日本の政治家の靖国参拝が「正しい」理由 中韓の猛批判の狙いを米国人歴史学者が指摘 古森 義久

2013-06-19 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

「国際激流と日本」 日本の政治家の靖国参拝が「正しい」理由 中韓の猛批判の狙いを米国人歴史学者が指摘
JBpress2013.06.19(水) 古森 義久
  安倍政権下では靖国参拝や従軍慰安婦などの「歴史的」な問題が、単に中国と韓国との間だけでなく、米国との間でも微妙な波紋を広げるようになった。
  特に日本の政治指導者たちによる靖国神社参拝は、2006年頃の小泉純一郎首相時代とは異なり、米国でも批判的な反応を生むようになった。米国のマスコミや学者たちの間で、日本の閣僚の靖国参拝を「戦争の美化」や「軍国主義の復活」という言葉と結びつける反応が増えてきたのだ。
  その種の批判はオバマ政権の内部にさえあるという。ちなみに前ブッシュ政権は日本の首相らの靖国参拝を否定的に捉えるという傾向をまったく見せなかった。
*「外国の政府からあれこれ指示されるべき慣行ではない」
  さて、そんな背景の中で、6月上旬に訪日した日本近代史研究の専門学者ケビン・ドーク氏が安倍晋三首相とも会い、改めて日本の政治指導者による靖国神社参拝を奨励した。
  靖国参拝は日本を守るために戦って、命を捨てた戦死者たちの霊への敬虔な追悼であり、首相など政治指導者はもっと頻繁に参拝をして、弔意を表すべきだというのである。米国の識者の間にもこうした靖国参拝奨励の意見があることを改めて銘記しておくべきだろう。
  ドーク氏は現在53歳、米国東部の由緒ある名門ジョージタウン大学の教授である。所属は東アジア言語文化学部で、この学部の学部長を務めたこともある。専門は日本近代史で、中でも日本のナショナリズムやキリスト教信仰の歴史を特に集中的に研究してきた。日本には高校生の頃に1年間留学し、以来、数年ごとに東大、東海大、立教大などで研究や指導を重ねてきた。彼は敬虔なカトリック信徒でもある。
  私はドーク教授には2005年頃にワシントンで知己を得たが、今回は私自身が日本への一時帰国中、たまたま来日した同教授に東京で会う機会を得た。そこで東京でのインタビューで、日本の政治指導者らの靖国神社参拝に対する彼の見解を改めて尋ねてみた。以下にその一問一答の内容を紹介する。

―― あなたは2006年頃に当時の小泉純一郎首相の靖国神社参拝が中国から激しく非難されたとき、日本の政治指導者の靖国参拝にはなんの不当な点はなく、もっと頻繁に参拝すべきだという意見を述べましたが、その考えはいまも変わっていませんか。
ドーク教授 「はい、いまもまったく変わっていません。一国の政治指導者が自国を守るために命を犠牲にした戦没者の霊に祈りを捧げることはごく自然です。外国の政府からあれこれ指示されるべき慣行ではありません」
──今回の来日は何が目的だったのでしょうか。
  「秋田の国際教養大学で日本のナショナリズムの歴史について集中講義をするために招かれたのです。その冒頭の6月6日に安倍晋三首相を官邸に表敬訪問し、懇談しました」
――靖国問題についても、あなたの従来の見解を安倍首相に改めて伝えたということでしょうか。
  「会談の内容は一応、外部には伝えないということになっています。しかし極めて友好的で意義のある訪問となったとだけは言えます」
*アーリントン国立墓地には「奴隷制度」支持者も埋葬されている
――あなたが日本の首相はじめ政治指導者は靖国神社に頻繁に参拝すべきだと考える理由を改めて説明してください。
  「死者を含めての他者の尊厳への精神的な敬意というのは、個人の権利や市民の自由の前提です。それらの権利や自由は民主主義社会の基礎でもあります。ことに自国を守るために命を犠牲にした戦没者への弔意の表明は、一般国民はもちろんのこと、その国の指導者層にとって特に重要です。日本国民にとって靖国に祀られた戦没者たちの霊の追悼は、祖国への誇り、祖国への敬意の表明でしょう。もし日本の首相が靖国参拝を止めてしまえば、日本社会は世俗化の一途をたどってしまうでしょう」
――日本の「世俗化」とはなんでしょうか。
  「政治や社会から道義的な要素が消え、無責任が野放しになること、つまりは国民が背骨を喪失した状態のことです」
――しかし靖国神社にはA級戦犯が祀られているため、その参拝は戦犯の行為への賛同や美化になるという非難があります。
