「深謀遠慮」を欠く日本の対中外交 重慶事件、陳光誠事件でのアメリカの立ち回りを研究せよ
JBpress 2012.05.10(木) 柯隆
数年前に、中国の若者たちが『中国可以説不』(ノーと言える中国)という本を出版し、アメリカに毅然とした態度を取るよう中国政府に求めた。しかし最近になって、こうして嫌米感情をあらわにした作者の1人がアメリカに移民したことが明らかになった。中国人の本音は、実は決してアメリカが嫌いではないようだ。
最近、中国で重慶事件が起きたが、これも、重慶市副市長で公安局長だった王立軍氏が米国重慶総領事館に駆け込んだことがきっかけだった。アメリカ政府は王立軍氏の政治亡命を受理しなかったが、中国人にとってアメリカは憧れの存在なのかもしれない。
そして、米中関係の行方にさらに大きな影響を及ぼしうる事件が起きた。山東省の盲目人権活動家・元弁護士の陳光誠氏が軟禁状態から脱出し、北京にある米国大使館の保護下に入ったのである。
王立軍氏は共産党幹部であり、人権活動家ではなく、中国政府からの迫害も受けていなかったため、彼の政治亡命を受け入れなくても、アメリカでは議会などに非難されることはない。
しかし、盲目人権活動家の陳光誠氏は、中国の農村部での人権侵害実態を明らかにしようとしたため迫害を受け、裁判所の判決もなく自宅軟禁された。陳光誠氏の政治亡命をアメリカ政府が受け入れなければ、アメリカの建国精神に反してしまう。
しかし、大方の予想に反して、アメリカは2人の亡命申請者を中国政府に引き渡した。この不自然な結果は何を意味しているのだろうか。
■重慶事件にまつわる2つの謎
王立軍氏は重慶市共産党書記・薄熙来氏の腹心の部下だった。王立軍氏が米国重慶総領事館に駆け込んだことがきっかけとなって、薄熙来氏は失脚した。
中国政府の公式発表によれば、薄熙来氏は重大な過ちを犯したとして重慶市共産党書記の職を解任された。同時に、薄熙来の妻である谷開来氏はイギリス人の投資家へイウッド氏の殺害に関わったとして逮捕され、司法手続きに入ったと言われている。だが、薄熙来氏がいかなる重大な過ちを犯したのかについて、いまだに明らかにされていない。
薄熙来氏が失脚する直前、3月初旬に開かれた「全人代」(=全国人民代表大会:日本の国会に相当)に参加した際、薄氏は記者会見で「米国への政治亡命を申請した王立軍氏を任命した責任は自分にあるが、私が重慶市で行ったことは間違っていない」と明言した。
この事件の最大の謎は、王立軍氏がなぜ米国総領事権に駆け込んだのか、にある。
欧米の主要メディアが伝えたところによれば、事件の詳細は次の通りだ。重慶市副市長で公安局長の王立軍氏はイギリス人投資家のへイウッド氏の死亡事件を捜査したところ、現場で薄氏の妻、谷開来氏が関わった証拠が見つかった。
王氏が薄氏のオフィスに行き、その疑いを報告したところ、「お前は俺と俺の家族まで調べるのか。裏切り者め、出ていけ」と怒鳴られた。数時間後、冷静さを取り戻した薄氏は王氏を呼び戻し、「先ほどは感情的になって申し訳ない。君が公安局長として殺人事件を捜査するのは当然の仕事だから、私の家族を捜査してもよい。ただし、公正でなければならない。どうぞ捜査を続けてくれ」と言ったという。
しかし、数日後、王氏は公安局長の職を免ぜられた。一説によれば、王氏と共にヘイウッド事件の捜査を担当した5人の警官のうち、3人が薄前書記の部下に捕らえられ、拷問の末、死亡したと言われている。身の危険を感じた王氏は自ら車を運転して成都に向かい、米国総領事館に駆け込んだ、というのが事の顛末である。
だが考えてみれば、王氏は遼寧省時代から薄氏の部下として働き、信頼が強い。仮に、捜査の段階で薄氏の家族が関わった証拠が見つかったとしても、それを隠蔽する側に回るはずである。薄氏のオフィスで怒鳴られたというのも、これまでの二人三脚ぶりから見て考えにくい。明らかに作られた話である。
この事件のもう1つの謎は、なぜアメリカ総領事館が王氏を中国政府(北京政府)に引き渡したのか、である。
