平成の事件ジャーナリズム史(8)松本サリン事件 (9)地下鉄サリン事件と坂本弁護士一家殺人事件から 「毎日新聞」

2019-03-18 | オウム真理教事件

平成の事件ジャーナリズム史 (8)松本サリン事件 警察失態チェックできず、メディアに大きな責任
2019年3月10日
 東京・竹橋の毎日新聞東京本社4階の仮眠室にいた私が体を激しく揺すられたのは、1994(平成6)年6月28日の午前4時ごろのことでした。その日は月に3回程度ある宿直勤務で、ほんの15分ほど前にベッドに入り、まさに眠りについた直後でした。後輩記者は「長野の松本でガス漏れがあって4人ぐらい亡くなっているようです」と言います。「その規模の事故で東京から行く必要はあるの?」と聞くと「よくわからないのですが、何か変な事件のようなので社会部から応援に来てほしいと要請されています」とのことでした。重い体を起こして着替えをすませ、後輩記者と2人で会社のハイヤーに乗り込み、現地に向かいました。それから1週間近くも現場にいることになるとは、思ってもみませんでした。
 午前6時半すぎに現場に到着し、支局員たちと夕刊の紙面をつくりました。1面トップの見出しは「有毒ガス 住民7人死ぬ 有機リン? 農薬中毒に似る」、社会面トップの見出しは「深夜の街に死の刺激臭」でした。午後になって東京本社から他紙の夕刊がファクスされてきました。ある大手紙の記事を見て、私は「抜かれた」と衝撃を受けます。その記事は「佐久の奇病か」と大きな見出しで病気説をとっていました。同じ県内の佐久地方ではかつて視野狭窄(きょうさく)など目の障害を訴える子どもたちが多く、「佐久の奇病」と呼ばれたこともあったとのことです。農薬散布が原因とみられ、今回の中毒死もその延長にあるのではないかと指摘する記事でした。原因がまったくわからない怪事件にメディアはそこまで混乱していたのです。
 しかし、警察はさらに混乱していました。最初に事件を通報した、現場近くに住む河野義行さんを容疑のある重要参考人とみなしました。根拠のひとつは河野さんが以前に薬品を扱う仕事をしており、当時もその薬品が家に置いてあったことでした。そして、河野さんが事件直後に自分が犯人であると示唆する言動をとったという全くの誤情報をなぜか信じてしまったのでした。「第一発見者が犯人」というストーリーに安易にとらわれたとしか言えない事態でした。
 事件発生翌日の6月29日午後10時過ぎ、長野県警は「被疑者不詳」の令状で、河野さん宅を家宅捜索しました。その時、現場付近ではまだ多くの記者が聞き込み取材をしており、テレビ朝日のニュースステーションは記者のリポートを生中継していました。そこに捜査員が捜索に入ったわけですから、現場は大騒ぎになりました。「逮捕? 逮捕か」という記者たちの声が電波に乗って全国に流れ、まったく事件に関係のなかった河野さんが一瞬にして容疑者のように扱われることになったのです。警察は連日のように河野さんから事情聴取し、メディアは警察が河野さんの容疑に確信を持っていると判断します。
 事件発生から5日後、現場の残留物から化学兵器として使われる神経ガス「サリン」が検出されたことが明らかになります。特別な知識を持たない会社員の河野さんが果たしてサリンをつくれるのでしょうか。今となっては驚くべきことですが、生物化学兵器に詳しいとされていた専門家がメディアの取材に対して「うまくいけば素人でもつくれる。日常の物質でも製造可能だ」とコメントしたのです。「たやすくつくれるものではない」と語る専門家もいましたが、メディアも警察も誤った方向に誘導されていきます。事件発生から4カ月ほどたった頃には、警察が河野さんを逮捕する方針を固めたとの情報も流れ始めました。
 サリンが簡単につくれるものではないことは、オウム真理教が有名大学の学生や研究者を集め、サティアンと名付けた大がかりな化学工場で研究に取り組んだことからも明らかです。しかし、当時は、オウム真理教の犯行とは誰も想像すらできず、捜査も報道も暗中模索で、河野さんを容疑者とみて追い続けることになるのです。
 サリンとオウム真理教の関係が初めて社会に向けて明らかにされるのは、95年1月1日、読売新聞が元日の朝刊1面トップで放ったスクープ「山梨県上九一色村にサリン残留物」でした。オウム真理教はサリン70トンを製造して空からまき、ハルマゲドンを自作自演する計画を持っていましたが、この報道に動揺してサリンの大半を廃棄したことが後の捜査で明らかになります。読売新聞の見事なスクープでした。毎日新聞も事前にこれに近い情報を得ていながら書き切れなかっただけに、当時は激しく落ち込みました。