  「靖国に祀られているのはA級戦犯の霊だけではありません。それに参拝をしたからといって、そこに祀られた人たちの生前の行動をすべて承認したり、賛美することを意味はしないでしょう。米国の戦没者慰霊施設であるアーリントン国立墓地には、南北戦争で奴隷制度を守るために闘った南軍の将兵たちが埋葬されています。この墓地には米国の歴代大統領が訪れ、弔意を表します。では、いまこの墓地を訪れる大統領が奴隷制度を支持するのか。アーリントンで慰霊するオバマ大統領は奴隷制度を肯定しているのか。決して、そんなことはないでしょう。靖国参拝に関しても同じことが言えるでしょう」
――参拝は霊に対する弔意であり、故人の生前の行動への賛美や賛同ではない、ということですね。
  「はい、戦争とは、一方にとっての犯罪者が他方にとっての英雄になり得るものです。それに生者は死者に対して謙虚でなくてはならない。死者がいかに間違った政治指導者だったにせよ、その霊の尊厳を認め、その鎮魂をすることは、死者たちの生前の行動への政治的な評価を下すことより、ずっと重要な課題なのです。靖国神社は、まさにそうした戦没者を慰霊する施設であり、『参拝イコール侵略戦争の美化』との批判は的外れなのです。そもそも私たちは先人の行動を絶対的な正義とか悪とかで判断する立場にはないと思います」
――カトリック教の立場からはどうですか。
  「第2次大戦前の1936年、ローマ教皇庁は日本のカトリック教徒たちに対し、靖国参拝は排他的な宗教行事ではないから、自由に参拝してよい、という通達を出しました。参拝は日本国民の自国の価値観や愛国心、忠誠心を表す慣行と見なすと判断したのです。教皇庁は戦後の1951年にも同様の通達を出しています。ですから靖国参拝は一定宗教による束縛にも当てはまりません」
*中国、韓国が靖国参拝に猛反対する特殊な事情
――中国が日本の政治家の靖国参拝に強硬に反対するのはなぜだと思いますか。
  「まず私は中国からのいかなる妨害や反対があっても、日本の首相は靖国参拝を続けるべきだと思います。中国がこれほど執拗かつ激烈に日本の靖国参拝に干渉することの第1の目的は『日本の弱体化』です。日本の国際的な立場を、特に道義的な立場を弱くしておくために、政治的なゲームを仕掛ける。それが靖国なのです。
  第2には、中国共産党は靖国が持つ精神的、宗教的な要素を受け入れることができないことです。中国共産党は無神論を標榜する独裁政党であり、その統治をもう60年以上も続けています。民主主義における個人の自由や権利を認めていません。中国はその民主主義の精神を認めないのです。中国はある意味で、究極の世俗化した国家です。本来、死者の鎮魂は生前の所為とは分離して行われるべきですが、中国にはその発想自体がありません。靖国参拝を短絡に、『戦犯の価値観を体現する慣行』としか見ないのです」
――では韓国の靖国参拝反対はどうでしょうか。
  「韓国の反対には別の理由があります。韓国にはキリスト教徒、特にカトリック信徒が多く、靖国参拝はキリスト教の教義に反するのではないか、と誤解している人たちが少なくない。前述のローマ法皇庁の通達など、知らない人が圧倒的に多いのでしょう。
  第2には、政治的な理由です。それは、朝鮮半島が2つに分断されていることから生じている。北朝鮮は周知のように共産主義国で、いわゆる『日本帝国主義』に抵抗運動を起こした人たちが創設した国です。一方、韓国は李承晩氏のようなキリスト教徒によって成立した反共産主義国です。この『反共』という一点を取ってみても、韓国にはそもそも日本に対する抵抗心や反発心は薄かった、と言わざるを得ない。それを負い目に感じている韓国人もいます。この歴史的起源から派生して現在、南北朝鮮の間で『日本叩きの競争』が展開されています。日本統治時代の歴史に反発し『反日』を叫ぶことで、どちらが朝鮮民族のアイデンティティに忠実かを競っているのです」
*国立追悼施設での代替は、より全体主義に陥りかねない
――千鳥ヶ淵のような国立追悼施設での代替はどうでしょうか。
  「それは中国や韓国の要求に応じて、追悼行為から宗教的要素を一切、排除することにつながりますね。追悼というのは霊や精神の課題です。本来、日本の精神や伝統とは無関係の場所を急に選んで、こここそ追悼の場だと宣言しても、心がついていかないでしょう。逆に独裁や個人崇拝をもたらす恐れさえあります。より全体主義に陥りかねない危険性をはらんでいます。追悼行為に宗教的な枠を設けることは、政治家の道義的責任を判断し、独裁や個人崇拝に一定の歯止めをかける役割を果たしているのです」
――では日本はこの靖国問題ではどう対応すべきだと思いますか。
