拉致、日露、改憲…安倍首相「課題残し痛恨の極み」 辞意表明
2020/8/28(金) 17:37配信 毎日新聞
安倍晋三首相は28日、首相官邸で記者会見し、「8月上旬に(持病の)潰瘍性大腸炎の再発が確認された。病気の治療を抱え、体力が万全でない中、大切な政治判断を誤ること、結果を出せないことがあってはならない。総理大臣の職を辞することとした」と述べ、辞意を表明した。
安倍首相は会見で、自身の後継となる首相(自民党総裁)について「(党の)執行部にお任せしている。誰かとは、私が申し上げることではない」と述べ、明言しなかった。
また、安倍首相は拉致問題、日露平和条約、憲法改正を挙げて「残念ながらそれぞれの課題は残った。痛恨の極みだ」と述べたうえで「政権としてだけでなく、党として強力な態勢で取り組んでいただくことを期待したい」と強調した。【佐藤慶】
最終更新:8/28(金) 20:00 毎日新聞
◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2020.8.28 Fri〉
無念だ。けれど、とにかく「お疲れ様」。病身で、総理という超激務。・・・言葉も、ありません。
無念なのは、やはり憲法改正ができなかったこと。安倍ちゃんの後、憲法改正を言う政治家はいないだろう。
安倍首相が語った「潰瘍性大腸炎」 脂汗かきながらの選挙戦、トイレの位置を確認して…
8/28(金) 17:32配信 読売新聞(ヨミドクター)
持病の潰瘍性大腸炎の悪化のため辞任する意向を明らかにした安倍首相。13年前の首相辞任の原因にもなったこの難病について、2012年の読売新聞のインタビューで語っています。
■突然の辞任 陰に難病悪化
2007年9月12日、突然の首相辞任が発表され、驚きが広がった。内閣改造後の所信表明演説から、2日後のことだった。
「いったいなぜ今?」。国民のだれもがそう思った。当時、真相は明らかにされなかったが、難病に苦しみぬいた末の決断だった。
「薬で何とかコントロールできると思ったのですが、それが無理なほど悪くなっていました。それなら一日も早く辞めたほうがいいだろうと考えたのです」
辞任表明の翌日に入院。同月下旬に記者会見し、体調悪化が辞任の理由と説明したが、詳細は伏せたまま。翌年1月、月刊誌に寄せた手記で持病についてつまびらかにした。厚生労働省が難病指定するほどの悪疾だった。「以前から、正直に話したほうがいいと言う人もいました。女房もそうです。しかし、政治家にとって病気があると知られるのはマイナスだと考え、ずっと黙っていたのです」
潰瘍性大腸炎。この病気の原因は解明されていない。本来は病原菌など外敵から体を守るはずの免疫機能が、自らの腸粘膜を攻撃する「免疫異常」が一因とされる。炎症がひどくなると潰瘍になり、腸壁が破れることも。主な症状は腹痛や下痢、血便だ。
首相辞任のころには、頻繁に便意をもよおし、トイレに駆け込むほどに悪化。国会答弁を十分にこなせないまでになっていた。
■選挙戦 脂汗かきながら我慢
最初に症状が表れたのは、中学3年生の頃だ。試験が近づいた時など、ストレスが強まるとおなかが痛み、下痢に悩まされた。病名がわからないまま年1回ほど発症するようになった。
「肝心な時に症状が出る。ただ1、2週間で治まるので、当時はあまり気にしていませんでした。病名がわかったのは20代半ば、神戸製鋼に入社したころです」
1か月ほど入院し、炎症を抑える薬をのみ始めた。それでも時々悪くなるので、20代の終わりからステロイドも使った。だが一時的によくなっても、ぶり返す。その繰り返しだった。
病気との本格的な格闘の日々は、急逝した父・晋太郎さん(元外相)の後を継ぎ、政治家の道を歩み始めた1993年以降にやってきた。心身ともに消耗する選挙戦。ヒヤヒヤしながらも、最初の選挙は乗り切れた。ところが、2度目は終盤で体調を崩した。
「選挙カーをちょこちょこ止めてトイレに走ればまだいいんですが、それが無理な時は脂汗をかきながら我慢するしかなかった」
自民党の国会対策副委員長だった98年ごろ、それまでに経験がなかったほど症状が悪化した。
「内視鏡検査をしたら、大腸全体の壁がはがれ落ちるほどただれて出血していました。これでよく生きていられるなと、自分でも驚きました」
即、入院が決まった。
■新タイプの薬で「克服した」
腸全体がただれるほど悪化した1998年ごろ、3か月の入院を余儀なくされた。食事をとらずステロイド薬の点滴を続けたが、改善せず、体重は60キロ台から40キロ台に激減した。大学病院に転院し、食事をとりながらの治療に切り替え、ようやく快方に向かった。
「手術で大腸を切除することも検討されましたが、それだと活動が制約され、政治家を続けられない。それは避けたかった」
苦しむ姿を間近で見てきた妻・昭恵さんは「あなた、政治家を辞めて。こんな状況になってできるわけないでしょ」と懇願した。「政治家以外にやりたいことないの?」とまで詰め寄られた。自分でも弱気になりかけたが、志半ばでの引退は考えられなかった。
大腸摘出は免れたものの、再発の不安は残った。内閣官房副長官として森喜朗首相の外遊に同行した時は、「首脳会談を中座してトイレに駆け込むわけにいかない」と、恐怖に似た思いを味わった。「それはなくて済みましたが、当時はどこでもトイレの位置を確認し、用心していました」
そんなころ、新たに浣腸(かんちょう)するタイプの薬を使い始め、光が見えてきた。症状をコントロールできるようになり、自民党幹事長、内閣官房長官を無事こなし、「持病を克服した」と思えた。
その自信に後押しされ、首相への階段を一気に駆け上がった。
■不安抱える患者に勇気を
首相となって最初に体調を崩したのは2007年初め。その時はステロイド薬で症状を抑えて何とか切り抜けた。しかし、激務に加え、同年7月の参院選で自民党が惨敗したことでストレスが高じた8月、外遊先でウイルス性腸炎にかかった。これを境に、持病は急速に悪化していった。
「総理の職というのは、1か月休養して『やっぱりダメでした』というわけにはいかない。交代するしかないと思いました」
首相辞任後、現みんなの党代表・渡辺喜美さんの妹から、健康食品を薦められた。医師で、同じ病気の患者でもある彼女はそれで症状が改善したという。青汁に混ぜて毎朝飲むようになり、具合がよくなった。
2年ほど前に発売された新薬が効いたこともあり、このところの定期検査では炎症反応は見られない。良好な体調を維持し、今や「完治に近い」という。
患者の集まりで講演した時には「こういう病気でも総理大臣まではできます」と気さくに語り、会場を沸かせた。社会復帰への不安を抱えた患者たちはその言葉を何より喜んでくれた。
「私が政治家として頑張っていくことで、皆さんを勇気づけられたら」。難病対策の一層の充実が、ライフワークに加わった。(文・高梨ゆき子)
最終更新:読売新聞(ヨミドクター)
◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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