先日、コンサートを聴く前に本屋さんへ立ち寄った。『差別と日本人』が店頭に平積みされていた。本日の新聞では、「歴史的、名著! ベストセラー28万部突破!!」とコマーシャルされている。
そうかぁと思い、読み返してみようと思った。ざっと一通り読んだだけであった。
小泉純一郎氏の令息小泉進次郎氏の神奈川県第11区からの衆院選出馬について、世襲の問題が取り沙汰されている。
純一郎氏に関し、「改革」を標榜しながらも「可愛いわが子だけは痛ませたくない」古い体質の人間だったのだな、私の理解はその程度であった。フツーのところにいる私のような者には、せいぜいその程度である。
しかし、上記『差別と日本人』は、世襲制がどのようなことなのか、その本質を短い文脈の中から端的に教えてくれる。以下である。
竹下元総理の孫であるDAIGOがテレビをにぎわしている。野中さんは、「DAIGOは、最初は祖父の名前を使わずに一生懸命自分で努力をして仕事をしていったからえらい頑張り屋だ」と語った。しかし今では、「竹下元首相の孫」がDAIGOの形容詞のようになった。
小泉孝太郎も、石原良純も、親のおかげで十分な光を浴びて、実力以上に芸能界を闊歩している。
ふと、野中さんのお孫さんが、祖父の名前を使って、例えば芸能界で活躍することは可能だろうか、と思った。
在日やセクシャル・マイノリティの場合は、その差別とは別に、テレビなどでその存在を曝すことができるようになってきた。しかし、テレビの中で「被差別出身」と名乗って仕事ができる人はほとんどいないのではないか。そこに差別の根深さがあるのだと思う。
私のようなフツーの者は、フツーではない人たちから、このように教えられなければ分からないのである。「世襲」の恩恵に浴すどころではない人たちがいる。そういう彼らをこの足のヒールで踏みつけていても、気付きすらしないのである。ましてや、痛みに気付くには程遠い。
差別だけではない。ハンセン病の人たちだって野宿の人たちだって、障碍をもたれた人たちだって、私は彼らに聴くことなしには、ヒールで踏んでいても気付かない。
随分前になるが、教会で「あなたのやっているボランティアを挙げてください」というアンケートがあった。そのなかに「拘置所慰問」、「炊き出し」という項目もあって、私は呆気にとられた。私は勝田死刑囚と交際していたから、それは慰問ということになるのかな、とおかしな気がした。炊き出しにも参加していたので、これもボランティアかな、と。
教会は、イエスの生涯を貧しい恵まれない人たちへの施し、とでも受け止めているのだろうか。とんでもない勘違いである。
私は、清孝や野宿のおっちゃんたち、或いは目の見えない人たちから、真実たいせつなことを気付かされ教わった。曲がりなりにも「人間として」生きるようにしてくれたのは、彼らであった。
『勝田清孝と来栖宥子の世界』を検索してみると、【連続殺人犯として死刑に処された勝田清孝の支援者によるエッセイや本人の手記】とある。が、勝田は私の支援など必要とするような人ではなかった。
誰かと共に生きることをボランティア・支援と捉え、見くだしているものだから、例えば、死刑被告人との交通にしても、手紙を郵便局留めにして済ますのである。外出も出来ないのだからと、「虚偽」を告げたりするのである。対等と見ていない。
私(たち)は彼らに聞かなければ、自分のしていることの間違いが分からない。心ない業に気付かない。社会の歪に気付かない。彼らは、私よりも何倍も真実を見抜く力を持っており、喜びや嘆きに対して強く鋭い感性を有していている。支援に与るどころの人ではない。
世間から最も低く見られている彼らを高く上げ、彼らにこそ「天からの力が与えられる」(「幸いである」の真の意味)と説いたのがイエスであり、法然であった。
毎朝、新聞で『親鸞』を楽しみに読む。そして、最下層の人たちの力を認識するのである。彼らはボランティアを必要とする弱い人たちではない。
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◇ 五木寛之氏の『親鸞』、イエスそしてパウロ・・・「私たちが救われたのは、行いによるのではなく」
「これまで世間に信じられている善行とは、たとえば、大きな塔を建てることや、立派な仏像を造らせることや、そして金銀錦などで美しく装飾された経典などを寄進することや、豪華な法会を催すことなどが善行とされてきたのだよ。身分の高い人びと、ありあまる財産をもつ人びとや富める者たちは、きそってそんな善行にはげんできた。しかし、そんな余裕のあるのは、選ばれた小数の人たちだ。いまさらわたしがいうまでもない。天災や、凶作や、疫病がくるたびに、どれほど多くの人びとが道や河原にうちすてられ死んでいくことか。かつて養和の大飢饉のときには、赤子を食うた母親さえいたときいている。世にいう善行をつとめられる者など、ほんのひとにぎりしかいない。その日をすごすことで精一杯の人びとがほとんどなのだ。そんな人たちを見捨てて、なんの仏の道だろう。法然上人は、仏の願いはそんな多くの人びとに向けられるのだ、と説かれた。たぶん、世間でいう善行などいらぬ、一向に信じて念仏するだけでよい、とおっしゃっているのだ」
選択(せんちゃく)本願念仏集の書写にとりかかる前に、綽空は繰り返し、声に出してその文章を読んだ。
読みすすむうちに、綽空は総毛だつような戦慄をおぼえた。
〈あのおだやかな法然上人が---〉
そこにしるされているのは、春の風のような師の温顔から発せられる柔和な声とは、まったく別な、厳しくも鋭利な言葉である。
権門や貴族たちからも慕われている聖僧法然上人の、おだやかな優しさはどこにも見られないのがおどろきだった。
物事をきっぱりと二つに峻別する。
その二つの、どちらが正しく、どちらが優れているかを言下に断定する。そして、迷うことなく一方を選びとる。
これまでの尊いとされてきた聖行(しょうぎょう)が、片端から切り捨てられていく。
既存の諸宗のすべてが否定され、最後に仏の本願によって選びとられた念仏ただ一つがのこる。
その分別の激しさ、厳しさには、息をのむような仮借のなさがあった。
読みすすむ綽空の膝の上の手が、ぶるぶると震えてくる。目のなかに、強い言葉が突き刺さる。つきるところは、声にだして念仏すること、ただそれだけを説きつづけているのだ。われらは末世の凡夫である。罪悪の軽重をとわず、煩悩の大小によらず、ただ仏の本願による念仏によってのみ救われるのだ、と、一分の迷いもなく語られていた。
往生之業(おうじょうしごう)、念仏為本(ねんぶついほん) 。
念仏門以外の多くの宗派にとって、その大胆な切り捨てられかたには、耐えがたいものがあるにちがいない。だからこそ、この書は秘められなければならなかったのだ。
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◇ 『差別と日本人』野中広務・辛淑玉著 だからこそ、差別は「家族を撃つ」と言われている
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