内と外の「二枚舌」要らぬ憲法を 佐瀬昌盛 

2013-05-31 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

【正論】防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 内と外の「二枚舌」要らぬ憲法を
産経新聞2013.5.31 03:07
 自分の知力、気力、体力が最も盛んだった時期を、私は防衛大学校で過ごした。当初、防大生は街で「税金泥棒」とか「憲法違反」とかの罵声に耐えねばならなかった。猪木正道学校長時代、これらの罵声が不当であることを防大生に納得させるため、新入学生に憲法学習の時間が設けられた。私はそれを担当しなかったが、自分の考えを纏(まと)める必要があった。言うまでもなく、最大の問題点は現行憲法の第9条であった。
 ≪護憲派は「憲法文言墨守派」≫
 「いわゆる護憲派」全盛の時代だったので、対外的発言には細心の注意を要した。開口一番、「私は護憲論者です」と名乗る。聴衆は怪訝(けげん)そうな表情。次に「護憲論者だから改憲が必要と考えます」と私。聴衆は???だ。そこで私。「第96条には憲法改正に関する規定があります。改憲は禁じられていません。だから、護憲と改憲は矛盾しません」。そして「いわゆる護憲派」は実は「憲法文言墨守派」に過ぎない、と結ぶ。
 昨今はさすがに「憲法一字一句墨守派」は減った。昔日の「墨守論者」たちは9年前に「九条の会」へと戦線縮小した。それに参画した憲法学者、奥平康弘東大教授は「この会のターゲットは9条一本に絞って、改定に対する反対の声をあげていこうというものです」と語った。一点墨守論だ。
 産経新聞の「国民の憲法」要綱づくりで現行の9条関係を担当できたことは私にとり誠に光栄であった。日本は現実の必要から自衛隊という軍事組織をつくったが、これには2つの大きな難点があったし、現になおある。第1は入り組んだ憲法解釈なしではその合憲性が説明できないこと、第2は自衛隊を説明するのに国内向けと対外的とで二枚舌を必要とすることだ。私は「国民の憲法」ではこの2つの難点を消したいと努めた。
 ≪一丁目一番地で手品的解釈≫
 現行の9条を含む第2章は「戦争の放棄」と題されている。9条1項、2項のどこにも「国防」の文字はない。が、現実には憲法発布から数年で「国防」の必要が生まれた。ためにその数年後には国防を担う自衛隊が発足。その合憲性は憲法の明文規定ではなく憲法解釈に依拠した。9条は国防に関する憲法解釈の一丁目一番地。道はそこから東西南北に走る。「戦力の不保持」へと向かったはずの道が、気がつくと大きくカーブ、「戦力ではない自衛隊」に行き着いた。憲法解釈という手品だ。
 当初、国民は自衛隊は違憲くさいと思いつつも現実の必要性をより重視した。やがて国民の8割が自衛隊を肯定、手品じみた憲法解釈に無関心となった。しかし、この現実は憲法重視の見地からは不健全が過ぎる。だから「国民の憲法」は「国防」の必要を第3章の章名で謳(うた)うことにした次第だ。
 自衛隊は国民の間では定着している。だが、国際社会ではどうか。自衛隊は国際的には「SDF(セルフ・ディフェンス・フォース)」を名乗る。他国を見れば分かるように、「F(フォース)」は「軍」であって「隊」ではない。日本国内では自衛隊は「隊」だが、「軍」であってはならない。9条2項が「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁じているからだ。つまり、日本では国の内と外とで二枚舌に終始してきた。それでも、自衛隊の活動が国内に限定されている間はまだよかった。国連平和維持活動(PKO)が任務に加わる時代となると、新しい問題が生じた。
 派遣先で同じ任務に従事する他国の部隊が必要に応じて国連基準で許される武器使用も、「軍」でない自衛隊はその一部を国内法で縛られて「使用不可」だ。他国部隊への後方支援も、他国の「武力の行使と一体化」すると、憲法違反と解釈され、許されない。派遣された自衛隊が現場で苦しむという不条理。これも自衛隊が「軍(フォース)」でないことに起因する。
 ≪自衛隊は「軍」との明文規定≫
 では改憲で自衛隊を「自衛軍」に改めると、問題は片付くか。否。なぜなら「自衛軍」もSDFであり、対外的には同じ看板が続くからである。外国にすれば、「看板が同じなのに行動原理が変わるのはどうして?」となる。日本不可解論の増幅もあり得よう。
 結局、自衛隊もSDFも清算するほかない。では「国防」に必要な「軍(フォース)」は何と呼ばれるべきか。「国民の憲法」では「軍を保持する」と謳った。これは機能の記述であり、組織呼称ではない。呼称は将来の法律に委ねられる。「第3章 国防」、「第16条 軍の保持」に照らして「国防軍(NDF)(ナショナル・ディフェンス・フォース)」と呼ぶのが妥当だろう。
 「自衛権」は謳わないのか。要綱には「確立された国際法規に従って」とある。国連憲章第51条で「個別的、集団的自衛権」は国家固有の権利だ。ゆえに憲法でそれを明文否定しない限り、保有は自明だ。自明を書くには及ばない。
