〈来栖の独白 2010-08-06 〉
報道によれば、加藤智大被告は8月3日の被告人質問で、大学生の男性(=死亡)をトラックではねた瞬間について「目と口を大きく開き、『何で』と訴えかけてくるような表情だった。非常に気持ち悪い気がした」と述べている。これに対し大学生の父親は閉廷後「人の命を何だと思っているのか。非常に悔しい」と憤りをあらわにした、と伝えられている。
一方、30日の被告人質問で加藤被告は「事件の最中に少なくとも3回記憶が途切れた」「被害者17人のうち殺傷行為を覚えているのは最初にトラックではねて殺害した大学生2人と、ダガーナイフで刺して重傷を負わせた3人の計5人だけ」と証言している。
これらついて、少しく考えてみたい。
被害者(大学生)の父親の憤りは、尤もだと思う。加藤被告の「非常に気持ち悪い気がした」との言葉は、わが子を貶められたようで、遺族には聞くに耐え難かったのではないだろうか。「人の命を」奪ったうえに、その表情が「非常に気持ち悪い」とは何を言うか、と。
ここで私は、被告の供述中「『何で』と訴えかけてくるような表情だった」、「事件の最中に少なくとも3回記憶が途切れた」の2点を振り返る。
事件の最中に少なくとも3回記憶が途切れたというほどの精神の異状の中で、被告はすでに自分の行為の非を認識しているのではないだろうか。それが被告人をして被害者の顔を『何で』と訴えかけてくるような表情に見せた。『何で』と言いいながら、被害者は加藤被告にその行為の理不尽を訴えかけた、そのように加藤被告の目には映った。被告が気持ちが悪かったのは、「自分の行為」に対してであった。自らの行為そのものが、寝覚めが悪い、気持ちが悪い。私にはそのように感じられる。
事件の現場の惨状について、安田好弘弁護士は「死刑100年と裁判員制度」(インパクト出版会)のなかで次のように言っている。
裁判実務にずっと関わってきた者から申しますと、事件の現場というのは悲惨なわけですね。
もうおぞましいほどの、人間の死というものはものすごいものなわけです。血が飛び散り、内臓は飛び出し、あるいは死体遺棄のケースですと、人間が人間の形をとどめず、泥になってしまっている。ウジ虫が這っているような現場の写真を見せられるわけです。
もう一つ、加害者側も、いかんともしがたい人が多いわけです。そうでないと犯罪なんて起こしませんから。ちゃんとサポートしてくれる人がいて、あるいはいい人と出会って更生できる人はいいんですけれども、そうではないからこういう事件になってしまう。
「いかんともしがたい人が多い」。確かに、そうなのだろう。そうでなければ犯罪なんて起こさないだろう。
そこで「いかんともしがたい人」について、少し考えてみたい。安田氏弁護士の著『死刑弁護人』には次のような文脈がある。
いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。そして「弱い人」とは、その反対の人、である。私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。
「いかんともしがたい人」と安田氏は言うが、これは「凶悪」とか「残忍」を意味しない。「弱い人」というほどの意味である。加藤被告は、まさにこれに当てはまる。信頼できる友人がいなかった、相談相手がいなかった、決定的な局面に至る前に問題を解決することができず、多くの人を殺め、傷つけてしまった。
被告を残忍でない、と私が感じるのには、幾つかの点がある。
先ほどの「『何で』と訴えかけてくるような表情で非常に気持ち悪い」というのもそうであるし、7月30日の被告人質問では、次のように答えている。
友人や同級生から「また会いたい」と言われても、被害者の人間関係をぶち壊した自分が友人関係を再開することは許されないので遠慮したい。
被告には、ネットの掲示板のほかには居場所がなかった。幼少から円満な親子関係に包まれず、友人や相談相手のいない彼は「弱い人」であった。しかしその彼が、自己の犯した罪(被害者)を思い、友人を得るのは遠慮したい、と言うのである。彼が、その生涯において最も欲しかったもの、それは、友人であり居場所であった。それを断念するというのである。また、次のようにも言っている。7月30日の公判から。
責任はすべて自分にある。もっと自分のことをきちんと見つめ、正しい方向に進んでいくべきだった。
