2017.10.08 週刊現代
85歳の曽野綾子さんが90歳の夫を在宅介護し、看取ってわかったこと 夫婦とは、こうして終わるのか 曽野 綾子
作家・曽野綾子氏(現在86歳)の夫で、文化庁長官や日本芸術院長などを歴任した作家の三浦朱門氏は、今年2月3日に91歳で逝去した。63年あまり連れ添った糟糠の妻である曽野氏が、三浦氏を亡くなる直前まで自ら在宅介護していたことを、ご存知だろうか。
曽野氏が、夫の介護生活の中で感じた苦労と葛藤、また看取りや葬儀の様子を事細かに綴った『夫の後始末』がこのたび刊行された。夫との死別から8ヵ月が経ったいま、改めて心境を語る。
■夫と過ごした最後の9日間
三浦朱門の死は、実に穏やかなものでした。平和な日本社会の恩恵を充分に受けて、最期を迎えることができました。みなさまのお陰で、夫は穏やかな生涯を送らせていただいたと思います。
夫は91歳まで、ほとんど病気をしませんでした。恵まれていましたよね。
ただ、'15年くらいからさまざまな機能障害を発症しました。がんや心臓病を抱えているわけではなかったのですが、何度も転んで、目の周りに青痣を作るようになりました。それでも、人から「どうしたの?」と尋ねられると「女房に殴られたんです」って言うのが嬉しくてたまらなかったようです。
〈短い入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が衰えるのを感じた。ほんとうに恐ろしいほどの速さだった。病院側は、実に優しくしてくれたのだが、私は急遽、夫を連れ帰ってしまった。
家に帰ってきた時の喜びようは、信じられないくらいだった。「僕は幸せだ。この住み慣れた家で、廻りに本がたくさんあって、時々庭を眺めて、野菜畑でピーマンや茄子が大きくなるのが見える。ほんとうにありがとう」などと言うので、「世の中何でも安心してちゃだめよ。介護する人の言うことを聞かないと、或る日、捨てられるかもしれないわよ」と、私は決していい介護人ではなかった。
しかし私はその時から、一応覚悟を決めたのである。夫にはできれば死ぬまで自宅で普通の暮らしをしてもらう。そのために私が介護人になる、ということだった〉
(『夫の後始末』より)
夫は1年半ほど在宅介護を受けた後、亡くなる直前の今年1月末に間質性肺炎を患い、搬送された病院で9日間の入院生活を送りました。胸のレントゲン写真を見ると、肺が真っ白になっていました。この病気は酸素が脳に行かなくなるので、だんだんと意識が混濁していくのです。
でも、そんな中でも、最後まで夫はユーモアを忘れませんでした。
〈(三浦氏が)自宅をなぜか五反田にある、と言い張るので、私は何度目かに、「五反田の家には、何という女の人がいるの?」とふざけて尋ねた。「五反田の彼女」の名前を聞かれると、朱門は黙った。数秒間、けなげな沈黙が続いたあげく、
「あやこさん」
と彼は答えた。後でとっちめられたら大変だ、と彼は酸素不足の頭でもとっさに考えたのであろう〉
(『夫の後始末』より)
■「延命治療は受けない」という了解
夫は「長生きさせなくていいよ」とかねがね言っていました。
私は昔、先ごろ亡くなられた(聖路加国際病院名誉院長の)日野原重明先生から、「終末期にやってはいけない治療」を教わっていました。点滴、胃瘻、気管切開による延命です。
老人がいつまでも点滴で生きられるものではありません。また、気管切開をすると、最期に肉親と会話をする貴重な機会を奪われてしまいます。
はっきりと話し合ったわけではありませんでしたが、私と夫の間には「延命治療はしない」という了解があり、他の家族もそれを知っていました。病院で、「最期にどんな治療を希望されますか」と看護師の方に聞かれたときも、息子は「全部拒否しといたよ」と言っていました。輸液は最低限の量だけで、肺炎の治療薬も投与していません。
亡くなる5日ほど前でしたか、看護師の方に、棺に入るときに着る服を用意するように、それとなく言われました。夫は背広が何より嫌いな人でしたから、いつも着ていたベージュのセーターを用意しました。最期も、お気に入りの服を着ているほうがいいと思ったのです。
80歳、90歳になったら、人は自分がどんな服でお棺に入るか決めておくべきでしょう。私自身は、自分が死ぬときに着る服を、もう20年前から準備しています。白い長い南方の服なので、もう黄ばんでいるかもしれませんが、どうせ死んだら見えないのだから構いません。
