寝屋川中1男女殺害 死に至らしめたことは認めながら、何も語らぬ被告 何も語らせぬ弁護士 〈来栖の独白〉勝田清孝の「命よりも大切な…」 

2018-11-03 | 死刑/重刑/生命犯

寝屋川中1男女殺害公判、現場の記者らが感じる「不可解」
2018/11/3(土) 6:00配信 ダイヤモンド・オンライン
 大阪で2015年8月、寝屋川市の中学1年の男女を殺害したとして殺人罪に問われた山田浩二被告(48)の初公判が11月1日、大阪地裁で開かれた。山田被告は罪状認否の前にいきなり土下座し「申し訳ありません」と謝罪したが、争点の殺意については全面的に争う意向を示した。傍聴人からは「(土下座は)お芝居じみていた」と冷ややかな声が聞こえるが、検察側にとっては決定的な直接証拠がなく、専門家からは「殺人罪の認定は厳しい」との見方が支配的だ。公判は11回を予定しており、判決は12月19日に言い渡される。その結果の行方は…。(事件ジャーナリスト 戸田一法)
● 殺害時間、場所、方法の記載なし
 事件から3年以上が経過しているので、お忘れの方も多いと思う。これまでの経緯をおさらいしておこう。
  事件が発覚したのは3年前の8月13日深夜だった。大阪府高槻市の駐車場で、顔などをガムテープでぐるぐる巻きにされた平田奈津美さん(当時13)の遺体が見つかった。さらに21日、大阪府柏原市の山の中で、星野凌斗さん(同12)のほぼ白骨化した遺体が発見され、同日、大阪府警は山田被告を平田さんに対する死体遺棄容疑で逮捕した。
  その後、府警は9月に平田さんに対する殺人容疑で、12月には星野さんに対する殺人容疑でそれぞれ山田被告を逮捕した。大阪地検は平田さんへの死体遺棄罪での立件は見送り、2人に対する殺人罪で起訴。これまでに公判前整理手続きは33回を数えた。
  実は、山田被告が2人を殺害した直接証拠は一切ないとされる。
  起訴状にも、具体的な殺害の時間や場所、方法などは明記されておらず、単に「8月13日ごろ、大阪府か周辺で、窒息死させた」とあるだけだ。山田被告は取り調べにも黙秘を続けており、供述調書はないに等しいとみられる。
 では、どうやって状況証拠を積み重ねるのか。
  まず2人は8月12日夜に外出し、13日早朝には京阪本線寝屋川市駅近くの商店街を歩く姿が防犯カメラに収められていた。一方、別のカメラには山田被告のものとみられるグレーの軽ワゴン車が写っていた。
  検察側は、これまで集めた防犯カメラの映像や軽ワゴン車から見つかった血液反応などのほか、2人の遺体から検出された睡眠導入剤を手掛かりに、山田被告が携帯電話で「DNA鑑定、汗、死体」「ハルシオン、子ども、効き目」と検索していた事実などを示し、2人が死亡するまで一緒にいたのは山田被告以外あり得ず、被告しか2人の殺害に関与した人物はいないと立証する構えだ。
● 「出来損ないのお芝居」
  初公判で山田被告は、証言台で「ずうっと伝えたかった」と発言した後、いきなり土下座して泣き始めた。そして、遺族がいると思ったのだろうか、検察側に向かって「本来ならご遺族の顔を見て謝罪すべきだが遮蔽されてできない。声なら届く」と続けた。
  「やめなさい」と注意する裁判長。肩をたたく弁護士…。
  しかし、罪状認否では「経緯はどうであれ死の結果を招いてしまい、申し訳ありませんでした」と謝罪しながら、殺意については「全くなかった」と否認した。
  公判中、タオルでしきりに涙をぬぐい、時折、口元に当てる山田被告。モニターにガムテープでぐるぐる巻きにされた被害者のイラストが映し出されると、小さく頭を振って肩を震わせた。審理終了間際、立ち上がって裁判長に「ありがとうございました」と告げ、何かを言いたそうにしたが、制止され「すみませんでした」と頭を下げていた。
  公判を傍聴した記者から様子を聞き取った全国紙デスクに話を聞いた。
 「全体的にお芝居じみていました。それも、出来損ないの三文芝居でしたね」。記者は冷ややかで厳しい見方をしていたという。
  実は、山田被告は初公判前、報道各社の接見などに応じていた。「事件と向き合い、懺悔(ざんげ)している」「眠れず、朝早くに目が覚める」。雑誌など事件に関する記事を欲しがり、興奮した様子でまくしたてたり、落ち着きない仕草(しぐさ)を見せたり…。
  事件に関しては「何も言えない」。初公判に臨むに当たっては、弁護側が平田さんに関しては傷害致死罪の適用を求め、星野さんに対しては熱中症による病死と主張するとの見方に「そんな感じですかね」と、自分の主張ではなく、まるまる弁護士の指示に従うような意思を示していた。
