◆平岡秀夫法相 死刑執行は「考えていく」/ 死刑は教材か/「目には目を」の報復、すべきでない2011-09-03 | 死刑/重刑/生命犯 問題
.......................................
死刑執行進まぬ議論 未執行囚最多の120人
日本経済新聞2011/8/13
死刑が1年以上執行されず、未執行のまま拘置中の死刑囚が過去最多の120人に達した。江田五月法相が「当面の執行停止」を表明するなか、法務省内に設置した死刑制度の勉強会の議論も進んでいない。裁判員裁判で既に8件の死刑判決が言い渡されている。法律に従い重い決断を下した国民の心情が置き去りにされているともいえる。
「悩ましい状況に悩みながら勉強をしている最中。悩んでいるときに執行とはならない」。江田法相が現職大臣として異例の「死刑執行停止」を宣言したのは7月29日の記者会見。「『死刑の在り方についての勉強会』の議論を見極めたい」と理由を説明した。
勉強会は、昨年7月に2人の死刑を執行した千葉景子法相(当時)が「国民の議論を深めたい」として翌8月設置。この1年、死刑制度に賛成する犯罪被害者や死刑廃止団体など計10人からヒアリングした。
ただ勉強会は「結論を導くのではなく、国民的議論の契機とするための場」(法務省刑事局)との位置付けで、報告書をまとめる予定はない。民主党政権下で江田氏まで4人の法相が交代したこともあり、国民的議論は深まっていない。
「意見をまとめる目的がないなら意味がない。早く解散すべきだ」。勉強会に出席した全国犯罪被害者の会顧問、岡村勲弁護士は内閣府の世論調査で、回答者の約86%が死刑を支持しているなどとして「国民の結論は出ており、死刑執行を遅らせる時間稼ぎでしかない」と指摘する。
死刑反対派の菊田幸一・明治大学名誉教授(犯罪学)は「法相が慎重姿勢をとり続ける現状は結果的に歓迎する」としながらも、勉強会については「死刑存置派と反対派が繰り返してきた議論を蒸し返しているだけ」と不満を示す。
昨年7月の最後の執行以降、16人の死刑が確定し、死刑囚は120人に膨らんだ。2011年の執行ゼロが続けば、暦年ベースでは19年ぶりだ。
市民が量刑に関与した裁判員裁判の死刑判決8件中、2件は被告が控訴を取り下げ確定した。議論が進まぬ現状を、菊田名誉教授は「死刑の決断は市民に押しつけられたままだ」と批判している。
.............
〈来栖の独白2011/8/13〉
菊田さんのおっしゃるように、「死刑存置派と反対派が繰り返してきた議論を蒸し返しているだけ」。
「国民の議論を深めたい」も「結論を導くのではなく、国民的議論の契機とするための場」も、聞き飽きた。何事であれ(事故や事件・天災・人災・・・)起きたすべてのことの「後回し」になるのが、死刑の問題だ。
国民的合意によるのではなく、フランスのように、傑出したオピニオンリーダーに断行してもらう、そういう課題ではないのか。人の命を国民大衆の賛成反対(きわめて気分的なポピュリズム)に委ねるというのも、妥当とは思えない。
=====================
死刑未執行、過去最多の120人。法相に執行を拒む権限はあるのか。
記事投稿日:2011-08-28 18:11:29
死刑が1年以上執行されず、未執行のまま拘置中の死刑囚が過去最多の120人に達している。前法相の千葉景子氏が死刑制度の存否について一石を投じる形で、死刑執行の「刑場」をマスコミに初公開してから、はや1年。
民主党政権下で法相がころころと変わる中で、死刑制度に対する国の指針はいまだに確定していない。その一方で、裁判員裁判では、一般国民が悩み苦しみながら、死刑という重い判断を下し続けている。
*江田五月法相の言い分
江田五月法相は、死刑の執行について「悩ましい状況に悩みながら勉強している最中。悩んでいるときに執行とはならない」と発言。死刑の是非に対する自身の考えが固まっていないことを理由に死刑執行命令書へのサインを保留している。
*死刑制度をめぐる現状
【1】死刑制度に疑問を投げかける法相