確かに王氏は人権活動家ではないが、中国政府に引き渡した場合、殺される危険性があった。人権保護を標榜するアメリカの建国精神に反する行為であるはずだ。
■盲目の活動家、陳光誠氏はどうやって軟禁状態を抜け出したのか
4月末に、もう1つの怪事件が起きた。山東省の盲目の人権活動家、陳光誠氏が地元公安当局によって自宅軟禁されていたが、看守がトイレに行くスキをみて脱出した。脱出後、陳光誠氏は「YouTube」に投稿したビデオの中で、自分と自分の家族が山東省の自宅で非人道的な迫害を受けたと証言した。
その上、地元の公安当局が村を完全に包囲し、村に通じるすべての道路と道に番号を振って責任者を配置させ監視していた、ということも明らかにした。
仮に陳光誠氏の証言が正しいとすれば、1人の盲目活動家が一体どうやってこれだけ厳しい監視の中で自宅から抜け出すことができたのだろうか。
たとえ脱出を幇助する者がいても、すべての道路と道が監視されているので、脱出するのはほとんど不可能と思われる。盲目活動家が脱出に成功したのは奇跡としか言いようがない。
さらに北京に入った同氏は、武装警察に厳重に警備されている米国大使館にも無事に入ることができた。この事件の2つ目の奇跡である。
何よりも、この事件が予想外の展開を見せたのは、アメリカ政府が陳光誠氏をアメリカに連れていかなかったことである。同氏はギャリー・ロック大使に伴われ、中国政府に保護され、北京市の病院で治療を受けることになった。その病院で家族とも再会できたようだ。
もしも「王立軍氏は人権活動家ではないから亡命申請を受理しなかった」というのであれば、陳光誠氏の亡命申請を拒否する理由はないはずだ。
一部のマスコミの報道では、陳氏が自らアメリカへの亡命を拒否したとも言われている。だとすれば、何のためにアメリカ大使館に逃げ込んだのだろうか。
■アメリカは中国との関係悪化を回避したかった?
わずか2カ月あまりの間、2人の中国人がアメリカ大使館と総領事館に駆け込んだ。この2つの事件の流れは、どう見ても不自然な点が多い。
中国国内で、今のところ民主主義を求める大規模な運動は起きていない。経済成長は若干減速感が出ているが、緊迫した状況にはない。政権交代を控えているが、政治の統治力が著しく低下しているわけでもない。では、なぜこのような怪事件が起きたのだろうか。
最近になって、王立軍事件について新たな動きが出てきている。北京のある大学の女性教師、王錚氏が公安部に薄氏の釈放を求めている。同氏が薄氏の家族に尋ねたところ、収賄など罪を犯したことは一度もないという。
また、王氏が米国総領事館に駆け込んだのは中央政府にはめられたものだと言われている。つまり、王氏は中央政府からの電話指示によって総領事館に入った。米総領事館に入ったチベット族の人がいて、そのチベット族に面会に行くよう指示されたのだという。
また、ハーバード大で留学している薄氏の息子、薄瓜瓜氏は学生新聞に寄稿し、一族の不正な蓄財を否定した。
王立軍氏が米総領事館に逃げ込んだ真相は明らかではないが、アメリカ政府がなぜ彼を中国政府に引き渡したのかは大きな謎である。
マスコミでは、王氏が米総領事館に駆け込んだのは、習近平国家副主席が訪米する直前だったので、アメリカは中国との関係悪化を回避するために王氏を中国に引き渡したと書かれている。
陳光誠氏が米大使館に逃げ込んだのも、米中戦略・経済対話の直前だった。確かに、ロック大使が陳氏を中国政府に引き渡したのは米中戦略・経済対話が行われる前日だった。
しかし、このような偶然性をもって2つの事件を簡単に片づけるのは明らかに拙速すぎる。
■用意周到に中国との関係構築を目論むアメリカ
ここで、大胆な推察を行うことにしよう。
薄氏の解任劇、王立軍氏の亡命申請事件、陳光誠の脱出事件。実は、これらはすべて中国政府部内の対立する政治勢力が仕組んだものであり、アメリカがそこに積極的に関与している。そのように見た場合、事件の紐が比較的簡単に解けてくる。