 義務教育を終え、選挙権年齢に達した国民が読んで合格点を取れる程度に理解できる憲法。国防という重要事項につき手品まがいの憲法解釈を必要としない憲法。それが防大の教壇に立って以来の私の念願だったから、要綱策定は苦しかったが、楽しかった。(させ まさもり)
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自衛権の解釈要す憲法/国権の発動 永久に放棄~「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」 2012-11-05 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
 自衛権の解釈要す憲法は異常だ
 産経ニュース2012.11.5 03:17 [正論]防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
 外国が日本を侵略したら自衛隊が出動してわが国と国民を守る。国民の圧倒的多数がそれを当然視している。自衛隊のこの行動を何と呼ぶかとの質問には、その名のごとく自衛の行動だと答えるだろう。その行動は正当かと重ねて問われれば、正当と答えるはずだ。
■9条の読み方の違い
 ところが、では憲法の9条との関係でそれは正当な行動と呼べるかとなると、驚くほど多くの国民がしどろもどろだろう。無理もない。何せ憲法制定国会問答で吉田茂首相が「戦争の放棄」を謳(うた)うこの憲法の下、「自衛権の発動としての戦争」も放棄したかのごとき答弁を残したほどなのだから。
 だから、自衛隊の前々身の警察予備隊が発足した昭和25年以降、万年野党ながら国会第二党だった日本社会党が「非武装中立」論の下、「自衛隊違憲」を唱えたのも、あながち奇異とは言えなかった。多くの知識人、とくに憲法学者の多数派が社会党のこの主張に共鳴した。9条については、立場次第でいく通りもの読み方があったし、現になおその名残がある。
 ただ、こと政府に関する限り、9条の読み方は一本化された。警察予備隊、保安隊を経て吉田政権最末期に自衛隊が発足した後、昭和29年暮れに誕生した鳩山一郎政権は自衛隊の根拠となる「自衛権の存在」を憲法解釈として明言した。いわく「第一に、憲法は、自衛権を否定していない。第二に、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない(=自衛隊はこの抗争用の手段)」。
 40年後の平成6年にはからずも首相の座に押し上げられた村山富市社会党委員長は一夜にして「自衛隊違憲」から「自衛隊合憲」に乗り換えてしまった。つまり、政府首長として右の政府統一見解に改宗、積年の、だが賞味期限のとっくに切れた社会党流の解釈を見限ったのだ。誰が見ても、それはそれで結構なことだった。
 が、これらの歴史的情景は、立憲国家にとって健常と言えるか。否、だろう。有事に国と国民を守るという国家至高の責務の可否が憲法条文で一義的に明瞭とは言えない状態は、健常であるはずがない。無論、この異常さの淵源は現行憲法が敗戦の翌年、占領下で制定された点にある。それが百%の押し付け憲法ではなかったとしても、日本は戦勝国による非軍事化政策を受容するほかなかったし、結果、自衛権の存否につき立場次第で百八十度方向の違う解釈さえ許す憲法が誕生したのである。
■国家の一丁目一番地の問題
 爾来、こと自衛権の存否に関する限り日本は「憲法解釈」なしでは立ち行かない国である。念のため言うが、「憲法解釈」の必要がない国などない。が、ことは程度問題だ。国家の自衛といういわば国家に取り一丁目一番地の問題までもが、半世紀を超えて「解釈」に依存し続ける国は日本以外にはない。今後もそれでいいのか。
 今日、納税者たる国民は有事に国家が自衛隊をもって自分たちを守る、すなわち、自衛権を行使するのを自明視している。だが、それは9条を読んで納得したからでもなければ、いわんや先述の政府統一見解に共鳴してのことでもない。そんなこととは無関係に、納税者としていわば本能的欲求がそういう反対給付を国家に求めているまでのことだ。乱暴に言うと、自衛権について何を言っているのかが曖昧な9条なぞどうでもいいというのが実情だろう。
■保有わざわざ謳うのは傷痕
 考えてもみよ。有権者のいったい何%が「自衛権の存在」に関する政府統一見解の存在を知っているだろう。百人に一人? つまりウン十万人? 冗談じゃない。そんなにいるものか。では、国会議員の何割が、いや政府閣僚のいく人が憲法9条のいわば「正しい」読み方、つまりは「自衛権の存在」に関する政府統一見解を、合格点が取れる程度に理解しているか。言わぬが花だろう。
 憲法は第一義的には国民のためにある。憲法学者や、いわんや政府の法解釈機関(内閣法制局)のために、ではない。ところが、国の存亡に関わる第9条、わけても自衛権存否の問題は、憲法学者や内閣法制局の水先案内なしでは国民は理解ができない。この状態は明らかに望ましくない。自衛権の存在は、少なくとも平均的な文章読解力を持つ国民が、その条項を読んですんなり理解できるよう記述されなければならない。