最後に死刑が執行されたのは、2010年7月28日。当時の法相である千葉景子氏は、同年8月6日に死刑の廃止も視野に死刑制度の在り方を研究する勉強会を省内に設置した。また、同年8月27日には東京拘置所内の刑場を報道陣に公開し、死刑制度に対する国民的な議論の契機となるよう働きかけた。
【2】裁判員裁判制度の開始と死刑判決
上述した最後の死刑執行以降、死刑が確定したのは16人。執行を待つ死刑囚は合わせて120人にのぼる。その間、裁判員裁判で8件の死刑判決が言い渡され、そのうち2件で死刑が確定している。
*死刑執行において法相に与えられた権限
死刑の執行は法務大臣の命令がなければ出来ない。一方で、刑事訴訟法上、法務大臣は、()冤罪の疑いから再審請求等がなされている場合や()心神喪失の状態にある場合、()妊娠している場合等の特殊な場合を除き、 死刑判決から6ヶ月以内に死刑執行命令を下さなければならない。
*雑感
1.死刑執行の猶予期間の持つ意味
刑事訴訟法の規定(判決から6ヶ月以内に死刑執行しろという規定)にも関わらず、死刑判決の確定から刑の執行までの平均期間は、7年11か月だという。死刑が人の命を奪う極刑であり、一旦執行されると回復が不可能な損害を与えることから執行命令に慎重になっていることの表れだろう。
一方で、死刑囚からすると、6ヶ月経過後は、いつ死刑執行命令が出されるかわからない極限の精神状況下で日々生活することを強いられるのであり、およそ、人をそのような精神状況に何年も置くこと自体が残酷な刑であるとも言える。
なお、この6ヶ月の期間につき、下級審では、「単なる訓示規定であって、法務大臣の死刑執行命令がこの期間を超えて行われても、不当な判断ではない」という内容の判断が下されている。
2.死刑制度に対する疑問から執行命令を下さないことの是非
現行の刑事訴訟法上、法務大臣が死刑執行命令を下すことを猶予出来るのは、冤罪払拭のための諸手続きの申立てがされている場合や心神喪失の場合、妊娠している場合等、一定の客観的(!)事実がある場合のみである。法務大臣の主観が介在する余地はないといっていい。
国家の法で死刑制度があり、それに基づき、裁判官、裁判員、検察官、弁護士その他多数の関係者がそれぞれ法に従い、死刑が妥当であるかを長い年月と膨大なエネルギーを投じて下す判断、それが「死刑判決」である。
法務大臣の主観として死刑制度に疑問があるからといった程度の理由で、法に基づく手続きを重ねて成立した「死刑判決」をないがしろにしていいはずはないのである。
法務大臣には、判決から6ヶ月以上が経過している死刑囚につき、主観で死刑執行命令を拒絶する権利など、はなから与えられていない。
3.総括
冤罪が恐くて死刑執行命令を下したくないという気持ちは十二分にわかる。しかし、裁判官、裁判員は冤罪を恐れつつも、自己の責任の下、苦しい決断を下している。検察官も冤罪を恐れながら、慎重な判断を重ねて死刑を求刑している。そんな彼らの決断の積み重ねを法務大臣の主観で、なかったことに出来ると考えるのは、司法軽視、思い上がりと言わざるをえない。
死刑を廃止したいなら、そのような内容の法案を提出すればいいし、判決から死刑執行命令までの期間を延ばしたいならそのような法案を提出し通せばいい。死刑判決後に冤罪について再度調査する制度を作りたいなら、やはりそのような法を作ればいいし、冤罪が起きないように、より慎重な司法制度を作りたいなら、そのような法を作ればいい。
法務大臣が法に則った手続きを踏もうともせずに、自己の気持ちをおさめるために法に反する振る舞いを平気で行っていることが私には甚だ疑問だ。
厳しい言い方だが、法によらず自己の意思を実現する姿勢は、ある意味、独裁者と変わらない。個人的な主観を理由に法を破ることを容認する者には法務大臣を続ける資格がないと私は考える。
上間法務行政書士事務所 行政書士 齊藤 源久(さいとう もとひさ)
====================
◆法務大臣には死刑執行の法的義務は存在しない=安田好弘/死刑執行1年、千葉景子元法相決断の背景2011-07-29 | 死刑/重刑/生命犯 問題
◎法務大臣には死刑執行の法的義務は存在しない
