「リスク・ゼロ」にする絶対的な方法=自衛隊を国外に一切出さない=「鎖国的」安保政策 佐瀬昌盛

2015-07-23 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

2015.7.23 05:01更新
【正論】「特殊な国」からの脱皮を目指せ 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
≪過大視される知識人の発言≫
 戦後70年、過去に2回、わが国は安全保障政策上の重大決断を迫られました。最初は昭和26年のサンフランシスコ平和条約と(旧)日米安保条約の調印で、これは吉田茂首相の功績でした。次には昭和35年に、岸信介首相が手がけた現行の日米安保条約の署名を挙げるべきでしょう。ともに、順風満帆の下での決断ではありません。
 吉田首相は米国をはじめとする「多数派」との講和を達成したのですが、反対派はそれを「単独」講和だと謗(そし)り、「全面」講和が必要なのだと主張しました。議論白熱のあまり、同首相は「全面」派の南原繁東大総長を「曲学阿世」()と決めつける騒ぎでした。
 岸政権の安保改定努力が世論の反発を買ったことは、記憶に新しいでしょう。国会は連日連夜、いわゆる「革新」勢力の反対デモに包囲され、混乱の中で東大女子学生が死亡する悲劇も起きました。知識人の多くは反対、花形評論家・清水幾太郎氏や中野好夫氏らが活躍しました。
 今日の安保関連諸法案をめぐる国会の攻防は戦後3度目の大激突といえるでしょう。そこには前2回と似た妙な特徴が見受けられます。進歩的知識人の発言が重視されているのがそれです。
 過般の衆議院で3人の憲法学者が安倍晋三政権の望む「集団的自衛権の限定行使」は憲法違反だと述べ、「護憲」派は鬼の首でも取ったような興奮ぶりです。
 しかし、これはおかしくないでしょうか。
 17世紀の昔、ガリレオ・ガリレイは「地動説」を唱え、「天動説」を自明としたカトリック教会の怒りを買いました。しかし、結局正しかったのは、「それでも地球は動く」と呟(つぶや)いたガリレイです。
 今日、政策選択は民主社会の場合、多数決に拠(よ)るべきでしょう。が、何が真理かは多数決では決まりません。「護憲」派憲法学者が何百人束になっても、それで集団的自衛権の解釈で正解が出るわけではないのです。よく考えてみるがよいでしょう。
≪「リスク」めぐる不可解な答弁≫
 私は第1次、第2次安倍政権が設けた「安保法制懇」の一員でしたが、昨年春に取りまとめられた報告書には違和感をもちました。理由を詳述する紙幅はありません。要するに、それまで金科玉条視されてきた昭和56年政府見解は集団的自衛権の定義を誤っているので、いったんこれを葬り、正しい定義を確立すべきだったのです。だから半ば不満でした。
 ところが、昨年7月の閣議決定により右の政府見解は行方不明になり、代わって昭和47年見解が浮上、それを基礎に今日の難解な「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」と「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」が作成され、衆議院では民主党以下ほとんどの野党が退席する中、可決されました。
 富士山頂に立つには登山ルートがいくつかあります。安倍首相が選んだ登山路は私の望むそれとは違いました。が、富士山頂に立つという目的は同じなので、私は安倍ルートを支援します。
 問題はその過程で、海外派遣される自衛隊から犠牲者が出る「リスク」をめぐり、野党の質問と政府答弁の双方に見られる不可解さです。
 まず政府答弁ですが、外相と防衛相は「リスク」の増大を否定しました。そうでしょうか。常識で考えて、海外派遣の範囲も役割も拡大するので、「リスク」は増えます。なぜそう答弁しないのでしょう。不幸にして自衛官から死者が出る場合、政治家として責任を取るとなぜ言えないのでしょう。
≪騒ぎを収束させた政治家の態度≫
 この問題を私は20年前に、当時のドイツを題材にして本欄で論じました。自国を同盟国の領域外に兵を出さないとしてきた憲法解釈を変えて、ボスニア・ヘルツェゴビナに出兵するに際し、野党議員が「亜鉛の柩(ひつぎ)」が戻ってきたらどうするのか、と詰問します。
 外相は柩の傍らで国防相ともども夜伽(よとぎ)をすると断言、それで騒ぎは収まりました。政治的責任をとるとはそういうことですが、この態度がわが国の政府には残念ながら欠けています。
 次に野党。「リスク」問題での拙劣な政府答弁に浮かれたのか、この弱点を攻めまくりました。その野党諸賢に忠告します。「リスク・ゼロ」にする絶対的な方法があります。自衛隊をわが国領域外に一切出さないことです。それなら、自衛隊の国内殉職者は出しても海外で自衛官が「戦死」するはずはありません。ただし、それでは「鎖国的」安保政策と言うべきでしょう。国民が、野党諸賢自身がそれを望みますか。
 9月中には新安保法制が誕生します。戦後70年、吉田、岸両政権につぐ第3の脱皮です。それは従来の「特殊な国」が「普通の国」になることです。その成功を念じます。(させ まさもり)
 ◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します *強調(太字・着色)は来栖
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きょくがく-あせい【曲学阿世】
意味 学問の真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間に気に入られるような説を唱えること。真理を曲げて、世間や時勢に迎合する言動をすること。▽「曲学」は真理を曲げた正道によらない学問。「阿世」は世におもねる意。「阿」はへつらいおもねる意。「阿世曲学(あせいきょくがく)」ともいう。
出典 『史記(しき)』儒林伝(じゅりんでん)
句例
◎曲学阿世の徒
用例 一日に四合というのを、三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです。<井伏鱒二・黒い雨>
  出典:新明解四字熟語辞典 
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国家・国民が持つべき暴力・無法への抵抗力を無力にする法匪国家を目指す「集団的自衛権反対論」
  産経ニュース 2015.7.6 06:00更新
 【野口裕之の軍事情勢】「健康のためなら死んでもよい」と同じ? 摩訶不思議な集団的自衛権反対論 
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日本でしか通用しない立憲主義を振りかざし、現場を知らずに法律改正に反対する憲法学者の限界 高橋洋一  
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【安倍政権よ、安保法制の「大業」を成就させよ】…国民の声なき声 サイレントマジョリティの声  
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