 近時、政権党たる民主党は別だが、大小の政党や多くの団体が競うように憲法改正案を発表した。そのほとんどがわが国は「自衛権を保有する」旨を謳っている。が、国連憲章により自衛権は国家「固有の権利」なのだから、その必要は本来ない。ただ、日本には、この問題を憲法自体でなく憲法解釈によって切り抜けてきたという、積年の悲しい業がある。
 各種の憲法改正案がわざわざ自衛権保有を謳うのは、この業のゆえであり、いわば一種の傷痕である。だが、傷痕をことさら目立たせるのはよくない。傷痕を小さく、国際常識に立つ姿勢を明示することこそが望ましい。(させ まさもり)
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『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著《ハドソン研究所首席研究員》 2012年07月25日1刷発行 PHP研究所
p1~
  まえがき
 日本の人々が、半世紀以上にわたって広島と長崎で毎年、「二度と原爆の過ちは犯しません」と、祈りを捧げている間に世界では、核兵器を持つ国が増えつづけている。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に加えて、イスラエル、パキスタン、インドの3ヵ国がすでに核兵器を持ち、北朝鮮とイランが核兵器保有国家の仲間入りをしようとしている。
 日本周辺の国々では核兵器だけでなく、原子力発電所も大幅に増設されようとしている。中国は原子力発電所を100近く建設する計画をすでに作り上げた。韓国、台湾、ベトナムも原子力発電所を増設しようとしているが、「核兵器をつくることも考えている」とアメリカの専門家は見ている。
 このように核をめぐる世界情勢が大きく変わっているなかで日本だけは、平和憲法を維持し核兵器を持たないと決め、民主党政権は原子力発電もやめようとしている。
 核兵器を含めて武力を持たず平和主義を標榜する日本の姿勢は、第2次大戦後、アメリカの強大な力のもとでアジアが安定していた時代には、世界の国々から認められてきた。だがアメリカがこれまでの絶対的な力を失い、中国をはじめ各国が核兵器を保有し、独自の軍事力をもちはじめるや、日本だけが大きな流れのなかに取り残された孤島になっている。
 ハドソン研究所で日本の平和憲法9条が話題になったときに、ワシントン代表だったトーマス・デュースターバーグ博士が「日本の平和憲法はどういう規定になっているか」と私に尋ねた。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
 私がこう憲法9条を読み上げると、全員が顔を見合わせて黙ってしまった。一息おいてデュースターバーグ博士が、こういった。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
 これは非公式な場の会話だが、客観的に見ればこれこそ日本が、戦後の半世紀以上にわたって自らとってきた立場なのである。
 このところ日本に帰ると、若い人々が口々に「理由のはっきりしない閉塞感に苛立っている」と私に言う。私には彼らの苛立ちが、日本が他の国々とあまりに違っているので、日本が果たして国家なのか確信が持てないことから来ているように思われる。世界的な経済学者が集まる会議でも、日本が取り上げられることはめったにない。日本は世界の国々から無視されることが多くなっている。
p243~
 日米安保条約のもとで、アメリカがどう考えているかということに関わりなく、アジアの人々は、日本がアメリカの一部であり、日本の国土や船舶を攻撃することは、アメリカを攻撃することだと考えてきたのである。
 日本では国際主義がもてはやされ、国際社会では民主的で人道的な関わり合いが大切で、そうした関係が基本的に優先されると思ってきた。だがこうした考え方が通ってきたのは、アメリカの核兵器による抑止力が国際社会に存在していたからである。そのなかでは日本はアメリカの優等生として受け入れられてきた。
 日本は、国際社会における国家の関係は好き嫌いではなく、損か得かが基本になっていることを理解しなければならない。国際社会における国家は、国家における個人ではない。国際社会というのは、それぞれの国家が利益を守り、あるいは利益を求めて常に混乱しているのである。国家は、世界という利益競合体のなかにおける存在単位なのである。当然のことながら、好き嫌いといった感情が入る余地はない。
 日本人は感情的であるとよく言われるが、世界を感情的に捉えて、国家を理解しようとするのは間違っている。日本人が世界で最も好かれているという思い込みは、世界という実質的な利害共同体のなかで、日本がアメリカのもとで特別な存在だったからに過ぎないことを忘れているからだと私は思う。
p244~
 いずれにしてもアメリカの力が大きく後退し、アメリカの抑止力がなくなれば、日本は世界の国々と対等な立場で向き合わなければならなくなる。対立し、殴り合ってでも、自らの利益を守らなくてはならなくなる。そうしたときに、好きか嫌いかという感情論は入る余地がないはずだ。(略)
 アメリカの核兵器に打ちのめされ、そのあとアメリカの力に頼り、国の安全のすべてを任せてきた日本人は、これから国際社会における地位を、自らの力で守ることを真剣に考えなければならない。
p263~