「千葉景子法相による死刑執行に抗議する」弁護士・フォーラム90 安田好弘〈2010年7月28日の執行・執行抗議集会から〉
今回、千葉さんが、「死刑執行するのは法務大臣の義務だ」と言っています。実は、過去、法務省はそのようには言っていませんでした。これを言い始めたのは、後藤田元法相です。彼が1993年3月に死刑執行を再開した後に、自己の行為の正当化のために言い出したことです。彼に対しては、志賀さんや倉田哲治弁護士などが直接会って、執行をしないようにと話をし、彼はそれに対してよく考えてみるとか、団藤さんの本も実際に読んでみるとか、言っていたわけです。ところが彼は死刑を執行し、法務大臣には死刑執行をする法的義務がある、だから執行しないのは怠慢だし、執行しないならば法務大臣を辞めるべきだと、そもそも執行しない者は法務大臣に就くべきではない、と言い出したのです。今回の千葉さんも、詰まるところ同じことを言っているのです。
私たちはその当時から、法務大臣には死刑執行の法的義務はないのだと言い続けてきました。これはスローガンとして言っていたわけではなく、法的根拠を持って言ってきたわけです。刑事訴訟法の475条第1項を見ていただければわかりますが、死刑執行は法務大臣の命令による、としか書いてないわけです。法務大臣が死刑執行をしなければならない、とは書いていません。これは法務大臣以外の者が死刑執行を命令してはならないという制限規定です。第2項に6ヵ月以内に執行命令を出さなければならない、となっていますが、これは法務省自らが訓示規定と言っているわけでして、絶対に守らなければならないというものではないわけです。
法務省が言っていますが、法務大臣の死刑執行はどういう法的性質のものかというと、死刑執行を法務大臣の権限としたのは(権限です。義務とは言っていない)、死刑執行は極めて重要な刑罰なので、政治的責任を持っている人間しか命令してはならないものだ。法務大臣は政治的責任を負っているのだから、いろいろの社会的状況を考慮して、政治的な決断として執行を命令するのだ、という言い方をしています。ここからは義務だという発想は出てこないのです。法務省設置法という法律がありまして、法務省の責任や役目を示したものですが、3条、4条にはっきり書いてありますが、法務省の任務に、「基本法制の整備」、「刑事法制に関する企画立案」とあります。彼らの責務として法体制を改革したり改善したり、法律を新しく制定したり、法律を改正したり、ということがあるわけです。ですから法務大臣は死刑執行をすることが義務ではなく、死刑制度について改善したり、新しい死刑制度に関する企画を出したり、その企画が通るまで死刑執行を停止すると、いったようなことが法務大臣の義務としてあるわけです。千葉さんの発言は、これを完全に無視した発言であるわけです。
さらに言いますと、官吏服務紀律という勅令がありまして、昭和22年に一部改正されており、国務大臣はこれに従わなければならないとされています。その1条には「国民全体の奉仕者として誠実勤勉を主とし法令に従い各職務をつくすべし」とあって、権限を行使する場合は、公僕として法律に則って職務を果たせという職務規範はあっても、死刑執行を命令しなければならないというような、羈束(キソク=つなぎとめる、拘束する)的に、必ず一定の行為を行わなければならないというような職務規範は予定されていないわけです。このように、法の規定からしても、また過去の法務省の理解ないしは解説からしても、法務大臣に死刑執行命令をする義務があるというのは、間違い以外何ものでもないと考えます。この点についても議論しなければならないと、私は思っています。
------------------------
◆死刑執行1年、千葉景子元法相決断の背景
神奈川新聞2011年7月28日
昨夏の死刑執行と刑場初公開から1年経過するのを前に、千葉景子元法相が神奈川新聞社のインタビューに応じ、決断の背景を語った。千葉氏が死刑廃止論者だったため、波紋が広がった執行。「それまでの延長からすれば執行しないのが素直な選択だったかもしれないが、それでは他の課題も一歩も先に進まない気がした」と、刑場公開などを進めるため批判覚悟で決断したことを明かした。異例の立ち会いは、「明確な責任者が誰もいない状況で、国家の権能として死刑を執行するのは非常に無責任ではと感じていた」と説明した。
