り、確信を与えているのではないか。
 そういえば、親鸞さんは、「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(たとえ法然上人に騙され、お念仏して地獄に落ちたとしても、私は決して後悔はいたしません)と、歎異抄に云う。「何をやってもダメな私。地獄へ行くのは決まっているようなもの」との諦念はあっただろうが、それ以上に、師法然に寄せる深い信頼が、「法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも」と言わせたのではないか。「地獄におちたりとも」・・・これは、すごい。並みの人間関係で言える言葉ではない。
 安田さんや小沢さん、そして親鸞さん。このような人間関係に身を置くとき、幸せな人生といえるのではないだろうか。泣く岩井さんの顔も、慈しみに満ちた安田さんの顔も、実によかった。
〈来栖の独白 追記2011/10/21Fri.〉
 安田さんは兵庫県の出身である。子供のころ日曜学校へ通った、と『死刑弁護人 生きるという権利』に書いておられた。教会のやり方違和感をもった、とも書いておられた。今回、このビデオを見ていて、そのことを思い出すと同時に、安田さんこそ、そのまま神父、或いは修道者の生き方ではないかと感じた。港合同法律事務所の狭い自室に昼間は無造作に立てかけてあるマットレスを、夜になると半畳にも満たないスペースに敷いて寝る。鎌倉の自宅へは、月に1回ほどしか帰らないという。子供の学校の行事にも出てやれなかった。そのような中、不条理な裁判の弁護に没頭してきた。
 マタイによる福音書は5章で次のように言う。
“平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(~12節)
 岩井さんは「困難な事件は全部、安田さんのところへゆく。それが問題だ。我々は全部、安田さんにおっかぶせてしまっている」と云う。安田さんは、困難な事件でも頼まれると断れないのだと云う。同福音書に次の句がある。
“また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。”(9.36)
 そこら辺の宗教者よりも優れて修道者である、と私が感じる所以である。
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「死刑弁護人」安田好弘弁護士の人間像に迫る/東海テレビ 2011/10/10/00:45~
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◆  平成15年12月24日宣告 平成10年刑(わ)第3464号 強制執行妨害被告事件 東京地方裁判所刑事第16部《川口政明,早川幸男,内田曉》 被告人 安田好弘 
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強制執行妨害罪・安田好弘被告に逆転有罪
 2008年4月23日14時0分配信 産経新聞  
 旧住宅金融専門会社(住専)の大口融資先だった不動産会社に資産の差し押さえを免れるように指示したとして、強制執行妨害罪に問われた弁護士、安田好弘被告(60)の控訴審判決公判が23日、東京高裁で開かれた。池田耕平裁判長は、1審東京地裁の無罪判決を破棄し、罰金50万円(求刑懲役2年)の逆転有罪を言い渡した。
 判決によると、安田被告は、不動産会社社長(72)=懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決確定=らと共謀し、同社の所有するビル2棟の賃料の差し押さえを免れるため、平成5年3月~8年9月、ビルをダミー会社に転貸したように装い、計約2億円を隠した。
 安田被告が、ビルを別会社に転貸して賃料を移し替えるというスキームを考案したことには争いはない。控訴審では、このスキームが強制執行を免れる目的で提案されたものか否か▽社長らとの共謀の有無-などが争われた。
 検察側は、安田被告が提案したビルの転貸は「結果的に強制執行妨害を生じさせることは明らかで違法」と指摘。共犯者の供述などからも「共謀が認められる」と主張していた。
 一方、弁護側は1審の約1200人を大きく上回る約2100人の弁護団を結成。1審同様に「事件は捜査当局が作り上げたもの」などと無罪主張していた。池田裁判長は、共犯者の供述内容を認めた上で、「幇助(ほうじょ)犯にとどまる」と判断した。
 1審判決は、安田被告との共謀を認めた共犯者らの供述を「信用できない」と判断。「スキームは適法な再建策。強制執行逃れの指示ではない」として無罪を言い渡した。
 安田被告は、22日に広島高裁で死刑判決が言い渡された山口県光市の母子殺害事件など多くの刑事事件で弁護人を務めているほか、死刑廃止運動の中心的存在としても知られる。
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◇  所謂事件名「光市母子殺害事件」広島高裁差し戻し審 判決文〈破棄自判〉 広島高等裁 平成20年4月22日  
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五木寛之著『親鸞』 阿弥陀仏もイエスも、よろずの仏から疎まれた罪人を深く憐れみ、彼らをこそ救う


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