あとがきに代えて--日本は何をすべきか
 アメリカは核兵器で日本帝国を滅ぼし、そのあと日本を助けたが、いまやアメリカ帝国自身が衰退しつつある。歴史と世界は常に変わる。日本では、昨日の敵は今日の友と言うが、その逆もありうる。いま日本の人々が行うべきは、国を自分の力で守るという、当たり前のことである。そのためには、まず日本周辺の中国や北朝鮮をはじめとする非人道的な国家や、日本に恨みを持つ韓国などを含めて、常に日本という国家が狙われていることを自覚し、日本を守る力を持たなければならない。(略)
p264~
 軍事同盟というのは、対等な力を持った国同士が協力して脅威に当たらねばならない。これまでの日米関係を見ると、アメリカは原爆で日本を破壊したあと、善意の協力者、悪く言えば善意の支配者として存在してきた。具体的に言えば、日本の円高や外交政策は紛れもなくアメリカの力によって動かされている。日本の政治力のなさが、円高という危機を日本にもたらしている。その背後にあるのは、同盟国とは言いながら、アメリカが軍事的に日本を支配しているという事実である。
 いまこの本のまとめとして私が言いたいのは、日本は敵性国家だけでなく、同盟国に対しても同じような兵器体系を持たねばならないということである。アメリカの衛星システムやミサイル体制を攻撃できる能力を持って、初めてアメリカと対等な軍事同盟を結ぶことができる。もっとも、これには複雑な問題が絡み合ってくるが、くにをまもるということは、同盟国に保護されることではない。自らの力と努力で身を守ることなのである。そのために、日本が被った原爆という歴史上類のない惨事について、あらためて考えてみる必要がある。
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『帝国の終焉』(「スーパーパワー」でなくなった同盟国・アメリカ)日高義樹著 2012年2月13日第1版第1刷発行 PHP研究所
p168~
第4部 日本はどこまで軍事力を増強すべきか
 日本はいま、歴史的な危機に直面している。ごく近くの隣国である中国は、核兵器を中心に強大な軍事体制をつくりあげ、西欧とは違う独自の倫理に基づく国家体制をつくりあげ、世界に広げようとしている。すでに述べたように、中国は人類の進歩が封建主義や専制主義から民主主義へ向かうという流れを信用していない。中央集権的な共産党一党独裁体制を最上とする国家を維持しながら軍事力を増強している。そのような国の隣に位置している日本が、このまま安全でいられるはずがない。
 日本はいまや、同じ民主主義と人道主義、国際主義に基づく資本主義体制を持つアメリカの支援をこれまでのようには、あてにできなくなっている。アメリカは、歴史的な額の財政赤字を抱えて混乱しているだけでなく、アメリカの外のことに全く関心のない大統領が政権に就いている。こうした危機のもとで、日本は第2次大戦に敗れて以来、初めて自らの力で自らを守り、自らの利益を擁護しなければならなくなった。
 第2次大戦が終わって以来、日本人が信奉してきた平和主義は、確かに人類の歴史上に存在する理念である。だが、これほど実現の難しい理念もない。
p170~
国家という異質なもの同士が混在する国際社会には、絶対的な管理システムがない。対立は避けられないのである。人間の習性として、争いを避けることはきわめて難しい。大げさに言えば、人類は発生した時から戦っている。突然変異でもないかぎり、その習性はなくならない。
 国連をはじめとする国際機関は、世界平和という理想を掲げているものの、強制力はない。理想と現実の世界のあいだには深く大きなギャップがあることは、あらゆる人が知っていることだ。
 日本はこれまで、アメリカの核の傘のもとに通常兵力を整備することによって安全保障体制を確保していたが、その体制は不安定になりつつある。今後は、普遍的な原則に基づいた軍事力を整備していかなければならない。普遍的な原則というのは、どのような軍事力をどう展開するかということである。(略)
p171~
 日本は、「自分の利益を守るために、戦わねばならなくなった時にどのような備えをするか」ということにも、「その戦争に勝つためには、どのような兵器がどれだけ必要か」ということにも無縁なまま、半世紀以上を過ごしてきた。アメリカが日本の後ろ盾となって、日本にいるかぎり、日本に対する戦争はアメリカに対する戦争になる。そのような無謀な国はない。したがって戦争を考える必要はなかった。このため日本はいつの間にか、外交や国連やその他の国際機関を通じて交渉することだけが国の利益を守る行為だと思うようになった。
 よく考えてみるまでもなく、アメリカの日本占領はせいぜい数十年である。人類が戦いをくり返してきた数千年の歴史を見れば、瞬きするほどの時間にすぎない。日本人が戦争を考えずに暮らしてこられた年月は、ごく短かったのである。日本人はいま歴史の現実に直面させられている。自らの利益を守るためには戦わねばならない事態が起きることを自覚しなければならなくなっている。
 国家間で対立が起きた時、同じ主義に基づく体制同士であれば、まず外交上の折衝が行われる。駆け引きを行うこともできる。だがいまの国際社会の現状のもとでは、それだけで解決がつかないことのほうが多い。尖閣諸島問題ひとつをとってみても明らかなように、外交交渉では到底カタがつかない。
