小沢一郎氏 選挙戦最終日〈15日〉夕、選挙区である岩手4区に入り、北上市で街頭演説

2012-12-15 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

小沢氏、小選挙区制導入後初の岩手4区入り 衆院選
産経新聞 2012年12月15日19時37分
  日本未来の党の小沢一郎前衆院議員は15日夕、自身の選挙区である岩手4区に入り、岩手県北上市で街頭演説を行った。
 小選挙区制導入後、衆院選最中に小沢氏が4区に入るのは一度もなかった。後援会幹部は「街頭演説は3選目の選挙以降記憶にない。約30年ぶりだ」というが、未来が岩手県の他の選挙区で苦戦が伝えられ、「小沢王国」の危機が地元入りをさせたとみられる。
 市内の百貨店前にたすきを掛けた姿で登場、雨の中集まった約500人を前に「久しぶりに地元の皆さんのお力をいただき勇気百倍だ!」と満面の笑みを浮かべた。
 さらに「私が(公判などで)政治活動を制約されている間に民主党政権は易きに流れ、権力におぼれた」と古巣の民主党への批判を展開。「皆さんに恩返しをまだ十分できず申し訳ないが、政治生命が続く限り、郷里と国民のためにこの一命をささげて頑張っていく。また国会に送っていただきたい」と締めくくった。
 14日夜は、毎週金曜に首相官邸前で行われる「反原発」デモに参加した。
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小沢氏正念場、てこ入れに躍起 終盤戦、異例の岩手行脚
河北新報2012年12月14日金曜日
 日本未来の党前議員小沢一郎氏(岩手4区)が衆院選(16日投開票)終盤の12日から岩手県入りし、党公認候補のてこ入れに懸命だ。民主党分裂や自民党への追い風で、自らも減票を覚悟しなければならない戦いとなり、選挙戦最終日の15日には4区で異例の街頭演説に立つ。党が全国的に劣勢と伝えられる中、「王国」岩手の存亡を懸け小沢氏の神通力が試される。
 「出遅れたが、やっと(民主党前議員と)横一線に来た。(勝利まで)あともう少しなので、よろしくお願いします」
 小沢氏は13日、岩手3区の新人候補を応援するため、6時間で大船渡、釜石、遠野各市の計11カ所で街頭演説に臨んだ。1カ所10分程度、数十人規模をきめ細かく回る戦術で、一人一人と握手を交わし頭を下げた。
 最激戦とされる1区を中心に街頭演説や有力者を回り、選対関係者らにハッパを掛けるという。
 「来てくれると心強い」。未来の各陣営は小沢氏の岩手入りに大きな期待を寄せる。たもとを分かった民主陣営は「小沢氏が入ると一気に組織が引き締まり、勢いがついた。票が伸びるのは間違いがない」と警戒心をあらわにする。
 「4日間も岩手に入るのは記憶にない」(小沢氏の後援会幹部)というほどの強力なてこ入れは、「小沢王国」存亡への危機感の表れだ。100人以上いる党公認候補のほとんどが苦戦する中、岩手は候補者が当落線上にいる数少ない選挙区とみられている。
 県議の一人は「この選挙は、小沢先生の発言力が国会で保てるかどうかの戦いだ」と、岩手での議席確保の重要性を強調する。
 小沢氏が選挙期間中に自らの選挙区の街頭に立つのは極めて異例だ。後援会連合会の小笠原直敏会長は「それだけ危機感を持っている」と話す。
 強固な小沢氏の地盤は、民主党分裂でほころびが生じた。長年支える後援会組織は高齢化が進み、悲願の政権交代を果たしたのに自ら離脱した経緯などから士気が低下した側面もある。
 小沢氏は9月に後援会会合に参加して引き締めを図ったが、ある後援会幹部は「培った組織力の『貯金』で勝てると思っていたが、自民党への追い風が強い」と、予想以上の厳しさを口にする。
 有権者には冷めた声もある。釜石市の仮設住宅で小沢氏の演説を聞いた無職の男性(69)は「あまり被災地に来なかったのに、こういうときだけ来られても釈然としない」と話した。
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小沢構想 卒原発 これが切り札だ/嘉田代表と小沢氏が揃って街頭演説 JR有楽町駅前で 選挙戦最終日の15日 2012-12-15 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 
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小沢一郎氏 反原発集会で呼びかけ「国会で脱原発の声を出す人たちが多数を占めなければ、結果は出せない」 2012-12-15 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 

           
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[未来]小沢一郎氏 異例の地元街頭演説 / 14日夜は首相官邸前「反原発デモ」へ参加 2012-12-14 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 

       

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“小沢王国”で小沢一郎氏(岩手4区)が珍しい動き…最終日まで / 2005年衆院選以来 2012-12-14 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 

      

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2 コメント

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Unknown (田中洌)
2012-12-15 22:48:51
議事堂前、反原連の前に来た小沢どんもよかったが、今日の日比谷デモの先頭で歩いた嘉田のお母んもよかった。

人たちの熱さはすごく、シーンと静まりかえった。

おれたちは、おれたちひとりひとりと同じくらいいい政治家を持っている。
そのことに誇りを持った。

負けてはならない。
負けないだろう。

ぼくの住む埼玉でもデモのたびに知らない人たちがふえてきた。

いくら体制が生き延びようとしても戦争だけはいけない。

戦争だけは!!!!