 しかし、サリンとオウム真理教の関係が明らかになっても、警察は河野さんを容疑者とする見方を変えませんでした。人も組織も、いったん思い込んでしまうとここまで引き返せないものかと今考えても恐ろしくなります。95年5月、教祖の松本智津夫元死刑囚が逮捕され、事件の全容がわかった後になって初めて、警察は自らの失態を認めました。そして、警察は何か確証を持っているはずだと考え、警察の失態をチェックできなかったメディアにも大きな責任があります。私にとっても事件記者人生最大の失敗でした。報道に関わった一人として、河野さんには改めて謝罪します。
 松本サリン事件から1年半がたった96年1月、東京で行われた報道と人権を考えるシンポジウムで、私は河野さんとともにパネリストとして登壇しました。他のパネリストや会場から、警察を妄信した私たちメディアに対し激しい言葉が投げつけられました。私はただ黙ってうつむくしかありませんでした。その時、私を助けてくれたのは、なんと河野さんその人でした。河野さんの言葉は今も耳にしっかりと残っています。
 「確かに私はマスコミに犯人にされそうになりました。けれどマスコミがいたから警察は私を逮捕できなかった。私はマスコミによって傷つけられましたが、マスコミによって守られたのです」
 壇上にいた私の胸に熱いものが広がりました。私には謝罪と感謝の言葉しかありませんでした。
 次回は、組織犯罪という視点から、被疑者の人権と捜査、人権と報道について考えます。オウム真理教による「地下鉄サリン事件」と「坂本堤弁護士一家殺人事件」を取り上げます。

 ◎上記事は[毎日新聞]からの転載・引用です
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 平成の事件ジャーナリズム史(9)地下鉄サリン事件と坂本弁護士一家殺人事件から 松本元死刑囚に一人でインタビュー
2019年3月17日
 1995年3月20日、私は東京・桜田門にある警視庁庁舎9階の毎日新聞のボックスで朝を迎えました。18階建ての警視庁庁舎の9階には新聞、通信、放送計十数社の事件記者が三つの記者クラブに分かれて常駐しています。新聞各社とNHKは記者10人前後、民放はそれよりやや少ないという布陣で、各社とも記者がそれぞれのボックスに交代で泊まり込み24時間態勢で事件を警戒しています。私はこの日の朝、泊まり明けの勤務でした。
 午前8時ごろ、救急車のサイレンが聞こえてきました。警視庁そばの地下鉄霞ケ関駅付近に止まったようなので、朝駆け取材をすませて記者クラブにいた後輩記者に見に行くよう指示しました。ところが、現場に着いた彼は、サリンを吸ってしまい、息が十分にできなくなります。頑張って夜まで働きましたが、その後治療を受けることになりました。地下鉄サリン事件は死者13人、負傷者6000人以上という未曽有の被害をもたらしますが、彼は後日、その被害者の1人として警察の事情聴取を受け、被害者調書にも署名押印しました。霞ケ関駅では駅助役の高橋一正さんらがサリンを吸って命を落としました。後輩の彼も現場に着くのがもう少し早かったら、命が危なかったかもしれません。今思い出しても背筋がヒヤリとします。
 この日、警視庁は極度の緊張の中にありました。2日後に山梨県上九一色村(現富士河口湖町)にあるオウム真理教の大規模施設への強制捜査が決まり、膨大な準備作業に追われていたのです。前年の94年6月に起きた松本サリン事件の捜査からオウム真理教の関与が浮上しました。そして、教団幹部らが95年2月に起こした目黒公証役場事務長拉致事件の遺留指紋が教団信者のものと一致し、この事件を突破口にサリン製造の全容解明を図ろうとしていたのです。当時の防衛庁から化学兵器の防護マスク、防護服などの提供を受け、捜査員に死傷者が出ることも覚悟した上での強制捜査でした。しかし、その直前にオウム真理教に先手を打たれてしまったのでした。
 警察とオウム、そしてメディアとオウムの闘いはこれよりさらにさかのぼります。教祖の麻原彰晃の本名である「松本智津夫」が毎日新聞の紙面に初めて登場したのは1989(平成元)年10月26日朝刊でした。サンデー毎日のオウム真理教報道で名誉を傷つけられたと主張し、毎日新聞社を提訴したと伝える記事でした。当時のサンデー毎日は教団のインチキ商法や若者を洗脳して出家させていることを告発するキャンペーンを続けていました。後にわかることですが、教団は牧太郎編集長の拉致や毎日新聞社の爆破について真剣に検討し、牧編集長の自宅や毎日新聞の社屋を下見するなど準備も進めていたのです。そして、教団は1989年11月、サンデー毎日と連携して若者を親元にもどす活動を続けていた坂本堤弁護士とその妻子を殺害し、遺体を山中に埋めました。ただ、捜査を担当する神奈川県警は、教団の犯行と疑いながらも証拠をつかめずにいました。
