尾形英紀氏の「将来のない死刑囚は反省など無意味」に疑義〈来栖の独白2012/2/8〉

2012-02-08 | 死刑/重刑/生命犯

〈来栖の独白2012/02/08 Wed.〉
 尾形英紀氏の「将来のない死刑囚は反省など無意味」について、今少し考えてみたい。私の意識の深いところにある。
 裁判の不条理は、尾形氏が綴っている通りである。この種の部分冤罪も枚挙に暇がない。かくのごとき不条理を行う裁判所が生殺与奪の権利を握っている。人の命をどうとでも左右できる。この理不尽に氏が心萎えさせられたのは痛いほどわかる。私の弟(勝田清孝)もそうだった。上告趣意書に次のように訴えている。

 刑訴法第三一七条にも「事実の認定は証拠による」と明確に謳われています。にもかかわらずあたかも権力者が力尽くで屈服させるかの如く不可解な判断を下されたのでした。裁判官個人の感情によって左右する判断ではなくすべて証拠によるものとされながらも、現実は裁判官の裁量の自由権に多々委ねられていますし、公正な事実審理が行われていない、つまり犯罪者の人間性回復を阻害する要因は裁判所にあると実感するに至り、相当な痛撃を受けたのでした。
 疑わしきは被告人の利益に従うという刑訴法の大原則もあるようですが、上告した私は、自分の罪業を棚に上げて憐察と刑の減軽を求めたり、自分を有利に導きたくて申し上げているのでは決してありません。八名の尊い人命を奪うといった許されざる罪を犯した私は、一切の悪事の告白と同様に事実は事実として削除できなかったために、公正・公平さを欠いた不可解な控訴審判決の好転に望みを託し、何としても節義を貫きたいと念じているだけなのです。
 私は口べたですので法廷で質問に答えるのはとても苦手でした。かといって言葉で表わし得ない自分の感情をうまく文字に表現できるかといえば、それも出来ずに困っている無知な私です。
 しかし、法治国家が公正な法律に則さず感情のみで罪人に死刑を科するのであれば、それこそ殺人という私のよこしまな犯罪行為と何ら変りがない、という事実は容易に判別できるのであります。

 弟が争った事実関係は、神山さん事件における殺意の有無であった。これを裁判所はどうしても認めてくれなかった。8人殺害という大罪の中から上訴するのは、詫びと引け目のなかで小さくなって生きる弟には身の縮むことであったが、自分への有利不利を超えて被害者とのあいだの真実を明らかにしたい、と訴えた。
 それゆえ、刑確定してからは、社会にわずかに貢献できる点訳に没頭した。犯した罪は大きいが、罪(真実)を洗いざらい告白することで真人間に生まれ変わり、人間らしい心で生きてゆきたいと願った。
 弟の認識する「人間らしい」とは、どういう状態だろう。罪を犯し、囚われて死刑を目前にして生きる者の「人間らしい」生き方とはどういう状態だろう。弟が限られた時間を「点訳」に心血を注いだ姿を思い出す。面会でも書信でも、点訳について、時間や紙幅を割いた。「貢献」という言葉を多く口にした。
 受刑(死刑)による詫びという覚悟はあったようだが、生きている間、わずかに許された点訳で社会に貢献したかったのだと思う。「憂愁に閉ざされたままでおられる遺族の方々の心情に思いを馳せると本当に申し訳なく、非道に人を苛む行為を繰り返した私には、日々三度の食事を与えて頂くことすら勿体ない」(手記)との思い、そして貢献したいとの二つの狭間で生きた。
 人には生まれながらにして「良心」というものが備わっているのではないだろうか。悪いことや卑劣なこと、人を痛めたりすれば、胸が痛んだり後悔したりし、謝りたいと思う。思い詰めて自裁したりもする。そんな気持ちが自然と湧いて来るのではないだろうか。この心は、将来(自利)を思ってのことではないだろう。
 尾形氏は「将来のない死刑囚は反省など無意味です」と云い、「死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました」と云われる。死刑制度是非を闘わせるテクニックとしては、説得力があるだろう。死刑制度の盲点、死角を突いたかに見える。が、空しい。人間性の何であるかをわきまえておらず、表層の論争の次元で止まっている。死刑廃止論が「人間性」を置き去りにし、テクニックに走る限り、国民の共感は得られないだろう。死刑制度廃止は実現しない。
 目の前にいるのは死刑囚である以前に「人間」であり、人は人のために自分の命を投げ出すことさえできる生きものだ。「士は己を知る者の為に死す」という中国、春秋戦国時代の言葉もある。また「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(『論語』)とも、云う。
 五木寛之著『親鸞』を参考に考えてみたい。
 貴族の生まれとはいえ、不遇に育った親鸞は叡山で修行の少年期を送るが、やがて吉水へ法然の説法を聴きに通うようになる。自己の罪深さ、断ち切れぬ煩悩に悩む親鸞が必死に道を求める行動だった。その頃の事を、法難が迫ったある日、『選択本願念仏集』を親鸞に託して、法然は言う。