  「民主主義国家である日本の国内で行われている健全な追悼行為に、よその国が口を出すことは、内政干渉にほかなりません。安倍首相は中国や韓国の主張に惑わされず、自分が信じることを貫き通すべきです。米国からの声に対しても同様です」
 
 ドーク教授のこうした見解は日本側でもじっくりと認識しておくことが欠かせないだろう。米国にも日本の「歴史問題」を巡っては多様な意見が存在するのである。

 *上記事の著作権は[JBpress]に帰属します
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ケビン・ドーク教授「靖国参拝は 心の問題」 ワシントン・古森義久 2013-06-08 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
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[戦死者追悼は人として当然 閣僚の靖国参拝] 韓国のキリスト教徒は聖書を読まないのだろうか 曽野綾子氏 2013-05-14 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
 戦死者追悼は人として当然 閣僚の靖国参拝
 産経新聞 2013/5/1 Wed. オピニオン 曽野綾子の[透明な歳月の光]
 総理や閣僚、国会議員などが、靖国参拝をすることの「人としての当然」を改めて書く。
 政治家の中には、無神論者もいるだおう。他宗教の聖地や祈りの場には、一切足を踏み入れないという宗教の信者もいるだろう。日本では当然靖国に参らない自由がある。
 しかしわが国には、すべての死者を悼み、過去に遡ってその人々から受け継いできた命の継承の上にこの私があると考え、死者を大事に思うという習慣があり、それは多く日本人に支持されている。
 諸外国にもそれと似た習慣がある。だからわが国の総理がアメリカを訪問してアーリントン墓地を訪れて戦死者に花輪を捧げ、それを友好を願う国際礼儀として承認するならば、自国の戦死者を祭る墓所に参るのも当然だろう。その場所が日本では靖国神社なのだ。村を守ってくれる神さまを鎮守さまとして村人が承認するのと同じ心理である。
 韓国も、日本の総理や政治家の靖国参拝を非難している。韓国には非常に多くのキリスト教徒がいると聞いているが、その人たちは、聖書を読まないのだろうか。
 聖書の「ルカによる福音書」の6・37には「人を裁くな」と明記されている。旧約の「申命記」1・17には、「人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである」という強い表現もある。
 靖国には、日本を戦争に導いたとされる軍の指導者や、残虐行為に加担したか少なくとも止めなかったといわれる数千人、数万人の軍人も祭られているだろう。しかしその実情は、戦乱のどさくさに紛れて正確には分らない。だから聖書は、他者に対する根本的な裁きは神に任せることだとして人間が裁くのを戒めているのである。
 靖国に祭られている絶対多数の戦死者は、祖国を守るためにやむなく死んでいった普通の青年たちである。恐らく政治家も多くの国民もその人たちを悼むために靖国に参るのだ。人間として日本では普通の行為である。むしろ靖国に参る人たちほど、残酷な戦争を忌避している。
 中国も今回の議員団の靖国参拝を批判した。中国は共産党一党独裁の国で多分魂を信じないのだろうから、戦死者を悼まないのだろう。それはそれで筋が通っているが、私はそういう冷たい国に生まれなくて幸せだったと思う。
 4月23日の毎日新聞社説は「閣僚参拝は無神経だ」という論説を述べた。まだこの新聞は国際政治の無難な行為だけを望んでいる。
 自国民だけでなく、他国民の幸せや平和を守るのは当然だ。しかし今まで国際社会において、自らの哲学と信念を勇気をもって静かに表すことがなかったからこそ、日本が軽視されてきたのを、まだこの新聞はわからないのだろうか。そういう点で諸外国は、実に冷酷なまでに、他国の政治家の人間性と実力を観察しているものなのである。
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自民・高市政調会長「国策に殉じて命を捧げた方々をお祀りするは当然」/民主・社民「靖国参拝は蛮行」 2013-05-13 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法〉
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石原慎太郎氏(衆院予算委)質疑 詳報 憲法改正/天皇/尖閣/横田基地/NLP/会計制度/債務/環境 2013-02-13 | 石原慎太郎