◆批判覚悟で踏み出す
千葉氏は一昨年9月、法相に就任。執行は参院選で落選後の昨年7月28日だったが、「法相就任時から、私は執行しませんと言って終われるのか、それでいいのかと思っていた」。
本格的な検討を始めたのは昨年1月ごろ。実際に執行されることになる2人の記録の読み込みなどを始め、副大臣らとも議論を重ねた。いずれ執行を決断しなければならないと覚悟を固めつつあった。法務官僚から催促されることはなかった。
このころ、想定外の事態が起きた。小沢一郎氏の政治とカネの問題が急展開し、法相が持つ検事総長への指揮権の発動に、与党内からも意見が来るなど忙殺され、落ち着いて検討する余裕がなくなった。
選挙も近づいてきた。「死刑の問題を騒然とした選挙の中で扱われるのは本意ではない」。選挙後に最終判断をすべきと考えていた。
落選により刑場公開なども実現できぬまま法相を退任すると思っていたが、菅首相は当面の続投を指示。これを受けて結論を出し、執行の手続きを進めたいと担当部署に伝えた。続投決定から数日後のことだった。
執行時は法相として初とみられる立ち会いも行った。「死刑は裁判所が判決を出し、大臣が執行命令を出すが、執行にあたっての責任は誰が負うのか。少なくとも最終判断者が状況を知らないのは無責任、国家権力として責任があいまいという違和感がベースにあり、執行を決断した場合には立ち会わねばならないと考えていた」
執行当日に所感を問われたときは言及を避けたが、1年後の今、こう語った。
「法に基づき、形式的には厳粛な形をつくっているにもかかわらず、ああいう非人間的で無機質な死に方、命の絶たれ方とは、何なのだろうと、非常に違和感を覚えた」
◆国民的な議論深めて
昨夏の死刑執行命令とほぼ同時に、千葉景子元法相は刑場の初公開と死刑制度の存廃を含めたあり方を検討する勉強会の設置を指示した。背景には裁判員裁判の存在もあった。千葉氏は神奈川新聞社の取材に、「市民が死刑判決に関わるのだからこそ、裁判員だけが悩むのではなく、真っ正面から国民的な議論をしなければいけないと思った。そのための一つの資料が刑場公開だった」と語った。
昨年1月ごろ、複数のメディアが法務省に刑場公開を求めてきた。関係幹部は困難との認識を示し、千葉氏と副大臣らも個別の請求は断るしかないとの認識で一致。ただ、「何もしないで、いいというわけにはいかない」と話し合った。千葉氏は何らかの公開が考えられないか関係幹部に持ち掛けた。が、反応を見て、そのままでは進展しないだろうと感じた。
千葉氏が刑場公開と勉強会設置を指示したのは昨年7月。執行する意向の伝達とほぼ同時だった。死刑廃止論者だった千葉氏の命令による執行に対し、新聞の見出しでは「変節」などの文字が躍った。批判を受けるのが確定的な中、なぜ、踏み切ったのか。
「論理的には執行しないまま、刑場の公開や存廃も含めて死刑制度を検討することはありうるが、現実的には一つ一つの課題を明確に区別し解決するのは難しいと感じた。全体的に動かし始めないと、一つも進まないと思った」
「刑罰は国家の根幹、国家の意思そのもの。死刑制度を動かすには、法相としての責務を棚上げにしたままでは進まないと思った。信条に矛盾するが、法相として死刑問題を問いかけるには決断が必要と思った」
勉強会は執行の9日後に開催、刑場公開は1カ月後に実現した。千葉氏は9月に退任、後を託した。以来、法相は交代が相次ぎ、法務省は大阪地検特捜部の不祥事を受けた改革に追われるなど、死刑論議は進展していない。一方、裁判員裁判では少年に対しても含め、8件の死刑判決(うち横浜地裁2件)が出た。
「刑場公開などは動きだす契機になったと思うが、ようやく歩みだした段階だ。裁判員裁判では死刑にするかどうかの判断を市民が回避できるようにすることや、評決の仕方を検討する必要があるのではないか。勉強会は閉鎖的に終始せず、さまざまな意見や情報を国民に提供しながら議論を進めてほしい。議会も対立的な意見を乗り越え議論しようという努力がいささか欠けていたと、反省している」
