『Aではない君と』薬丸岳著 講談社文庫 2017年7月14日 第1刷発行

2017-08-02 | 本/演劇…など

『Aではない君と』薬丸岳著 講談社文庫 2017年7月14日第1刷発行 (本書は2015年9月に小社より刊行されました)

p441~
 (第3章)
「ぼくに伝えたいことって何?」翼がうつむいたまま鼻声で言った。
「本当の話を聞いても、優斗君を殺すために呼び出したと知った今でも、翼が生きていてくれてよかった」
 翼が顔を上げた。真っ赤に充血した目で見つめてくる。
「たとえ翼の苦しむ姿を目の当たりにしなきゃいけなかったとしても、生きていれば、こうやって話をしたり、作ってくれた料理を食べたり、翼の成長を感じて喜ぶことができる。翼のことを見守っていられるんだ」
 翼がこちらを見つめ返しながらしきりに鼻をすすっている。
「藤井さんにはもう叶わないことだ」
p442~
 翼の呼吸が止まった。鼻をすすることもできないようで、鼻水が垂れてくる。
「おまえがしてしまったことだ」
 吉永はテーブルの上のボックスからティッシュをつまんで翼の鼻や目もとを拭った。翼はじっとしたまま動かない。
 顔から手を離すと、翼がうなだれた。ティッシュを握りしめた瞬間、手の中の生温かい息子の体温を感じ、切なさがこみ上げてきた。息子が生きていることの実感を噛み締めながら、視界が滲んでいく。
「いつかお父さんに訊いたよな。心とからだと、どちらを殺したほうが悪いの、って。今なら間違いなく答えられる。からだを殺すほうが悪い」
 翼が弾かれたように顔を上げた。
 吉永は手に持ったティッシュで自分の涙を拭い、翼を見つめた。
 (略)
p443~
「どうすれば・・・これからどうすればいいの・・・」
 翼がテーブルに手をつき身を乗り出すように見つめてくる。
「考え続けるんだ。これからずっとずっと。その人たちの心を少しでも癒やすために何をしなければならないのかを。何ができるのかを。お父さんも一緒に考え続けるけど、お父さんもいつかは死ぬ。お母さんだってそうだ。おまえはひとりになっても考え続けなきゃいけない」(略)
p444~
 世間の誰もが少年Aとして翼を憎んだとしても、自分だけは翼を愛し続けるしかない。
「それでも・・・」
 吉永は腕を伸ばし、翼の右手に自分の手を添えた。
 あたたかい。
「お父さんが人生の最後に考えるのは、翼のことだ」
 ぎゅっと翼の手を握りしめると、「ぼく」と呟きが聞えた。翼が顔を上げた。
「藤井さんに会いたい」
 まっすぐこちらを見つめながら、翼が言った。(略)
p451~
「最後に線香をあげてもいい。でももう二度と来ないでくれ」
 藤井が部屋に向けて顎をしゃくると、翼が吉永を見た。
「ありがとうございます」
 吉永は藤井に向けて言い、翼に頷きかけた。
 翼は藤井に深々と頭を下げると歩き出した。部屋に向かっていく翼の背中を見つめる。静かにドアが閉まると、藤井がこちらを見た。真っ赤に充血した目と視線が交わり、胸の奥から激しい感情がせり上がってきた。その思いが言葉になる前に、藤井が口を開いた。
「私は上にいます。終わったら勝手に帰ってください」
 そう言うと藤井は階段を上っていった。姿が見えなくなり、階上からドアが閉まる音が聞えると、吉永は崩れるように三和土に腰を落とした。
 頭の中は真っ白だった。何の感情も湧いてこない。
 吉永はゆっくりと首を持ち上げ、翼が入っていった部屋のドアに視線をとめた。
 今、翼はどんな顔でいるのだろう。(略)
p452~
 翼はなかなか出てこない。ここは最も辛い場所であるはずなのに。
-----いや、果たしてそうだろうか。
 ここは翼にとって、唯一の救済の場なのかもしれない。
 ここにはすべてを知っている人しかいない。優斗くんに向け、藤井さんに向け、偽りのない心をさらして、自分の罪と向き合うことができる。今の自分がそうであるように。
 一歩ここを出たらそういうわけにはいかないだろう。
 たとえ心を許せる人と出会ったとしても、人を殺したことの言い訳は許されない。どんない辛いことがあっても、もう話せない人を、優斗くんのことを悪く言ってはいけない。この先、翼のことを本当にわかってくれる人とは出会えないのだ。
 だが、その重い十字架を背負うことが、人の命を奪い、生きていく者の務めではないかと、かつて藤井さんは言った。
 ここを出るのが怖い。それは翼も同じだろう。だけど、ここにずっといるわけにはいかない。
p453~
 たとえ二度とここに来られなかったとしても、二度と藤井さんに会えなかったとしても、それでも心から謝り続けるために・・・。
 翼、そろそろ行こう。
 吉永は立ち上がり、閉ざされたドアに向かって歩き出した。
 もうひとりにはさせない。
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薬丸岳著 『Aではない君と』 『友罪』=神戸児童殺傷事件を彷彿させる
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