 この連載の前回、前々回では、ロス疑惑や松本サリン事件の捜査や報道をめぐって、被疑者の人権に関する重大な問題が起きたことを指摘しました。一方で、大がかりな組織犯罪であるオウム真理教事件では、被疑者の人権に配慮するがゆえに、警察が捜査を進められないという状況が起きました。日本の刑事司法のほとんどが個人の犯罪を立件するという形で進みます。警察が、これほど大がかりな組織犯罪に向き合うのは初めてでした。宗教団体であったことから信教の自由との兼ね合いを配慮する必要もありました。
 教団の違法行為を調べていた警察は、教団の用地取得をめぐる国土利用計画法違反の容疑をつかみます。1990年10月、熊本県波野村(現阿蘇市)にあった教団施設を強制捜査し、幹部数人を逮捕しました。教祖の松本元死刑囚からも事情聴取しました。しかし、そもそもの捜査の本丸である坂本弁護士一家事件の解明には至りませんでした。
 坂本弁護士一家の失踪が明るみに出た後、私はこの事件の担当になりました。当時の教団は事件に関連する一切の取材を拒否していました。一計を案じた私は、1990年暮れに社会面で連載することになった宗教の企画を口実に、松本元死刑囚に取材を申し込みました。依頼状には、取材の趣旨はあくまで宗教であると強調しました。すると、驚いたことに、すぐに取材許可の連絡が来たのです。インタビューの場所は静岡県富士宮市の教団施設でした。
 松本元死刑囚に単独インタビューした記者は多くはありません。少し長くなりますが、この時のことを振り返ります。1990年12月でした。私は、自分の住所を探られないように自家用車ではなくレンタカーを借りて、一人で教団施設に向かいました。入り口に迎えに来たのは松本元死刑囚の妻でした。物腰が柔らかで、とても凶悪犯罪に関わっているようには見えませんでした。話をするうちに私と同じ年であることを知りました。
 私が応接室に入ると、10人ほどの信徒がいました。その何人かは2018年に死刑を執行された最高幹部でした。しばらくして、松本元死刑囚が入り口のドアのガラスに顔をべったりとつけた格好で姿を見せました。信徒らがドアを開けて部屋に入れると、私を指して、邪悪な空気に触れたので気分が悪くなった、という趣旨の話をしました。窓からは富士山がきれいに見え、そのことを指摘すると「私がいるから噴火しないのだ」と答えました。これはあくまでも私の個人的な実感なのですが、この段階で松本元死刑囚は目が見えていたと思います。部屋に来るとき、ひとつ上の階から速足で下りてきました。そして、ドアのガラスに顔をべったりとつけるという奇妙な行動を取る前に、私の方を身をかがめてのぞくような仕草をしていたからです。
 宗教についての質問をした後、私は坂本弁護士失踪について言及しました。すると信徒たちが立ち上がり、私を取り囲んで「約束が違う」と口々になじりました。私が身の危険を感じた時、松本元死刑囚は「いいんだよ。いいんだ。どうぞ質問してください」と信徒たちを制止したのです。信徒たちは「尊師はどうしてそんなにお心が広いのですか」と泣き出さんばかりでした。安堵(あんど)して質問すると、松本元死刑囚は「坂本弁護士は早く出てきてほしい。出てきてくれれば疑いが晴れる」と答えました。
 私が松本元死刑囚を取材した時点で、教団は坂本堤弁護士一家の3人、男性信者1人を殺害し、さらに男性信者1人を事故死させていました。そんな教団の閉じられた施設を一人で訪れた私は、大変軽率でした。無事に帰れたのは本当に幸運でした。
 教団幹部には弁護士もいました。人権を盾に、ことあるごとに捜査当局をけん制していました。教団の犯罪の察知が遅れ、後の大きな事件を許してしまう一因でもあります。被疑者の人権という観点から事件を考える時、複雑な思いにかられます。
 次回は、いわゆる「オウム大捜査」と呼ばれる組織犯罪解明の捜査と人権、その報道のあり方について考えます。

 ◎上記事は[毎日新聞]からの転載・引用です
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