  山田被告は逮捕直後、府警の調べに「(平田さんに)声を掛け、車に連れ込んだ」などと供述していたが、弁護士が付いた後からは一転して黙秘に転じる。この事件を担当した記者らは一様に「弁護士がシナリオを作っているな」と感じているという。
  捜査当局の聴取には黙秘なのに、報道機関の接見・取材には応じる不可解。中学1年生という若い2人の死亡なのに、両起訴事実とも偶発的に死んだかのような「無理筋」(記者ら)。特に星野さんに対しては熱中症の可能性を主張し、平田さんに関しては首を絞めたことによる窒息死であることは争わないものの「大声で騒ぐので口を押さえただけ」とした。
  一切の感情を排除し、証拠が理屈に合致しているか否か、有罪か否かを判断するプロの判事と違い、今回は裁判員裁判だ。記者らは「可能性の主張はありと思うし、確かに直接証拠もない。でも、あまりに荒唐無稽すぎないか。裁判員はどう感じるだろう?」と疑問を感じているようだという。
● 過去にも中学生監禁で懲役
  山田被告とは、どんな人物なのだろう。
 人権に配慮し、懲役を終えて罪を償なった後の前科前歴を報じないのがメディアの原則ではあるが、今回は事件の特殊性のため、あえて触れなくてはなるまい。被告は、2002年にも中学生ら7人に対する同様の強盗や監禁事件を起こし、懲役12年の判決を受け、服役していた。
  いずれも言葉巧みに声を掛けて車に乗せ、ナイフを突き付けてガムテープで手首を縛りあげる手口。今回の事件と同じだが「命を奪った」点で、結果が大きく異なる。
  服役を終えた2014年11月、福島県川俣町で東京電力福島第一原発の除染作業に従事する。フェイスブックには「早く浦島太郎から卒業出来るよう頑張るで!」の投稿。出所後の友人との交流や、結婚も考えていたという交際女性との充実した生活がつづられていた。
  だが、事件1ヵ月半前には「メッチャ波乱万丈の人生を歩んできた俺!」「俺はこんな人生になるとは夢にも思わなかった」「どこで間違ったんだろう」と事件を予告するかのような、投げやりな投稿もしていた。
  弁護側は「精神障害による心神耗弱状態だった」と主張。前述の投稿を見ると、確かに予兆は感じられる。しかし、接見した記者、接見したとされる各報道機関の記事などによると「普通でした。確かに不安定な印象でしたが、精神的な異常はないと思う」という見方が支配的だ。
  「状況証拠の積み重ね」で有罪が確定したケースでは、仙台市で2001年に発覚し准看護師が患者に筋弛緩剤を点滴し無差別大量殺傷した事件(無期懲役が確定)などが有名だ。一方で、2008年に発覚した京都府舞鶴市の女子高生殺害事件では、凶器などの物証はなく、目撃情報や自転車を押しながら一緒に写る防犯カメラなどを元に立証を試みたが、最高裁で無罪が確定した。
 全国紙デスクは記者時代、舞鶴市の事件を担当したという。「証拠さえ残さなければ、何人殺害しようとも、罪に服する必要はありません。法治国家ですから、そりゃ、当たり前ですよ」と投げやりに笑った。
  そして「今回も傷害致死罪で終わり。懲役7~8年で出所し、また何の罪もない中学生をさらって殺すんでしょうね」。筆者に背中を向けて、大きなため息をついていた。
  弁護士法第1条「弁護士は(中略)社会正義を実現することを使命とする」。弁護士職務基本規定第5条「弁護士は真実を尊重し、信義に従い誠実かつ公正に職務を行うものとする」。刑事訴訟法第1条「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正かつ迅速に適用実現することを目的とする」。
  弁護士が依頼人の要請に応えることは当然の義務である。しかし、今回の事件で、弁護士は真実追求の義務・公益に応えているか、疑問を感じる。
  中学1年生という若い2人が死亡した事件。死に至らしめたことは認めながら、何も語らぬ被告。何も語らせぬ弁護士…。
  「なぜ、私たちの子どもは殺されたのか。どのように死んだのか」
  黙秘は、被告の権利である。一方、真実を知りたいと願うのは、遺族の切実な思いでもある。願わくば命が奪われた2人のため、真実を知りたいと願う遺族のため、ゲーム感覚の駆け引きはやめ、公判が司法のあるべき「真実追求の場」であってほしいと切に願う。