p172~
 ハドソン研究所のオドム中将がいつも私に言っていたように、「常にどのような戦いをするかを問い、その戦いに勝つ兵器の配備を考える」ことが基本である。これまでは、アメリカの軍事力が日本を守っていたので、日本の軍事力は、アメリカの沿岸警備隊程度のものでよかった。日本国防論は空想的なもので済んできたのである。
p173~
 ヨーロッパで言えば、領土の境界線は地上の一線によって仕切られている。領土を守ることはすなわち国土を守ることだ。そのため軍隊が境界線を守り、領土を防衛している。だが海に囲まれた日本の境界線は海である。当然のことながら日本は、国際的に領海と認められている海域を全て日本の海上兵力で厳しく監視し、守らなければならない。尖閣諸島に対する中国の無謀な行動に対して菅内閣は、自ら国際法の原則を破るような行動をとり、国家についての認識が全くないことを暴露してしまった。
 日本は海上艦艇を増強し、常に領海を監視し防衛する体制を24時間とる必要がある。(略)竹島のケースなどは明らかに日本政府の国際上の義務違反である。南西諸島に陸上自衛隊が常駐態勢を取り始めたが、当然のこととはいえ、限られた予算の中で国際的な慣例と法令を守ろうとする姿勢を明らかにしたと、世界の軍事専門家から称賛されている。
 冷戦が終わり21世紀に入ってから、世界的に海域や領土をめぐる紛争が増えている。北極ではスウェーデンや、ノルウェーといった国が軍事力を増強し、協力態勢を強化し、紛争の排除に全力を挙げている。
p174~
 日本の陸上自衛隊の南西諸島駐留も、国際的な動きの1つであると考えられているが、さらに必要なのは、そういった最前線との通信体制や補給体制を確立することである。
 北朝鮮による日本人拉致事件が明るみに出た時、世界の国々は北朝鮮を非難し、拉致された人々に同情したが、日本という国には同情はしなかった。領土と国民の安全を維持できない日本は、国家の義務を果たしていないとみなされた。北朝鮮の秘密工作員がやすやすと入り込み、国民を拉致していったのを見過ごした日本は、まともな国家ではないと思われても当然だった。
第5章 オバマはアメリカをイギリスにする
第2部 アメリカは財政赤字で分裂する
p206~
 もともとアメリカはキリスト教の国である。だが自由、平等、民主を国是にする国でもある。したがってキリスト教に対立的な回教も、平等の考え方から受け入れている。だがそれにしても、回教徒を軍人に採用して、中東で戦わせたのは、思慮に欠けるやり方だった。第2次世界大戦でアメリカ政府は、日系アメリカ人兵士を太平洋ではなく、ヨーロッパに送ってドイツと戦わせた。
p207~
 日本にも、アメリカ的な自由、平等といった考え方に共感する人は大勢いる。だがその共感が世界国家主義につながっているケースが多い。国境がなくなり世界が一つになれば、人間はもっと幸福になるという考え方である。だがすでに述べたように、人類のDNAが突然変異を起こさないかぎり、世界国家が実現することはない。
 人と人との対立は人間の自然のあり方なのである。人は己の利益を守ろうとして対立する。思想や宗教で対立する。ハッサム中佐は、アメリカという国に、同じ回教徒である人々に銃を向けろと命令されたことに反発し、悩んだ末に回教徒ではない人々に銃を向け殺傷した。
 アメリカだけではなく、世界のあらゆる場所で人種や宗教からくる対立が起きている。つまりアメリカだけの問題ではない。人間そのものの問題なのである。簡単に言ってしまえば、理念や考え方、宗教が異なる人々が、一緒の行動をとることは非常に難しいということである。だからといって一人ひとりが勝手な行動をとり続ければ、アナーキー、無政府状態の混乱に陥る。人を国に置き換えれば、世界国家というものがいかに現実離れした考えかがよく分かる。
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「尖閣」日本側は現在の憲法の制約下では自国の領空侵犯が明白でも外国の無人機をいきなり撃墜はできず 2012-10-25 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法〉
尖閣空域に中国の無人機が飛んでくる 日本の譲歩を求めて海から空から威嚇
JBpress 2012.10.24(水)「国際激流と日本」古森義久
 尖閣諸島を自国領として日本から奪取しようとする中国の戦略意図はますます明確となってきた。中国が今後ともあの手この手で日本を威嚇し、圧力をかけて領有権での譲歩を求めてくることは確実である。
 日本側としては、尖閣諸島を放棄してしまうという道を選ばない限り、中国との間では「永遠の摩擦」を覚悟して対処するしかない。この「永遠の摩擦」という言葉は米国の海軍大学付設の「中国海洋研究所」のピーター・ダットン所長が尖閣問題での日本の立場を評して使った表現だった。こうした表現に象徴されるように、米国でも尖閣を巡る日本と中国との対立に真剣な関心が向けられている。
■中国軍が尖閣に迫ってくる可能性はあるか