■世間の常識に反しても
通夜もお葬式も、慌てることはありませんでした。朱門の両親を自宅で看取った経験もありましたし、うちはカトリックですから、家で簡素なミサを立てて、家族と本当にお世話になった方が数人だけ来てくだされば、それでよかったんです。
サラリーマンとして働いている人や、組織の中で地位のある方は、お葬式に人を呼ばないわけにもいかないかもしれませんね。ただ幸いにも、夫は3年前に日本芸術院長を退任していましたから、簡素な葬儀でよかったのです。世間の常識に反しても彼と私の好みに従えばいいと決めていました。
夫が入ったお墓は、20年ほど前に夫の両親が亡くなったときに建てました。これも簡単な石碑にラテン語で「神に感謝いたします。私たちの罪をお許しください」と書いてあるだけのものです。
うちのお墓は一族全員が入れるようになっているので、夫の両親と、私の母親も一緒に入っています。いっぱいになったら、古いお骨から地面に返していく。いい仕組みだと思いませんか?
夫の死後、知人から「生活は変わりましたか」とよく尋ねられます。でも、私としては、夫が生きていたころとできるだけ変わらない生活を送るのがいいように思っています。
ただ、夫の介護をしていた2年弱の間、私はほとんど家に閉じこもっていました。自分でも気づかないうちに、介護の疲れが日々溜まっていたのでしょう。最近は微熱が取れません。暇があると横になって、テレビを付けてぼうっと『ナショナル・ジオグラフィック』なんかを見ているんです。
何しろ60年以上昔から、私はずっとものを書いてきましたから、本来は書いているほうが楽なはずなんです。物書きというのは一輪車に乗っているようなもので、漕ぎ続けないといけないんですね。だから私は、夫が死んだ日も書いていましたよ。夫の死について書いたのではなくて、翌々日締め切りの原稿を淡々と書いていたんです。
■夫の形見で、子猫を買った
夫が亡くなって4ヵ月ほど経ったころ、彼の書棚を整理していたら、折りたたまれた1万円札が12枚出てきました。急に物入りになったときのための、へそくりだったのでしょう。いい加減な人ですから、おカネを置いていたことを忘れていたんでしょうね。
最初はこの12万円で、お世話になった方を招いて美味しい中華でも食べようか、なんて考えていました。でもちょうどその日、ホームセンターで一匹の子猫と出会ったんです。スコティッシュフォールドという種類で、一応血統書付きだそうですが、雑種みたいな普通の茶色い猫です。
へそくりで子猫を買ったなんて知ったら、夫は怒ってみせるでしょうけれど、私は案外いい使い途だったんじゃないかと思っています。日本風の名前がいいと思って、「直助」と名付けました。
〈思い出はすべて過去に向いている。しかし家族を見送った後は、残された者はどんな思いを胸に抱いていても、前に歩き出さねばならないのである。それは自由な選択の結果でもなく、義務でもなく、なにか地球の物理的な力学のような感じだ。
家族の誰かが旅立って行く時、残される者はしっかり立って見送らねばならないのだろう。その任務をこんな小さな直助でも助けていたのである〉
(『夫の後始末』より)
■夫婦は、違っていて当然
私たち夫婦は、60年以上一緒に暮らしてきましたが、趣味も好みも全然違っていました。私が旅行に出かけるときも、夫は「僕は行かない」と言うんですよ。
夫から見ればどうでもいいようなことに、いちいち大げさに反応する私を見て、彼は「バカな女房だ」と、猿でも眺めるみたいに面白がっていたものです。そんなふうに長年過ごしてきましたから、私は、「夫婦は、違っていていっこうに構わない」と思うんです。
ひとつだけ一致していたのは、「食べるのが好き」ということ。夫婦が二人とも食べることに興味がないと、うまくやっていくのは難しいかもしれませんね。
もっとも、私も夫も、グルメというわけではありません。料亭で出されるような上品な日本料理は苦手でした。
昔、(作家の)遠藤周作さんと料亭に招かれたとき、夫が帰りに玄関で靴ひもを結びながら、
「おい遠藤、ラーメン食って帰ろうや」
と大声で店の人に聞こえるように言うんですね(笑)。遠藤さんは「バカ、外に出てから言え」とたしなめていましたけれど。