 「わたしは、そなたを信じている。だれがなんといおうと、そなたを信じる。もし、彼らのいうとおりそなたが比叡山の目付け役だったとしても、わたしは後悔などしない。
 かつて百日間、一日も休まずにわたしの話をききつづけたそなたの目の色を、わたしははっきりとおぼえているのだよ。あれは、闇のなかから生き返ってくる人間のすがただった。わたしはそなたをみつめながら、そなた一人にむけて話しをしているような気持ちでいた。だからわたしはそなたにこの書をあずけるのだ。わたしにもしものことがあったときは、世間に広くこの選択集をひろめるがよい。よいか、たのむぞ」
 綽空(親鸞)は全身に法然上人の声がしみわたるのを感じ、床に頭をおしつけた。涙があとからあとから、とめどなくながれた。

 私は上記法然の「 闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた 」との言葉に泣いた。私も、この「闇」と「すがた」、「目の色」を見たことがあるからだ。「人間」を見た。
 死刑囚だった弟との日々、多くの死刑廃止運動者が私の周囲にもいた。死刑廃止論理を巧妙に操る人もいた。しかし、「死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました」と云われたとして、それが私の心に響いたとは思えない。私の心に響くのは、「人間らしさ」だ。テクニックなどではなく、真実の人間の心だ。
 伝聞によれば、尾形死刑囚は動揺が激しくて相当暴れたらしく最期は担ぎ上げられて刑場に運ばれていった、とか。真偽のほどは判らない。もしそうであるなら人間の最期としては、むごい、相応しくない。刑務官も心中泣きながら職務を遂行したのではないか。このような刑務官の苦役を想う時、死刑制度の苛酷が胸に迫ってやりきれない。


テレビ朝日「刑事一代~平塚八兵衛」 死刑囚が漂わせる極限の侘しさ  
 〈来栖の独白2009/06/22〉
 昨夜、テレビ朝日『「刑事一代~平塚八兵衛」』というドラマを見た。平塚八兵衛という刑事さんは、帝銀事件や吉展ちゃん誘拐事件を扱ったそうだ。「吉展ちゃん」という名前は、私の記憶にある。
 胸に刺さったのは、誘拐犯小原保の老いた母親が、雨の中、捜査に当たる平塚さんたち刑事に土下座して「足の悪い保を注意して育ててきた。もし、もしも保が人の道に外れたことをしたのなら、どうか天罰を下してやってください」と懇願するシーンである。
 この母の姿を、声紋鑑定のためという最後の調べの機会に平塚さんは土下座して保に伝える。直前の自らのアリバイを覆す供述と共に小原容疑者は、激しく動揺する。平塚さんは更に言う。「親のためには、嘘吐きではなく、真人間になることだ」と。小原容疑者が落ちたのは、その瞬間だった。
 ここから小原保役の俳優の演技が一変する。侘しさが漂う。この侘しさは、死刑確定した清孝が漂わせたものだ。---清孝は全事件を自ら告白していったから、容疑者の時点ですでにこの「侘しさ」を感じたそうだが、容疑者時代を私は知らない--- 小原保役の俳優は、よく演じていると思った。死刑囚という、極限の侘しさ。
 やがて歳月を経て平塚さんのもとへ宮城刑務所から電話が入る。「小原保が今朝、刑を受けました。『平塚刑事さんに、小原は真人間になって死んでゆきました。戴いたナスの漬物、美味しかったです、と伝えてください』ということでした」。「真人間」とは、清孝も使った言葉である。
 ところで、小原保の母親は土下座して「天罰を下してください」と言う。が、これは、先般公判のあった「土浦8人殺傷事件」の父親とはニュアンスが違うように、私には思えてならない。金川被告の父親は、息子を「金川被告人」と呼ぶ。小原保の母親とは違うことを、如実に物語っていないか。天地の開きがある、と私は思う。
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本田靖春著『誘拐』=吉展ちゃん誘拐殺人事件 故小原保死刑囚 (ちくま文庫) 


勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(6) 結之章〈後篇〉

贖罪
 しかし懺悔したからといって決して心が安らいだわけではないのです。多少胸のつかえは取れたものの、目の裏に焼き付いた当時の光景がありありと浮かび、むしろ懺悔してからの方が自責の念にさいなまれ続けているのです。
 人間として生まれ変わるには一切の悪業をさらけだし、1日も早く被害者に詫びる以外に道はなかったのですが、告白した直後の私は、正直言って「これで俺の一生は終わったのだ・・・」という暗澹とした心境でした。いわば覚悟していたとはいえ、罪科による死期が一層身に切迫した感に、何とも言えぬ寂しい気分だったのです。
 でも、同じ裁きを甘受するのなら、真人間に立ち返ってから裁かれようと、大阪での猫かぶりを省みて、自らの意志で宿悪の苦悶から脱却を図ったことも事実だったのです。だから、暗澹とした気分ではあったが、告白した事実に対する後悔はまったくなかったのです。むしろ、我ながら「よく打ち明けたぞ」と、勇気を出した素直な自分に心から喝采を送れる心境でいられたのです。

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清孝が死刑執行されたとき、私はこの曲を弾いていた。 2005-11-22 
  カトリック教会は11月27日から待降節(主イエスの降誕を待ち望む節季)に入る。昨日、27日からのミサのための選曲を見直していて、聖歌105番『来ませ 救い主』が脱落していることに気づいた。昨年まで感慨深い思いで、待降節に私は、この曲を選んでいたのに。

来ませ救い主 憐れみたまいて 罪とがに沈む われを助けませ よろこべ諸人 主は来たりたもう

 5年前、死刑囚藤原清孝が死に向かっていたとき、私は教会のオルガンでこの曲を弾いていた。死刑執行などとは思いもよらなかったが、何故ともなく朝から心騒いで、教会へ車を走らせ、繰り返し「来ませ 救い主」を弾いた。彼の顔に頭巾が被せられ、首にロープが掛けられて、旅立った瞬間も弾いていた。
 罪とがに沈むわれを助けるために主よ来たりませ・・・小曲だが、悲劇的な旋律である。
 永訣から5年。その間、実に様々なことがあり、清孝のことが遠くになったのだろうか。105番が、待降節の選曲から漏れていた。慌てて、書き込んだ。
 それにしてもあの時、もし家にいたなら、死刑廃止運動体の弁護士に唆されて自分でも意図しない動きをとっていたかもしれない。教会から帰宅した私にY弁護士(電話)は言った。「勝田さんが死刑に反対して激しく抵抗しました。そのため遺体の損傷が激しい。拘置所が家族に遺体を見せずに火葬にしてしまうことが考えられます。遺体を引き取りに行ってください」。しかし、真相はまるで違っていた。「激しく抵抗」などはせず(名古屋拘置所所長の状況説明)、被害者への詫びと周囲への感謝のうちに(教誨師・遺書の言葉)最後の時を受け容れ、遺体は損傷どころか、安らかで「眠っているような」(斎場の職員の感想)顔で私を待ってくれていた。夕方6時半をまわってなお、温かであった。
 113号事件勝田清孝は、2000年11月30日午前11時38分に旅立った。私たちは最後の時、護られていたと思う。主は罪とがに沈むわたしどものところへ来てくださり、迎えてくださった。そういう気がする。
 こんな思いに耽るとき、きまって意識にのぼるのが、ドストエフスキーの以下のコンテクストである。

 彼が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ち上がったときは生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのときだれかぼくの魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉にたいして固い信念を抱きながら・・・。三日の後、彼は僧院を出た。『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。 【カラマーゾフの兄弟 米川正夫訳】より

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* オウム死刑囚 刑執行 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 命よりも大切なものがある 〈来栖の独白〉