決断から1年。元法相は今、こう考えている。
--------------------------
◆死刑 悩み深き森/千葉景子さん「執行の署名は私なりの小石」 2010-11-25 | 死刑/重刑/生命犯 問題
耕論 死刑 悩み深き森
「執行の署名は私なりの小石」 前法務大臣 千葉景子さん
死刑執行命令書に署名するかどうか。そうしない道はあったと思います。でもやっぱり、ただ「やりませんでした」では、死刑制度の是非をめぐる議論は消え入ってしまうのではないかと思ったのです。
法務大臣にご指名頂いて、受けるときに最初に考えました。必ずつきつけられてくる問題だろうと。
でも、国会開会中は政治とカネや指揮権、取り調べの可視化の問題などがあり、大きな問題に踏み込むのは、なかなかしにくかった。選挙の時は、色々な集まりで「廃止論をやめてほしい」といった声も多かった。非常に目に見えない雰囲気、というか。それを何かの理由にすることはないが、そういうことは正直言ってありました。
選挙に落ちてしまって、このまま私も離任、というところもなきにしもあらずでしたが、区切りまでという話になった。じゃあその中で、私が何かやっぱりやる必要があるだろうな、というのが自分の流れかなと。
法務官僚の説得に折れたというわけではありません。そういう方がわかりやすいですが。ただ、そういう見方を「ひどいなあ」とは思いません。
これは私の矛盾ですが、過去に執行された時は国会議員として「なぜやるんですか」「廃止の方向で行くべきじゃないですか」と当時の法相などに申し上げたのも事実です。しかし考えてみると、結局は国会として十分な議論と何らかの法案をまとめる、というところまで行っていない。どこかで本格的に議論をもう一度打ち立てていくことがないといけないのかなと。
執行と、議論を始めることは、セットじゃない。だけど、(死刑)廃止を言っていた人間が、執行することもなく議論しましょう、となると、「廃止論の流れを作ることだ」という風につながりやすいところはある。私は廃止論なんだと言って一直線で行くというのも確かに1つの道ではあるかもしれないのですが、それによって逆のとんでもない存続論が非常に強くわき起っていく、というのも感じます。
被害者に光を当てる流れがどんどん強まっている。被害者を大事にするのはもちろん否定しませんが、国会などが、ずっと忘れることなく議論をし、被害者のことも含めて、きちっと流れを作っていく、そういう場になっていく必要があると思います。
法務省内でも両論あって、内心ではどちらかというと廃止論の人もいる。「これからは廃止の方向に行かざるを得ないんじゃないかと思うが、今ただちには難しい」という話をしたりしていました。
(死刑廃止をしたフランスなどと比べて)日本では、司法や刑罰に関心を持つ人が考えているだけで、時の政権なり、トップリーダーがどういう意見を持っているかが明確ではない。だから、これまでも、その時の法相がやった、やらない、という問題になってしまっているように思います。
署名後、死刑執行に立会いました。死刑に肯定的な気持ちになることは、やっぱりないです。厳粛だとよく言いますよね。厳粛・・・厳粛・・・。ああいうものを厳粛というんだろうか。皆さわりたくない、やりたくない、そういうものを厳粛さみたいなものをもって、なんとか気持ちを肯定させている。えらくあっけないといえばあっけない。でも何か、とってもこう、美しくないというか、何か醜悪というか、でも形の上では厳粛。そこのなんとも落差というか、ある意味で自己嫌悪みたいなものもありました。
自分が立ち会っているってことはいったいなんなんだと。最後の責任者、という整理はつかないことはないが、自分の中で自分を責めるものがあって。いろんな理屈はあっても、国の権力をもって、あの人の命をそこで絶つ、ということはできるんだろうか、というのは改めて感じました。