庭の畑で育てた不格好なほうれん草でも、美味しければ喜んでいました。夫はいつも、「とれたての野菜は美味しいなあ」と言っていました。
■生きているうちに「後始末」を
私は夫が亡くなってから、家の中を片付けるのが趣味になりました。ガラガラになった部屋が、いまは子猫の運動場になっています。
夫には本を読む以外に趣味はありませんでしたし、生前から「後始末」を考えていましたから、片付けは楽なものです。世間には「終活」に悩まれている方が多いようですが、モノはどんどん捨てたほうがいい。さしあたり必要な寝間着だけ、残しておけばいいのです。
それと、財産の後始末も忘れてはいけませんね。銀行の通帳を一つにまとめておくとか、亡くなってからくだらないことで揉めないように、準備しておかないと。
夫の介護が長びくかもしれないと思って、私は今年の1月に自前で療養ベッドを買いました。しかし、その新しいベッドが届いた当日、夫は入院してしまいましたので一度も使いませんでした。皮肉なものですね。
今、そのベッドは私が使っていて、そこでマッサージを受けたりしています。脊柱管狭窄症なので、週に一度、麻酔のドクターに注射を打っていただいているんです。
この病気は、手術で治そうとすると、かえって悪化することもあるそうですから、麻酔のような「姑息な手段」だけでいいんです。その日一日を楽に生きられて、死ぬ日まで持てばいい。今さら、根治なんてしなくたっていいでしょう。背中が痛んでも、年をとっているのだから「道具が古くなってきた」と思えばいいじゃないですか。
■多分、これでよかった
私や夫にある程度死ぬ準備、心構えができていたのは、カトリックの教えを知っていたからだと思います。カトリックは、子どものときからいつも死について考えているんです。
あらゆるものは必ず死ぬ、つまり死を前提に生きている。ですから何歳で亡くなろうとも、死ぬその日まで満ち足りて暮らした、そんな人生が最良なんですね。ですから家族を幸せにすることは大切ですね。その点、夫も最後まで好きなことをした人生でしたから、多分、それでいいんです。
私自身の今後の生活について考えると、やはり体力のある限り「書き続ける」のが自然な気がします。美しいものや素晴らしい人生を生きるだれかを称える「記録者」でいたいのです。
あとは、私は好きなこともありますから、死ぬまで欲を持っていたいですね。欲といっても、きんぴらごぼうを作ってきれいなお皿によそえるような暮らしをしたい、という程度のものですが。
夫は他人に訓戒を垂れる人ではありませんでした。私も何ごとも拒まず、嫌いなものは少し遠ざけて生きられればいい。人生の流れに抗う部分と流される部分を、自分なりに決めて生きられれば、それでいいんです。
これからはなるべく家にものを増やさず、子猫のお母さんとして日々を過ごそうと思います。直助は人間の言葉がわかる猫なんです。
*曽野綾子(その・あやこ)
1931(昭和6)年東京都生まれ。作家。聖心女子大学英文科を卒業後、1954年に「遠来の客たち」で芥川賞候補となり、作家デビュー。『虚構の家』『神の汚れた手』『人間にとって成熟とは何か』など、ベストセラー多数。1995年から2005年まで日本財団会長を務め、国際協力・福祉事業に携わる。作家の三浦朱門氏とは1953(昭和28)年に結婚。以後、三浦氏が2017年2月3日に逝去するまで63年あまり連れ添う。
『週刊現代』2017年10月14・21日号より
◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
◇ 曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって そのとき、私は覚悟を決めたのです 『週刊現代』2016年9月24日・10月1日合併号
曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって そのとき、私は覚悟を決めたのです 『週刊現代』2016年9月24日・10月1日合併号
曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって そのとき、私は覚悟を決めたのです 週刊現代 講談社 毎週月曜日発売 いまや「自宅で介護を受けたい」と望む高齢......
...........