  (抜粋)
石原「この憲法をね、議員の諸君で精読した人はいるのか。あの前文の醜さは何だ。たとえば、『ここにこの憲法を確定する』とあるが、日本語で法律を決める場合は『制定』だ。『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ』とあるが、ちょっとおかしな日本語だね。助詞の常套(じょうとう)から言えば『恐怖と欠乏を免れ』なんだ。日本語の助詞、間投詞は非常に大事で、1つ間違うと全然、作品の印象も違ってくるが、これをまったく無視した。日本語の体を成していないな。英文和訳とすれば70点もいかないぐらいだ。
 こういう憲法が破棄も廃棄もされない。吉本隆明の言葉ではないが、『絶対平和』という一種の共同幻想で日本を駄目にした。首相はそれを考えて、憲法をできるだけ早期に大幅に変えて、日本人のものにしてほしい。そのためには、いかなる協力もする。うかがうが、第1条に『天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である』と書いてあるが、象徴の具体的な意味はどう解釈するか」
 首相「象徴というのはいわば、日本国において権力を持つ存在ではなくて、日本の長き歴史と伝統、文化と日本国民を象徴する存在だと理解している」
 【靖国神社参拝】
 石原氏「大まかには正しい。具体的に言うと、天皇はプリースト・キングだ。神道の大司祭だ。神道は普通の宗教と違う。人間の崇高な感性というか情念というか、そういったものの結晶だ。熱心なカトリック教徒の曽野綾子さんが伊勢神宮に行って、『これが日本だと自覚した』とエッセーに書いた。神道の大司祭者である天皇は、日本の感性がもたらした文化の象徴だ。決して政治の象徴ではない。それに付随したことだが、首相は今年、靖国神社に参拝するか」
 首相「靖国参拝について、私はいたずらに外交的、政治的問題にしようとは思っていない。だから、私が靖国に参拝するしないということについては申し上げないことにしている。一方、国のリーダーがその国のために命をかけた英霊に対し、尊崇の念を表するのは当然だろうとも思っている」
 石原氏「なかなか分からないような分かるような…。私は行かなくて良いと思う。あなたが行くと結局、政治問題になる。
 ならば、その代わりに、国民を代表してお願いしたい。ぜひ、国民を代表した首相として、今年は天皇陛下に靖国神社に参拝していただきたい。これは決して政治的行為ではない。宗教的な問題でもない。神道という人間の情念の結晶の代表者であり象徴である天皇陛下が、戦争で亡くなった人を悼んでお参りするのは当然のことだ。異義は唱える国はない」
 「あの戦争の評価について言えば、日本人はいまだに一方的にニュルンベルクと同じように戦勝国に敗訴させられ、東京裁判史観にとらわれている。しかし、その後、マッカーサーは米国の議会で、『今から考えてみたら、あの戦争は日本にとって自衛の戦争だった』と証言しているじゃないか。インドネシアのスカルノ大統領も同じことを言った。靖国参拝が政治的に解釈され、あの戦争の価値観に引っかかるなら、とにかく(首相の参拝を)やめたらよい。その代わり、神道の祭主である天皇陛下に、『国民を代表して靖国に参拝していただきたい』と陛下に奏上してお願いしたらどうか。いかがか」
 首相「陛下のご親拝について私がうんぬんする立場ではない。しかし、今、石原議員がおっしゃったように、本来、国のために命をささげた人たちに対する敬意の表し方は本来、政治的なものではないわけだ。(米国)ジョージタウン大学のケビン・ドーク学部長が論文に書いていたが、『アメリカにおいて南軍も北軍の兵士も埋葬されていて、そこに大統領が参拝したからといって、南軍の奴隷制度を維持するという考え方に賛成するものではない。ただ国のために命をかけた人々に対する敬意の表明でしかない』と書いていたが、私もその通りだと思う」
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『最終目標は天皇の処刑』 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌 ペマ・ギャルポ著 飛鳥新社 2012年1月27日 初版第1刷発行
 (抜粋)
p207~
 もう1点は、中国の13億人の人口のうち、12億人近くがいわゆる漢人ですから、その人々を養っていくためには食糧を始め相当の資源が必要です。その意味ではチベットは地下資源が豊富であり、また、アジアの大河の源流が全てチベットにあることからもわかるように、水資源も豊富です。それら資源の獲得ということが目的にあったと思います。