そう感じるだろうということは、まったくわからなかったわけではありませんが、やっぱり何となく、観念的に整理していたんです。ただ現実を見ると、命という究極なものについて、国という抽象的なものをもって奪うことの残酷さ、醜悪さを実感したような気がします。うまく整理できませんが。死刑廃止の考えが変わったということはありません。今後どうしたらいいのかという自分の活動の方向は、まだ手探りの状態です。
(執行の場面の)記憶は、自分の中で薄れさせてはいけないという意識が強いです。ただ、執行後のことはあまり記憶がはっきりしていない。現実から違うところに自分がいるような状態だったんじゃないかと。
議論はみんなに引き継いでもらいたい。スタートはしたので、今後も続けて議論して頂ければいいのかなと。
裁判員裁判での死刑判決でも、裁判長が控訴を勧めました。死刑については二重、三重に考えてもらわなければいけないという悩みだったのかなあと思いもします。制度導入時にあまり深く論じられませんでしたが、死刑を前提にするのであれば、死刑判決は全員一致を要件にすべきではないか。
(署名したことについては)どう言おうとも、自己弁護みたいになるところはあると思うんです。私一人でたいそうなことができる人間でもない。思想家でも何でもない。死刑という問題について一つ、小石を投じることはできるかもしれない。こういう役目をもらった意味、私なりの遂行の仕方として何ができるだろうか。そういうことかもしれません。(聞き手・山口進)朝日新聞2010/11/20Sat.
.........................
◆衆愚の時代/検察審査会の市民感覚は、死んでる民の『死民感覚』/メディアの言いなりで「小沢叩き」に乗る2010-10-27 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
しかし、誤判は五万と有る、に違いない。 本来、傷害致死であるのに、殺人罪で裁かれているケースは数え切れぬほどでしょう。
加害者が自責の念、或いは自棄の念から、虚偽の殺意を表明を示していることも少なくないと思います。 これに“甘えて”警察、検察が(時には創られた)状況証拠、純科学的検証に耐え得ない物証で、死刑判決を得、世間が溜飲を下げる、と言う醜悪、下劣な状況を、私たちは目の当たりにしています。
くどいようですが、死刑存置派こそ、この状況に危機感を持たねばなりません。
http://kiyowta.blog27.fc2.com/blog-entry-3797.html
これ、興味深い。 元赤軍のテロ犯、パリ人肉事件の佐川さん、オウム村井氏刺殺犯が同席するトークショーなんて、鈴木邦男さんにしか出来ませんね。
コメント、ありがとう。
>死刑存置派こそ、
rice_showerさんがこのようにおっしゃるとき、私は安定感に包まれます。
国民的議論とか言われますが、いわゆる「市民感覚」というものに期待していません。
>鈴木邦男さんにしか
「鈴木邦男をぶっとばせ!」で、鈴木さんが次のように書いているのを思い出しました。
.....
三浦和義さんのあとを私が…
2008年10月に三浦さんが亡くなった。「自殺」だと報じられたが、「殺されたのだ」と言う人は多い。
その2ヶ月後、12月20日に三浦さんの本が出た。三浦さんが代官山でトークライブをし、いろんな人と話をした。それをまとめたものだ。
でも、まさか三浦さんが亡くなるとは思わない。この本の三浦さんの「あとがき」が「最期の手記」になってしまった。三浦和義『敗れざる者たち』(ぶんか社)だ。なかなか、いい本だ。ここには、カレー事件の夫の林健治さんも出ている。連合赤軍の植垣康博さんと、民族派右翼の蜷川正大さんも。元刑事の北芝健さんも。そして私までもが…。
そうだ。この『敗れざる者たち』にはサブタイトルがついている。〈「うしろ指さされ組」の記録〉だって。フーン、私らは、うしろ指さされてんのか。
そして、出版から2ヶ月後、和歌山で、「和歌山カレー事件を考える人々の集い」があり、私も行った。
3年前の和歌山集会の時、安田弁護士から、「三浦さんが亡くなったから、支援する会代表は、もう鈴木さんしかいませんよ」と言われたんだ。
......
>>フーン、私らは、うしろ指さされてんのか。
そこはかとない寂寥のごときものと、同時に一服の爽快感を覚えました。