ついに崩壊した新聞と検察の共存共栄モデル/記事と事件が「造り上げ」られる仕組み

2010-11-27 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
ついに崩壊した新聞と検察の「共存共栄モデル」 歩調を揃えて「記事」と「事件」がつくり上げられる仕組み
JB PRESS 2010.11.26(Fri)
烏賀陽 弘道
 その後に尖閣ビデオの流出というでかい事件が起きたため、つい検証を忘れがちになるのだが、村木厚子・元厚生労働省局長の冤罪事件は、新聞社など日本の報道が長年崇めたてまつってきた「調査報道」にとって「死亡宣告」とも言える強烈なインパクトを持っている。
 つまり、「報道と検察の共存共栄モデル」の終焉である。
新聞社は「共存共栄モデル」にどっぷりとつかっている
 この共存共栄モデルが最初に姿を現したのは1989年の「リクルート事件」報道だ。それ以来21年続けてきた調査報道のメソッドが無力化されてしまったのだ。
 現場の記者だけでなく、新聞社の編集幹部たちは「次は一体何をすればいいのだ」と茫然自失に陥っていることだろう。もちろん、新聞だけではなく雑誌もそうだ。
 例えば、中小企業経営者福祉事業団(KSD)の古関忠男前理事長が政界工作を繰り広げて逮捕された「KSD事件」(2001年)という汚職事件があった。これは「週刊朝日」が端緒を発掘し、東京地検が立件した事件である。
 私がこの「日本マスコミ型調査報道の終焉」に感慨を深くしている理由は、実はとてもパーソナルなところにある。若い頃、自分がそこにいたのである。
 入社3年目の新米として愛知県岡崎支局にいたとき、東京社会部に呼ばれて3カ月間、リクルート事件取材班に入った。カバン1つで会社そばのビジネスホテルで暮らしながら、藤波孝生(故人)など自民党の政治家や財界人を、誇張や比喩ではなく、文字通り24時間追いかけ回していた。
 その時に26歳の若者だった私が今や47歳だ。朝日新聞社の同期入社(86年入社)組は本社デスクや支局長になっている。当時の先輩だった記者は経営幹部の地位にある。
 つまり新聞社の中は、上から下まで「リクルート事件に始まる共存共栄モデルが1面トップを飾る特ダネ」という環境の中で生きてきた人たちばかりなのだ。
新聞も検察も大義を達成し、共に社会的評価が上がる
 こうした「検察持ち込み型調査報道」の、どこが「共存共栄」なのか列挙してみよう(テレビ局の調査報道を検察が事件化した例を思いつかないので、便宜上主語を新聞社にする)。
(1)新聞社が手に入れた情報を調べて積み上げ、「事件」や「疑惑」として報道する(情報は記者がつかんでくることもあれば、タレ込みで向こうから来ることもある。村木事件は読者からの電話だった)。報道しないまま検察にネタを持ち込んで、記事化と事件化の歩調を揃えることもある。
(2)その「事件」や「疑惑」を検察(あるいは警察)が捜査する。逮捕して身柄を拘束、家宅捜索など強制捜査権で事件にしたあとは、検察が新しい情報を入手するので、新聞にとっては報道材料が増える。
(3)与党国会議員、知事、国家公務員、大企業経営者など「大物」が逮捕、あるいは起訴される。有罪判決を受ける。
(4)その影響で閣僚が辞職する。内閣が倒れる。
(5)検察は「巨悪を眠らせない」(1985年に検事総長に就任した伊藤栄樹の言葉)という組織の大義を達成する。
(6)新聞社は「社会的不正をただす」という組織の大義を達成する。
(7)両者とも政界・経済界への影響力を保持できる。
(8)両者とも社会的評価が上がる。
リクルート事件で記者に情報を求めてきた検察
 こうした一連の動きが「検察と新聞社の動きが別々に調査した結果、偶然一致しただけ」なら、まだ弁護のしようもあるのだが、実際はそうではない。
 検察担当記者(あるいはその経験者)と検察は、相互に人脈がある。なにせ21年もやっているので、かつてのヒラ記者&ヒラ検事もそれぞれの組織で幹部になっていたりする。
 私の経験でも、現場の記者が情報が取れずに難渋していると、なぜか会ったこともない編集委員から突然おいしい情報が降ってきたりした。
 リクルート事件で言えば、『ドキュメント リクルート報道』(朝日新聞社)という本にこんな場面がある。
 「特捜部の幹部がリクルートコスモス株の譲渡先リストを見せてほしい、と検察担当記者Mを通じて伝えてきた」「Mはロッキード事件の取材経験があるAに相談し、Aは結局それをMを通じて検察に渡した」と記されているのだ。
 この本、他ならぬ当事者の朝日新聞社会部が書いた本である。しかも、コスモス株の譲渡先リストを検察に渡した記者MとAの実名がはっきり記されている。
 新聞社が「検察への取材情報の提供は悪いこと」などとはまったく考えていなかったのは明白だ。むしろ、書籍にして記者の「功績」として誇る話という文脈で語られている。
記者の負担は少なく、気分もよろしい
 読者が今読むと、まったく驚くほかないだろうが、当時は「検察が欲しがるような情報を持っていること」は、記者にとってむしろ「大いなる勲章」だったのだ。おそらく今でもそうだろう。
 こうした「報道先行型」だと、自然に検察と報道のパワーバランスは「拮抗」に近くなっていく。
 検察が調査や捜査に着手する数カ月前、場合によっては1年以上も前から取材しているので、情報は手広く揃えておける。家宅捜査や逮捕など捜査機関でないとできないこと以外は、ほぼやり尽くしてしまうと言ってもいい。
 検察先行の事件の内部情報を教えてもらうとするより、ずっと心身の負担は軽い。睡眠時間や休日を削って疲労困憊しながら、岩場を爪でかくように検事や事務官から捜査情報を取ってくる必要がないからだ。
 事前に準備しておける。その情報をエサに検察と取引できる。検察官と対等になれて気分もよろしい。おまけに他社はノーマークの特ダネなら、紙面化したあとは独走状態で気分は最高だ(警察担当でも、こうした報道先行型なら関係は同じ)。
 こうした「共存共栄モデル」には、もう1つ忘れてはいけない相互利益がある。次回その話をする。
〈筆者プロフィール〉
 烏賀陽 弘道 Hiromichi Ugaya
1963年、京都市生まれ。1986年京都大学経済学部卒業。同年、朝日新聞社に入社。三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部を経て91年から2001年まで『アエラ』編集部記者。92年にコロンビア大学修士課程に自費留学。国際安全保障論(核戦略)で修士課程を修了。2003年に退社しフリーランスに。主な著書に『「朝日」ともあろうものが。』『カラオケ秘史』『Jポップとは何か』『Jポップの心象風景』などがある。
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