 中国の今後の尖閣問題へのアプローチには、当然、軍事的な動きが含まれる。軍事だけが尖閣攻略のすべての方法ではないことは明らかだが、軍事がいつも主要な要因であり続けることも明白だと言える。
 いまのところ米国の専門家たちの間では、中国は尖閣諸島に向けての正面からの軍事力の行使は避けるという見方がコンセンサスに近くなっている。
 中国が軍事手段を当面は選ばないという理由は、日本側の防衛力が強固であり、尖閣周辺の局地戦では中国軍にはとうてい勝ち目がないことが最大だとされている。また、米国が同盟国として日本が尖閣への攻撃を受けた場合には軍事支援する方針を言明していることの比重も大きい。
 とはいえ、今後、中国がなんらかの形で軍事力を使って尖閣に迫ってくると見通す米国専門家も、極めて多いのである。現に中国人民解放軍は10月19日にも東シナ海で東海艦隊などの艦艇11隻を投入して、尖閣対策であることが明白な合同演習を実行した。今後も中国海軍の艦艇による尖閣周辺海域の航行など軍事行動が予測される。
■世界各国が開発に力を入れる軍事用無人機
 さて、こうした背景の中で、米国の中央情報局(CIA)出身の専門家集団が運営する民間の安全保障調査機関が、中国軍のある動きを明らかにした。尖閣諸島の主権の主張のために、新鋭の無人機を飛ばす計画を進めているというのである。
 中国側は海軍の艦艇上から尖閣をめがけて無人機を飛ばし、日本側の領有権や施政権を弱めることが狙いだという。
 無人機と言えば、近年、世界各国が力を入れるようになった兵器の分野である。米国が先頭となって、各種無人機の開発や配備が急速に進んでいる。ちなみに国際テロ組織のアルカーイダの最高指導者オサマ・ビンラーデンを殺した米軍の作戦でも無人機の使用が偵察に威力を発揮したことが知られている。
 いまの世界では無人機は単に偵察だけでなく、標的を絞っての敵目標の破壊、そして特定の人間を殺すための攻撃にまで頻繁に使われるようになったのだ。
■領空侵犯が明白でも日本はいきなり撃墜できない
 CIAの元分析官や元工作員たちが運営する民間の国際安全保障の調査機関「リグネット」は10月中旬、「中国が無人機で紛争諸島の主権を強化する」という題の報告書を作成し、中国人民解放軍の海軍が最近、海洋での無人機使用を強め、特に尖閣諸島に向けて将来、頻繁に飛行させる計画だと指摘した。リグネットには長年、CIAで中国の軍事戦略やアジアでの大量破壊兵器の動向を調査対象としてきた専門家数人が加わっている。
 リグネットの報告によると、中国軍は2011年6月に海軍艦隊が尖閣近海を航行した際、艦隊の一部のフリゲート艦上からヘリコプター型の無人航空機を発進させ、尖閣付近の上空を飛行させた実例がある。中国軍は近年、無人機の調達や開発、使用に熱心となり、オーストリアのシーベル社製無人ヘリコプター「S100型」18機をすでに購入したほか、自国製の各種の無人機の開発に着手した。
 こうした中国軍全体としての無人機への取り組みの意欲は、2010年の珠海での航空ショーで中国官民による無人機モデルが25種類以上も展示された事実からも明白だとされている。2011年6月に尖閣付近に飛来した無人ヘリもS100型ではなく、中国製だった確率が高いという。
 さらにリグネット報告によると、中国海軍は東シナ海での尖閣諸島を中心とする将来の作戦活動でも無人機をフリゲート艦、あるいは新配備した空母の「遼寧」から発進させ、尖閣諸島の日本側が自国領空と見なす空域にも侵入させて、日本側の活動を偵察するだけでなく、尖閣地域での中国側の「領空権」や「主権」を強め、日本側の主権を希薄にすることをも戦略目標としている。
 同報告はこの中国軍無人機が攻撃用兵器を搭載しているかどうかは明記していないが、尖閣空域へのその飛行は日本の自衛隊機などとの接触や衝突なども予測され、日中両国間の対立をさらに緊迫させる公算をも指摘した。
 同時に同報告は「日本側は現在の憲法の制約下では自国の領空侵犯が明白でも外国の無人機をいきなり撃墜はできず、対応に苦慮する一方、中国側はその日本の制約を知っているがために、尖閣空域への無人機送り込みをあまり深刻な懸念なしに実行できるだろう」とも述べて、日本側の屈折した防衛事情にも触れていた。
 尖閣問題では中国側が同じ軍事面での威嚇や圧力でもこうした多様な手段を用意していることは、日本側でも十二分に注意しておく必要があるだろう。
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田母神俊雄著『田母神国軍 たったこれだけで日本は普通の国になる』(産経新聞出版)
〈抜粋〉
危機に自衛隊が出動できない
 では、このような事態に、日本政府と自衛隊に何ができるか見てみましょう。
 2010年9月に防衛省がまとめた平成22年度防衛白書の「武装工作員などへの対処の基本的な考え方」という項目の中では、武装した工作員が日本国内で不法行為に及んだときに、第一義的に対処するのは警察機関だという考え方を示しています。
 そして、警察機関が武装工作員への対応をとっているとき、自衛隊の任務は「状況の把握」であり、「自衛隊施設の警備強化」であり、「警察官の輸送」であるとしています。自衛隊員が警察を支援するわけです。