「The Chinese Communist Party and Its Emerging Next-Generation Leaders」(USCC、シェリー・チャオ、アンドリュー・タッファー著)、「Addressing U.S. - China Strategic Distrust」 (ブルッキングス研究所、ケネス・リバーサル、ワン・ジス著)など、アメリカではシンクタンクによる注目すべき中国研究成果の発表が相次いでいる。
アメリカでは、中国政治に関する研究が驚くほど精緻に行われている。中国の次世代指導者と指導部に関する研究は、すでにポスト習近平の第6世代の指導者候補までリストアップされている。
上記の2つの事件を巡るアメリカの対応は、不気味なほど落ち着きが感じられる。オバマ政権の中国戦略を見ると、議会対策、マスコミへの対応、そして中国との交渉はいずれも用意周到と言わざるを得ない。
アメリカから見ると、米中の戦略的な不信(Strategic Distrust)をもたらした原因は、(1)両国の政治制度と価値観の違い、(2)政策と戦略のプロセスの違い、(3)中国の台頭によるアメリカへの脅威、にあると言われている。
それを踏まえた上での中国への対応は、一言でいえば、あらゆるチャンネルを通じて対話を進めていくことであり、それによって戦略的な信頼(Strategic trust)を構築することである。
これは簡単なことではないが、今の中国を抑え込められるグローバルパワーはもはや存在しない。アメリカの対中戦略も、「硬」から「軟」に変わりつつあるように見える。
例えば、ロック大使は就任してから中国のマスコミにたびたび登場している。中国への出張の際にいつもエコノミークラスを利用する「清廉」ぶりは、中国マスコミに好意的に取り上げられている。結果的にこれは、中国政府への大きなプレッシャーともなっている。
■場当たり的でグローバル視点を欠く日本の外交戦略
では、もし日本の大使館や領事館で重慶事件や陳光誠事件のような事件が起きたとしたら、日本政府はどのように対応したのだろうか。アメリカのように戦略的な対応を取れただろうか。
おそらく日本政府は大パニックに陥っただろう。大使か外務大臣が言葉足らずの記者会見を行って誤解を招き、それを補足するための発言をすればするほど、事態が混迷したに違いない。
さらに、中国政府とのパイプがほとんどない中で中国政府からの圧力が強まり、亡命申請者を中国政府に引き渡していいかどうかを躊躇しているうちに、外務大臣も大使もどんどんまともな判断ができなくなっていく。
これが日本の外交力の実態なのだ。今回の中国で起きた2つの事件とそれに対するアメリカの対応を日本は大いに研究し、参考にすべきである。
最近の日中関係を見ると、心配するにも値しない低次元の事件が起きている。例えば、南京事件を否定した名古屋市長の発言と、それに反発する南京市政府と江蘇省政府の対抗措置はその1つである。
そして、東京都が尖閣諸島を買取するという。こうした動きは中国を刺激こそすれ、建設的な効果はまったくない。
筆者の持論だが、領土と領海の問題に「正義」は存在しない。現実的には総合的な国力の対比によって領有権が決まるのである。そのため、日本の国力がこのまま弱まっていけば、尖閣諸島も竹島も北方4島も戻ってこないかもしれない。
日本外交力を高めるためには、対局に立って物事を見る目が必要不可欠である。ポスト野田政権の政界の勢力図がどうなるかは、あくまでも日本の内政である。新党結成などいろいろな動きがあることは避けられないが、日本がグローバル社会の中で存在していくことを忘れてはならない。
<筆者プロフィール>
柯 隆 Ka Ryu
富士通総研 経済研究所主席研究員。中国南京市生まれ。1986年南京金陵科技大学卒業。92年愛知大学法経学部卒業、94年名古屋大学大学院経済学研究科修士課程修了。長銀総合研究所を経て富士通総研経済研究所の主任研究員に。主な著書に『中国の不良債権問題』など。
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