 そして今、尖閣諸島周辺や日本各地の森林で起きていることは、その資源収奪の領域が拡大しつつあるということなのです。
“中華”という名の厄災
 一般にその国の国力を測る場合、軍事力と経済力、この2つが大きな比重を占めることになります。戦争の勝敗にしても、その2つに負うところが大きいのも事実です。しかしながら、古代ギリシャから今日までの世界の歴史を見てみると、武力によって滅んだ国は、ほとんどが再び独立しています。
p208~
 また、おそらく経済力の差だけの理由で勝敗が決まった戦争もありません。ところが、文化的侵略によって同化されてしまうと、もう二度と独立できません。つまり、その国民の価値観や連帯感を失ったときに、ほかの国に征服されることになるのだと思います。ですから今日の日本で、特に経済界の人たちが、全ての事柄を経済的観点のみで見ようとする傾向を、もう少し考え直さなければならないと思います。
 チベットの場合は、すべての価値観は宗教中心で、現世より来世に向けたものでした。現世は苦しくても来世に希望を持ったり、成仏(解脱)するということが1つの理想としてありました。逆に今の日本の場合、あまりにも現世、しかも極めて目先のことだけを考えているように思えます。
 中国という国も非常に現実主義なのですが、日本との大きな相違は、少なくとも中国の場合は100年単位の国家計画を立てていることだと思います。このことは、小平が「4つの近代化」を提唱してから30年経ちましたが、それを着実に進めていることからも明らかです。
 さらに、この4つの近代化が究極的に何を意味するかということも、きちんと考えるべきでしょう。国家にとってビジョンというものが常に重要になりますが、中国の場合はそれがはっきりしています。
p209~
 つまり、ごく当然のこととして世界制覇という揺るぎない大望を抱いているのだと思います。中華思想という言葉がありますが、“中華”という言葉自体は孫文が考えた概念であり、実は誕生してから100年ほどしか経っていません。ただし、その根底にあるものは孔子、孟子、老子などの思想に西洋の植民地主義の考え方を導入したものです。孫文はアメリカ合衆国のような国民国家の連邦制を目指しましたが、それは中国人中心の国、中国人上位の民族主義でもあったのです。そうしたバックボーンを持つ彼らは「弱肉強食」という文化の中で生き続けているのです。
 中国以外のアジア諸国で成立した原始宗教、例えばチベットのボン教にしろ、インドのヒンズー教にしろ、日本の神道にしろ、精霊や万物に命が宿るという自然観があります。しかし、中国の場合は世界は善か悪か、生か死かの二元論なのです。中国で兵法が発達したのも、戦術を駆使していかに自分が生き延びていくかが大事だったからでしょう。そして、最終的には征服するか従属するかであり、共存共栄という概念はないのです。
 自然崇拝をする民族は、第1に自然との共生を尊び、他の人間とも共存共栄を図ることを目指します。そのために個人は、その共同体と一体化するという精神性を伝統的に持っています。征服する、あるいは従属するということではなく、どうにかしてお互いに生き、生かされる道を探そうという文化があるのです。
p210~
 このような精神性はアジアにおいて、現在ではイスラム圏に含まれるアフガニスタンまで通底していると思います。バーミアン文明に見られるように根底には仏教的な共存共栄の思想が残っているはずです。
 確かに中国にも仏教は伝わり、“信仰”として広まりましたが、残念ながら、“文化”として深く根付くには至らなかったのだと思います。生きるか死ぬかの世界では、価値観の根底にはならなかった。そしてその信仰の対象は、常に現世利益が中心であり、“来世と現世”あるいは“自分と自然”という観念を持つ宗教観は非常に薄いと思います。中国が約束を守らないということもそういう宗教観や倫理観の希薄さから生じていると思います。彼らにとって約束とは永遠に守るものではない。その時の利益を守るための方便、戦術でしかないのです。たとえ酔っぱらっていようと、自分の口から発した言葉には責任を持ってしまうという一般的日本人とは、そこが決定的に違うのです。
 工作要綱にもあったような、日中が共通の文化を持つ民族だというプロパガンダに騙されることなく、あくまで中国人は異質の人間として捉え、その人々とどう向き合っていくかを考えることが大事です。
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