  .戸田一法 最終更新:11/3(土) 10:45 ダイヤモンド・オンライン

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2018.11.3 Sat〉
 真実を隠し、嘘で固めた命。刑事弁護とは、真実よりも、そのような命を後生大事とするのか。
 論語は「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と云い、イエス(聖書)は「命よりも大切なものがある」と云う
 私事だが、昔、勝田清孝との交流の切っ掛けは、勝田の真実を告白する姿によってであった。勝田は手記『冥晦に潜みし日々』に、次のように書く。

 ところで、逮捕された直後の私は比較的冷静であったように思っていましたが、時間が経つにつれて、歯・両手首・腰・足と全身に激痛が増したことを思うと、かなり興奮していたために痛みが分からなかっただけで、少しも冷静ではなかったのだと回想するのです。痛みが激しくてじっと座ってもいられなかったそんな私を、刑事は詰めかけた多数のマスコミ関係者を退け、また、尾行して来る者を振り切ってまでして歯科・外科医院へと連れて行ってくれたのです。この時、余りにも多いマスコミ関係者の姿に、我ながらいかに重罪であるかを思い知らされると同時に、罪人の私に娑婆では感じなかった人間味をもって温かく接してもらえたことにとても感激し、犯した罪は重罪だが、拳銃強奪に関する一連の事件以外についても、一切懺悔しなければいけないという心境になりかけている自分を感じていたのです。
  そればかりか、一夜明けても腰痛で苦しむ私に、底冷えのする留置場では治るものも治らないと言って、暖房の利いた県警本部の留置場へと移送してくれた刑事のその心遣いに、一切の宿悪を懺悔しようとの決意が、この時すでに内心にはあったのです。言わば、猫をかぶり続けた長年の苦悩から早く抜け出したい気持もあって、この親切を受けた日以後、いつ懺悔しようかとその好機を窺う自分でもあったのです。
  とは言っても、113号事件の他に7人も殺めているといきなり告白すれば、いくら親切な刑事でも激怒するのではないか。それまでの親切とは打って変わって、虐待されるのではないかという不安があったのです。それに、一切を告白すれば、極刑で裁かれる自分自身の覚悟は別に、私の家族が自殺してしまうのではないかという懸念が脳裏から離れなかったのです。告白しようと決意したものの、頭に浮かぶことと言えば決まって自分の家族のことでした。
  でも、被害者の悶死を思うと、家族には死なないでくれと祈れる私はまだしも恵まれているのだ、と自分に言い聞かせていたのです。そして、犯した重罪は消えることなくとも、せめて人間に立ち返ろうとして告白をしたことが、いつか必ずや家族も理解してくれるに違いない、と信じることで、自分に打ち勝ったのでした。
 〈よし、明日の朝一番に懺悔しよう。死刑になってもええ、全部話してしまおう・・・〉
  朝になって迷わないよう何度も何度も自分を追い詰めていたのです。そしてその夜、壁に掛かる時計ばかり見つめながらとうとう一睡も出来ず、2月4日の朝を迎えました。重罪を胸に秘めて長年生き延びてきた私でしたが、いままさに宿悪を懺悔しようとする心境は、時を移さず土壇場へ引ったてられる恐怖に怯えきっていたのです。
15. 温情
  懊悩しながら長い一夜を明かした私は、極刑を覚悟していたとはいうものの、いざ秘中の秘を告白するとなると、やはり臆病風が吹くのでした。
  それは、告白する事によって受ける罪の報いを意識して起こる恐怖ではなく、残忍極まる奴だとして刑事の態度が一変することに抱く恐怖心だったのです。親身になって気遣ってもらっていただけに、小心な私は余計に言い出しにくかったのです。
  覚悟したにもかかわらず、尚も自分に都合よく迷う私自身多少はがゆくもありました。心の中で「すまん、許してくれ・・・」と妻子の名を呼ぶことで意識的に弾みをつけ、「僕はまだ他にも人を殺しています・・・」と、一気にまくし立てたのでした。
  ところが、自責の念から被害者に対する済まなさがどっと湧き起こり、机に顔を伏して声涙共に下る私に「泣け! もっと泣け! 泣きたいだけ泣け」と刑事は思う存分泣かせてくれたのです。思惑と違った意外な刑事の言葉にとめどなく涙を誘われ、何もかも一切告白しなくてはという良心に一層駆り立てられたのでした。