 これが、とても馬鹿げたことであるのは子供でもわかると思います。諸外国とはまったく反対の構図で、何もしないと言っているのと同じです。
 中国人が漁船で上陸してきた初期の段階なら、まだ、警察当局や海保庁で対応できるかもしれません。しかし、その人数が増え、中には兵士も混ざり、さらには最終的に「自国民を守る」という御旗の元に中国の軍艦がやってくるまでには、そう時間はかかりません。
 「日本の領土に上陸しても、とくに武力行使されるわけでもないし、悪くて警察に捕まる程度か」という認識を中国に持たせれば、彼らは軽い気持ちで軍艦を出します。
 問題は、中国人が漁船で上陸した初期の段階で、なぜ、自衛隊が出動できないのかということです。
p34~
 この段階で、日本政府が武力攻撃事態対処法に基づいて、防衛出動ができるかといえば、おそらくできません。つまり、自衛隊は動けない。日中関係を悪くしたくないと考える人たちから、「防衛出動を発令すると、中国を刺激してよろしくない」といういつものセリフが出て、そうこうしているうちにうやむやに終わってしまうのがオチです。
 おそらく、中国の正規軍が侵攻してくるという事態にでもならない限り、日本政府は武力攻撃事態として認定しないでしょう。
 では、諸外国ではこのような事態にどう対処しているのか。
 そもそも諸外国では、まず防衛出動が発令されることはありません。防衛出動というものは、ただ軍に対して命令を与えるだけのものですが、他国ではエリアの担当司令官に、その対応が任されています。
 例えば、あるエリアが他国から攻撃を受けた場合、当然、そのエリアの防衛を担当している司令官が対応することになります。有事の際には、司令官の判断で対応するというのが、普通の国のあり方です。事は突発的に起るものですから、もたもたしていたのでは時すでに遅し、ということになります。
 日本でも国内の事件の場合は、警察の判断によって警察が対応しますが、本来、防衛に関してもそれと同じで、警察のかわりに軍が柔軟に対応するべきです。
p35~
 防衛出動が発令されるという異常な体制をとっているのは、日本だけです。日本の場合は、これが発令されなければ、自衛隊は動けないということです。
p70~
軍事力による恫喝
 2010年9月、尖閣諸島で起った中国の「漁船」が海保の巡視船に衝突してくるという事件の結末は、日本が処分保留のまま中国人船長を釈放するという外交的完全敗北に終わりました。中国は船長釈放後も攻撃の手をゆるめず、日本政府に謝罪と賠償を要求するなど、やりたい放題の強硬姿勢を貫きました。
 ことほどさように、中国は経済発展によって蓄えたカネによる軍拡を続け、その軍事力をバックに諸外国を恫喝しています。
 日本と中国の軍事力の力関係はいったいどうなっているのかといえば、いまでは中国有利にどんどん移行しつつあるというのが実態です。この20年以上にわたって、中国が二桁以上の軍事力拡張を続けてきた結果、そして日本が軍縮を続けた結果、日本は経済力だけでなく、軍事力でも中国に圧倒されつつあります。
 では現在、中国はどのような軍事的野心を持っているのか。
 今後、いままで以上に尖閣諸島へ関与してくると思われるので、中国の考え方をよく知っておく必要があります。
 まずは、中国軍の兵力と配置について、その実態をみてみましょう。
 防衛白書によると、中国の総兵力は約230万人。国内を、首都を守る「北京軍区」にはじまり、「瀋陽軍区」「蘭州軍区」「成都軍区」「南京軍区」「広州軍区」の7つの軍区に分割しています。(以下略)
p74~
 中国の国防政策の見地からすると、地理的に太平洋側に蓋をしている形で位置する日本という国は実に邪魔な国です。中国の軍艦が太平洋上に出ていくためには、どうしても日本周辺を通過しなければなりません。
 津軽海峡や北方領土の付近からは、ロシアの存在もあるので、中国もなかなか軍艦を進めることはできない。中国は沖縄本島と宮古島の間から太平洋に出るしかないからです。
 中国が毎年、軍事費を増大させていることは、もはや周知の事実です。毎年10~20%近い伸び率で国防費を増やしており、2010年度の国防予算は約5191元、日本円で6兆292億円(1元=約12円で換算)にもなります。公表されている国防費の規模は、過去5年間で2倍以上、過去20年間でみると約18倍になっています。
 そのカネで、2009年から初の国産空母の建造を始めました。アメリカが最近、行った調査では、中国は2020年までに6万トン級の空母を6隻建造するという情報があります。さらに、原子力空母の建造も計画されているといいます。
 だからこそ、日本にとって沖縄が重要だと言えます。石垣島とか与那国島、または伊良部島の南にある下地島に、陸海空の統合的な運用ができる基地を置き、ミサイル部隊や戦闘機部隊を配備しなければ、いま以上に、中国軍が日本の領海内を自由きままに我がもの顔で行き交うことになります。
p166~
 わが国は戦後、アメリカに守ってもらうことを前提としてきましたので、自らやり返すという意思がありません。従ってやり返すための攻撃力も自衛隊は持っていないのです。専守防衛では抑止力にならないのです。
