「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」…原爆投下、日本に責任があったとする誤った歴史観

2018-08-31 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

 産経WEST 2018.8.7 16:45更新
【西論】原爆の日 国を危うくする理想と現実の逆転
 6日、広島。9日、長崎。
 73年前の原爆の犠牲者に思いを至らせるべき日が続く。
*危機感の欠如
 深く頭(こうべ)を垂れたい。
 そして頭を垂れるからこそ、いま私たちは何をなすべきか、考えたい。
 核実験やミサイル発射を続けていた昨年9月、北朝鮮はあるまじき表現で日本を威嚇した。
 「日本列島の4つの島を核爆弾で海中に沈めるべきだ」
 原爆の犠牲者を汚す、言語道断の内容である。
 ところが、日本の国会で騒がれてきたのは何だったか。今年になってもなお、相も変わらず森友・加計(かけ)学園問題だった。昨年来の国会のていたらくほど、安全保障に対するこの国の危機感のなさを語るものはない。一部には危機意識を持った議員もいる。しかし国会全体として、安全保障問題、特に核議論について、悲しいほどに思考停止した状態が続いている。
 今年になって北朝鮮は融和路線に転じた。しかし「朝鮮半島の完全な非核化」に合意はしても、自国の非核化への道筋はいまだ示そうとはしない。融和ムードに気を抜いてはいけない。
*倒錯した戦後の状況
 安全保障、特に核をめぐる議論の思考停止を招いているものは何か。
 唯一の被爆国の国民として日本人は、だれよりも核兵器の廃絶や使用の禁止を願っているだろう。この理想の高貴さは決して否定されてはならない。しかし、現実の平和を守っているのは、理想ではなく現実の自衛力であり抑止力である。政治に限らず思想的にも、戦後の日本では理想と現実の逆転が起こってしまった。
 戦後の大きな知的潮流を作ったいわゆる進歩的知識人の活動は、当欄などで何度か見てきた。核や安全保障の議論を考えるうえで、その論点を振り返ることは欠かせない。重複をいとわず書く。
 知識人グループ、平和問題談話会が昭和25(1950)年に出した研究報告「三たび平和について」が、核問題を考えるうえで重要である。
 核兵器時代の戦争は地上最大の悪となった、と報告は位置づける。そのうえで、憲法の戦争放棄と非武装の精神が「現代戦争の現実認識に最も即した態度」であるとする。
 「理想主義的立場は、戦争が原子力戦争の段階に到達したことによって、同時に高度の現実主義的な意味を帯びるに至った」
 簡単にいえば、戦争放棄と非武装という理想を掲げることこそが、核時代の戦争を避けるための現実的な態度だといっている。
 進歩的知識人は昭和33年には憲法問題研究会を組織して、護憲の立場から発言を続けた。政治やメディアとも連動し、護憲派といわれる分厚い勢力ができた。
 核はおろか憲法改正議論すらタブー視されるような状況が、戦後日本では長く続くことになった。
 この倒錯した状況は終わっていない。現実のわが国の防衛に資する3年前の安全保障関連法の議論のときですら、「戦争法案」などとして反対する声が、野党のみならず知識人や市民から広範囲に起こったことは、記憶に新しい。
*誤った歴史観
 私たちは理想を持ちつつ、現実の社会に生きている。安全保障のように、刻々と変わる現実の環境に即して考えるべき問題について、理想を先立たせることは危うい。理想を抱きつつ、現実を見据えた手立てや議論をすることがまず必要である。
 北朝鮮情勢は現段階では、米朝の交渉の行方を見守りつつ、日本にできる可能な限りの自衛力を整えておかねばならない。高性能の地上配備型迎撃システム、イージス・アショアの導入を、遅滞なく進めるべきである。
 敵基地攻撃能力の保有については、憲法が要請するとされる専守防衛の立場から、なお議論自体が停滞している。国家の最高法規がその国の安全を危うくしているのならば、そのような憲法は間違っているのであり、改正を正面から議論すべきなのである。米国の核を共有する核シェアリングをはじめ、核抑止力の議論もタブー視すべきではないと、あえて書いておきたい。
 それは原爆の犠牲者に礼を失することにはならないはずである。平和を守ることこそ、犠牲者に応える道ではないか。日本の脅威となっている国に核兵器を使わせないためにこそ、核議論はなされるべきだろう。「海中に沈めるべきだ」などという暴言を、いわせるがままにしていてよいか。
 加えていうと、原爆投下も日本に責任があった、などとする誤った歴史観が、米国のみならず日本にもあった。
 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。そう刻んだ広島の原爆死没者慰霊碑碑文の、「繰返しませぬ」といっている主語は、常識的に読めば日本である。日本が誤っていたから原爆を投下されたということである。
 一昨年のオバマ前大統領の広島訪問は、誤った歴史観の米国における修正をうかがわせるものだった。投下国による実質的な謝罪であったといってよい。それなのに日本にいまだこのような歴史観があるとすれば、その方こそ原爆の犠牲者に失礼だろう。
 これは原爆の問題にとどまらない。日本の戦争を断罪し、日本人自身も受け入れてきたいわゆる東京裁判史観しかりである。(論説委員・河村直哉)

 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
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「広島原爆の日」2018.8.6 きれいごとの祭礼を続けていては、核を容認しているのと全く変わらない 日本人の儀式好きには辟易する 
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