それだけはまちがいない。

いざとなれば、子たちに善戦に行かせるが、とめるために命を張るのがおれたちだ。

中国や北やソ連や米のてっぺんではなく、それらの国のしものしものしものほうと手を繋ごう!!



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Unknown (Unknown)
2012-12-16 06:57:28
 「小沢一郎氏は「このままだと大政翼賛会」と言うが/ ただ単に戦争回避ではなく、「平和」の質が問われている」 http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/beaf94a21692d58ecc347cfcad71a311

 尖閣諸島周辺には中国の船が出没し、公然と「核心的利益」を表明している。中国の覇権主義の触手は、日本にだけではない。チベットやウイグルは既に中国の圧政下にある。周辺諸国との摩擦が絶えない。北朝鮮はミサイルの打ち上げを表明した。
 小沢氏の「ただ単に、口先だけ勇ましいことを言って、本当に国民の命を守れるのか、国土を守れるか」との言葉を、そのまま氏に問い返したい。
 このまま中国の言いなりになっていれば「戦争」だけは回避できるだろう。しかし、それは、この国がチベットのように、ウイグルのように、中国の属国になるということだ。憲法9条は戦争回避・軍事放棄を掲げてきた。占領国アメリカが押しつけ、望んだ「従順な被占領国ニッポン」であり続ける道筋を謳っている。そのように日本は戦後半世紀以上を生きてきた。米国は憲法改正させぬように、と改正には議会の3分の2以上の賛成を必要とするとした。
 が、そのアメリカが、近年、日本の憲法9条、非武装に頭を悩ませている。アメリカでは、改憲を望む声が日増しに高くなっている。アメリカの国力の衰弱に反比例するように、中国の軍拡が目覚ましいからだ。加えて、中東など世界的規模で反米の波が高まっている。
 このような国際社会のなかで、「平和」の質が問われている。ただ単に戦争が無ければよい、というものではないだろう。国家・国民の主権が尊重され、他国からの支配を受けないことが、真っ当な国としての要件だ。
  「戦争放棄」を謳う憲法によって集団的自衛権を行使しない日本を、世界は決して尊敬していない。ハード・パワーを出さず、ソフト・パワーで体よく利ザヤを稼ぐ日本を、世界は卑怯だとみなしている。これが国際社会の現実である。護憲を声高に主張する人々には、国際社会の動向に疎く独り善がりが多い。例えば北朝鮮についても、彼の国が世にも貧しい暮らしをしながら技術立国であることを、どの程度認識しているだろうか。
 小沢氏は2009年に団を組織して訪中した。習近平氏を天皇さんに会わせたのも、小沢氏である。民主主義を断固認めず、核心的利益・覇権国家を標榜してやまない彼の国を鳩山内閣(実質・小沢政権)は「正三角形」と称して「日米中が対等に付き合う」と言った。国際社会とは、そのようなものではない。常に、力と力を見せ合い、戦っている。外交のひと言先には戦争がある。戦争を回避したいなら、属国・被支配を国民(未来=子孫)に強いる覚悟が要る。核武装は戦争のためではない。戦争抑止としての核の存在理由がある(核に転用できるという意味での原発の存在理由がある)。
 国とは、国土・領海・主権、固有の文化が守られる「国家」でなければならず、国民は何人からも支配されず、尊厳が守られねばならない。
 附けたりを一つ。
 第2バチカン公会議は現代世界憲章78のなかで次のように言う。《平和とは、単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡の保持でもありません》。
 聖書に示される「平和」(シャローム)の本来の意味は《傷付いた部分のない状態》のことである。戦争がなく一見「平穏」に見える戦後日本は、聖書のメッセージから見れば、必ずしも平和とは言えず、国民は平和ボケ(仮想平和)に陥っていただけなのかもしれない。自分の周りのあちこちに、差別され軽んじられ痛む人がいるとしたら、それは「平和」ではない。国と国との関係においても、戦争はなくとも支配する国と支配される国とに分かれるならば、それは「平和」ではない。平和とは、「小さくされた人」を守るために戦うことだ。支配されたり、見下されたりしてはならない。旧約聖書(エレミア6・13-14)は次のようにいう。
 《身分の低いものから高いものに至るまで、
 皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、皆、あざむく。
 彼らはわが民の破滅を手軽に治療して、
 平和がないのに「平和だ、平和だ」と言う。》
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