 今後、多くの新興国の勃興によりアメリカの相対的国力はどんどん低下していくと思います。アメリカの抑止力は次第に弱くなっていくのです。そのような情勢下で、我が国の防衛がこれまでどおりアメリカの抑止力に全面的に依存することは無理があると思います。日中間の尖閣諸島における小競り合いでも、アメリカは中国と争うことがアメリカの国益に合致しないと判断したときは、日本を守らないと思います。
 独立国家は、自分の国を自分で守ることが必要です。日本は世界のGDPの10%近くを占める経済大国なのです。(略)
 そのためには、いま自衛隊に欠けている攻撃力を整備する必要があります。それがやられたらやり返すという明確な意思表示であり、我が国に対する侵略を抑止するのです。
 具体的には諸外国が持っている空母、戦略爆撃機、地対地ミサイル、艦対地ミサイルを持つべきです。
p167~
 現在、日本の自衛隊は空母を持っていません。
 なぜ持っていないのかと言えば、空母が攻撃のための戦闘機を運ぶものだからです。隣国が空母を持つというのに、日本にはないのですから、我が国がどれほど自衛隊に攻撃力を持たせたくないかわかろうというものでしょう。
 四方を海で囲まれた日本にとって、いつでも攻撃に出る用意があるという姿勢をとるためには空母が重要不可欠です。
 中国は、通常型の国産空母の建造に乗り出しています。つまり、中国は着実に「恫喝」の準備を進めているのです。
 このまま指をくわえてみていれば、いずれ中国の空母が東シナ海に出ようとしたとき、日本は何の対抗措置もとれないということになります。
 中国との軍事力のバランスをとるためには、日本も空母を3隻は持たなければならないと私は思います。アメリカの第7艦隊に配備された原子力空母ジョージ・ワシントンと同じクラスの10万トン級相当を想定して、3隻です。もちろん、艦載機も必要です。
 ただし、アメリカ海軍のように遠海を巡回させる必要はありません。日本周辺に置いておけば、それだけで抑止力になります。
p168~
 例えば尖閣諸島や南沙・西沙諸島といった、中国が太平洋に進出するために通過しなければならないルートに置けばいいわけです。その地域に空母が存在し、海と空を支配することが、中国に対する抑止になる。(略)
p169~
 我が国が核武装を目指す場合、国内的な合意を取ることが相当に難しいし、また核武装国はこれを邪魔しようとするでしょう。(略)
 日本の核アレルギーは相当なもので、核をアメリカに落とされたことも忘れてしまっているほどですが、1番の問題は、国民も政治家も核兵器がどういう兵器なのか、わかっていないということです。核兵器は先制攻撃に利用するものだと思われていますが、国際社会では「核兵器は防御の兵器」というのが常識です。
 核兵器はその破壊力があまりにも強大であるために、核戦争に勝者はいません。核で先制攻撃したところで必ず報復されますから、これもまた負けに等しい。
 ですから核は、「やれるならやってみろ、だけどやったら報復するぞ」と思わせておいて、実際は誰も使いはしないし、使わせもしないという“防御的”な兵器なのです。
 また、核兵器は、これまでの通常兵器のように戦力の均衡というものを必要としません。通常兵器の場合は、相手国が100で自国が1というほどの戦力差をつけられていれば、たとえ1を持っていようとも何の抑止にもなりません。しかし、核の場合は、アメリカやロシアがそれを何千発保有していようが、インドや北朝鮮が数発持つだけで十分に抑止力になります。
 日本の場合は、核武装について議論をするだけでも、核抑止力は向上します。外交交渉力も向上するのです。それだけでも、国際社会の中で日本の発言力は高まります。しかし、「核武装はしません」と公言した途端に、世界中から相手にされなくなるのです。(略)
 アメリカもロシアも、自分たち以外の国に核武装をさせたくないのが本音です。NPTという枠組みで世界的に核軍縮を呼びかけていますが、あれはタテマエでしかありません。アメリカもロシアも「核を廃絶する方向に行くよ」と単なるジェスチャーをしているの過ぎないのです。
 「私たちも核廃絶に向けて努力するのだから、いまから核武装しようとは考えないでください」ということで、本音は、「皆さんが核武装を考えなければ、私たち核保有国の優位は永遠に続きます」と言っているわけです。
 そんな核保有国の意図もわからずに、日本の首相はそれにまともに乗っかってしまう。2009年9月、ニューヨークの国連本部で開かれた核軍縮・核不拡散に関する安全保障理事会の会合で、鳩山由紀夫首相(当時)は非核三原則を堅持すると改めて宣言しました。
 鳩山さん本人は心の底から、そうすれば世界から尊敬されると思っているのだから重症です。当然ながら、世界中の国が、「馬鹿な首相もいるな」と思ったはずです。誰も言わないけれど、世界中の失笑を買ったのは明らかです。
 あの場では、「日本は唯一の被爆国だからこそ、二度と核攻撃されないためにも核武装する権利がある」と言うべきでした。鳩山氏、ひいては日本の政治家は、「国際政治を動かしているのが核兵器だ」ということを全く理解していないのだから、呆れるばかりです。
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