  思えば、とりとめもなく交錯する脳裏には、十年以上も前の罪業があからさまに甦り、髪を振り乱して泣き崩れた私には、犯した罪の重大さに、自分を冷静に置くことができないほど精神は錯乱していたのです。やや落ち着きを取り戻した私に「じゃあ、紙に書きなさい」と刑事は白半紙を差し出したのでした。
  しかし、兵庫労金事件と松坂屋事件を思い起こしながら真相をしたためている最中にも頭の中に妻子の顔が浮かんでは消え、ボールペンを持つ手の動きはどうしてもにぶるのです。それに、告白の文字を連ねるごとに、重くなる罪を意識してしまい、我ながら心の底から怯えていたのです。
  どうにか2件だけは記述できました。が、やはり頭の中は自殺するかも知れない家族のことで混乱してしまい、その日は、女性の殺害についてはとうとう告白できなかったのです。
  何もかも話すつもりで取調室に入っていながら、ついに女性5人の殺人を言い出せなかった私は、その日の夜も次の日の夜も、複雑怪奇な想念が脳裏を駆けめぐり、怨霊に取り憑かれたような怯えに包まれて、ほとんど眠れませんでした。そればかりか、逮捕されてから一週間になろうとするのに一度も便通がなく、精神的・肉体的な限界を迎えていました。そのような仏罰を意識する私は、告白しない自分自身に、もはや、ごまかしが通らなくなっていたのです。
〈家族は死なない。きっと生きていてくれる・・・〉と信じることで、今度こそ生まれ変わろうと決心したのでした。
  そして、もう二度と迷わないためにも告白は早いほうがいいとの自覚から、夜中の2時半頃だったかに、刑事を呼んでくれるよう留置場の係員に申し出たのです。
  電話連絡を受けた刑事は早速駆け付けてくれたのですが、留置管理規定で夜中の取調べは許されないようでした。
  調べが開始されたのは翌朝9時半頃からでした。私は躊躇こそしなかったものの、やはり刑事に対して一抹の不安は隠しきれませんでしたが、紙とボールペンの借用を申し出て5名の殺人を一気にしたためたのです。そんな私に、「よく話してくれたね」と、刑事から予期しなかった言葉をかけて頂き、問罪されないうちに告白した自分の勇断を素直に自賛できたのです。久方ぶりに心のわだかまりが消えたせいか、早速その晩便通もあり、前後不覚の深い眠りに落ちたのでした。
16. 贖罪
  しかし懺悔したからといって決して心が安らいだわけではないのです。多少胸のつかえは取れたものの、目の裏に焼き付いた当時の光景がありありと浮かび、むしろ懺悔してからの方が自責の念にさいなまれ続けているのです。
  人間として生まれ変わるには一切の悪業をさらけだし、1日も早く被害者に詫びる以外に道はなかったのですが、告白した直後の私は、正直言って「これで俺の一生は終わったのだ・・・」という暗澹とした心境でした。いわば覚悟していたとはいえ、罪科による死期が一層身に切迫した感に、何とも言えぬ寂しい気分だったのです。
  でも、同じ裁きを甘受するのなら、真人間に立ち返ってから裁かれようと、大阪での猫かぶりを省みて、自らの意志で宿悪の苦悶から脱却を図ったことも事実だったのです。だから、暗澹とした気分ではあったが、告白した事実に対する後悔はまったくなかったのです。むしろ、我ながら「よく打ち明けたぞ」と、勇気を出した素直な自分に心から喝采を送れる心境でいられたのです。そして、事件は必ず自分の手で立証してみせる意気で、刑事と一緒になって物的証拠を懸命に探索しました。事件の全容は、なにがさて自分が一番詳しく、多数の捜査員を従えるからには、まず自分が先頭に立たなければ済まないといった責任を強く感じていたからです。自分のこの手で犯した罪であり、すべて追認することが被害者に対して私に出来るたった一つの罪滅ぼしだと肝に銘じていたのです。

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オウム死刑囚 刑執行 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 命よりも大切なものがある 〈来栖の独白〉 
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寝屋川中1男女殺害 山田浩二被告、土下座して涙「申し訳ありません」 「殺すつもりはなかった」 初公判 2018/11/1 
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