わたしがやったことに相応の刑が言い渡されるだろうと思う。残された時間で被害者、遺族の方に少しでも償いをしていきたい。
自分の有利なように(「派遣切り」などを動機とすれば情状面で有利になる可能性もある)、あるいは事件に社会性を持たせ分かり易くしようと思えば、検察の言うように事件の起きた原因を「派遣切り」に求めてもよかったのだろうが、加藤被告はそれを拒む。「ネットの掲示板」だけだという。
また、被告人質問の最終日(2010/08/03)、東京・八王子や広島の無差別殺傷事件の容疑者が捜査段階で「秋葉原事件をまねた」と供述したとされることを受け、加藤被告は、これらの事件の被害者や遺族に「間接的にわたしが影響させてしまい申し訳ない。」と謝罪している。
私はこれらに、被告人の残虐・凶悪の貌を見いだしえない。事件のもたらす惨たらしさと被告人の姿が結びつかない。
被害者に宛てた謝罪の手紙(※)の中で、被告は素直に詫びる。ただただ、素直な姿がある。
※ 秋葉原事件加藤智大被告謝罪の手紙要旨「同様の事件が起きないよう(公判で)真実を明らかにしたい」 2009-11-07 | 秋葉原無差別殺傷事件
本心の謝罪か自問/被害者の苦痛 ネット荒しに近い
【手紙の要旨】
東京・秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大被告が被害者に送った手紙の要旨は次の通り。
このたびは本当に申し訳ございませんでした。被害を与えたことについて、言い訳できることは何もありません。
おわびすることが皆さまの心情を害するのではないかと悩んでいるうちに一年が経過してしまいました。遅々として進まない裁判に皆さまの怒りも限界ではないかと考え、謝罪すべきだという結論に至りました。
謝罪する意思は本当に自分の感情なのか、ということをいろいろ考えましたが、反省している自分が存在していることは否めません。きれい事を並べた謝罪文のような形式だけの謝罪は皆さまへの冒瀆でしかなく、本心からの謝罪なのか、自問しながら書いています。 私には事件の記憶がほとんどありませんが、やったことに間違いはなく、罪から逃れるつもりはありません。私の非はすべて私の責任であり、その責めはすべて私が受けねばなりません。
私の非は、皆さまに通常ではあり得ない苦痛を与えたことです。人生を変化させたり、断ち切ったりしたことです。皆さまの人生を壊してしまい、取り返しのつかないことをしたと思っています。
家族や友人を理不尽に奪われる苦痛を想像すると、私の唯一の居場所だったネット掲示板で、「荒らし行為」でその存在を消された時に感じたような、我を忘れる怒りがそれに近いのではないかと思います。もちろん比べられるものではありませんが、申し訳ないという思いが強くなります。
被害を受けてなお、私に同情を示してくれるような方を傷つけてしまったと思うと、情けなくて涙が出ます。一命はとりとめたものの、障害が残った方にはおわびしようがありません。
どんなに後悔し、謝罪しても被害が回復されるはずはなく、私の罪は万死に価するもので、当然死刑になると考えます。
ですが、どうせ死刑だと開き直るのではなく、すべてを説明することが皆さまと社会に対する責任であり、義務だと考えています。真実を明らかにし、対策してもらうことで似たような事件が二度と起らないようにすることで償いたいと考えています。
いつ死刑が執行されるか分かりません。死刑の苦しみと皆さまに与えた苦痛を比べると、つりあいませんが、皆さまから奪った命、人生、幸せの重さを感じながら刑を受けようと思っています。
このような形で、おわびを申し上げさせていただきたいと存じます。申し訳ありませんでした。
(中日新聞11月7日記事)
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◇ 「秋葉原無差別殺傷事件」 被告人質問 2010.7.27 加藤智大被告 供述要旨 (東奥日報) 2010-07-27 | 秋葉原無差別殺傷事件
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◇ 「秋葉原無差別殺傷事件」加藤智大被告 母親との関係〈母親に対する証人尋問 2010.7.8.要旨〉 2010-07-28 | 秋葉原無差別殺傷事件
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