歴史が教える「脱原発」の危うさ~韓国を喜ばせる日本の「脱原発」渡部昇一 『Voice』2012/12/10

2013-04-20 | 政治

歴史が教える「脱原発」の危うさ―渡部昇一(上智大学名誉教授)
月刊誌『Voice』2012年12月10日発売号掲載
 ■岸信介のとてつもない功績
 2009年衆院選の大敗北から3年。一時期は存在感を失っていた自民党に再びスポットライトが当たっている。その中心にいるのが、安倍晋三氏だ。安倍氏がかつて行なおうとしながら成しえなかったこと。その後、日本政治を壊滅的な状況に陥れた民主党政治に言及しながら、歴史的な視点を踏まえ、新政権を待ち受ける難題を明らかにしてみたい。
 戦後、日本では長らく自民党政権が続いたが、なかでも重要な役割を担ったのは岸信介内閣だろう。当時、日米安全保障条約の改正をめぐって、国家がひっくり返るほどの混乱が生じた。津波のようなデモ隊が連日、国会議事堂に押し寄せるなかで、一歩も退くことなく、岸は安保改正を行なった。彼の構築した枠組みのなかでその後の日本の安全保障は担保された。その功績はとてつもなく大きい。
 岸は戦後、A級戦犯容疑となるが、不起訴となって公職追放される。公職追放は1952年に解除され、政界に復帰するが、じつはその直前、岸は西ドイツを訪問している。戦勝国のアメリカでなく西ドイツを選んだのが彼の政治センスの優れたところで、当時の西ドイツは奇跡的な復興を遂げていた。私は1955年に西ドイツに留学したが、このころの東京はバラックだらけで、大学寮も冬は外と同じくらい寒く、夏は外よりも暑かった。トイレ、洗面所は別の建物。雨の夜は大変だった。ところが西ドイツは街中が廃墟になったにもかかわらず、そのころは再建が進み、学生寮でさえセントラルヒーティングが行き渡っていたのだ。
 当時の西ドイツではアデナウアー初代連邦首相が圧倒的な支持を受けていて、私は知人の家を訪ねたとき、普及しはじめたばかりのテレビで彼の演説を聞いた。アデナウアーはこのとき、3つの方針を示した。「外交はアメリカと足並みを揃える」「共産主義とは妥協しない」「統制経済をやめて自由主義経済を採用する」。のちの岸首相も、アデナウアーとまったく同じ方針をとる。日米新安保条約を結び、共産主義とは相いれず、統制経済を次から次へと解除した。その枠組みのなかで、その後の池田内閣、佐藤内閣は復興に専心し、世界史の奇跡ともいわれるような経済復興を成し遂げ、日本は世界第二の経済大国に躍り出る。
 岸内閣の誕生から約半世紀。「戦後レジームからの脱却」を掲げて、岸の孫に当たる安倍晋三氏が首相に就任した。安倍氏はきわめて短期間で次々と新政策を打ち出した。2006年12月には改正教育基本法を成立させ、廃止された教育勅語に代わる愛国心や伝統の尊重といった道徳面の強化を謳った。2007年1月には防衛庁を防衛省に昇格させ、防衛のトップが閣議に加われるようにした。さらには集団的自衛権の行使について「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」をつくり、ほとんど実現寸前まで下地をつくったが、残念ながらその報告を目前にして、病気による退陣を余儀なくされた。
 そのあとを継いだ2人の首相は、安倍氏の路線を継承しなかった。福田康夫氏は安倍氏が取りまとめた「安保懇」の報告を棚上げにした。麻生太郎氏には期待したが、2008年に起こったリーマン・ショックの影響か、関心が経済だけに向かってしまったようにみえる。
 しかも麻生氏は中山成彬国土交通大臣(当時)が「日教組は教育のガン」と批判をするや、それを庇うことなく辞任させた。当時の中山氏にとっては管轄外だったかもしれないが、中山氏は文部科学大臣経験者だから、日教組を批判して少しもおかしくない。さらに田母神俊雄航空幕僚長(当時)が「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」とする論文を発表したときも、メディアの追及を恐れて浜田靖一防衛大臣は彼を航空幕僚長の職から解き、一自衛隊員に降格させたうえで60歳定年を適用して退官させた。
 残念なことにこうした出来事によって自民党のコアな保守層は麻生政権を見放した。さらに靖国参拝を行なわなかったことがとどめを刺し、2009年の総選挙で自民党は惨敗。岸が守ってきた価値を当時の自民党は放棄してしまった。ある意味で、敗北は必然だったともいえるだろう。
 ■東シナ海を「友愛の海」といった鳩山首相
 国民の大きな期待を背負って船出した民主党政権だが、メンバーにはかつて左翼運動を行なっていた人たちが少なくなかった。当時の私は教員のなかで最も若い世代として彼らに対峙したが、その主張でとくに許せなかったのは、産学協同への反対である。「工学部は会社に協力するな」といった具合だ。大学が会社に協力すれば会社が栄える。会社が栄えれば資本主義が栄える。それを防ぐ、というのが理屈だった。
 やがて中国の文化大革命の大失敗やソ連の崩壊とともに共産主義は滅び、以後、彼らは市民運動に転じる。市民運動の特徴は「国民」という言葉を嫌うことで、「国」といわないところに左翼の志を込めている。そうした人たちが日本の政治を担ったのだ。初代の鳩山由紀夫首相は「日本列島は日本人だけのものではない」と語り、中国との軋轢が増す東シナ海を「友愛の海」といった。さらには決定事項であった普天間基地移設をめぐって混乱を招き、「日米間に亀裂が生じた」というメッセージを諸外国に送った。それがロシアのメドベージェフ大統領(当時)による北方領土訪問、韓国の竹島の武装強化、中国の東シナ海へのさらなる進出を呼び込んだのである。
 次の菅直人首相はさらにひどかった。「国籍は日本だが忠誠心は朝鮮半島にあるのではないか」と思えたほどだ。そもそも民主党は2009年衆院選の際、在日の人たちをフル動員し、政権奪取後には「在日のみなさんのおかげで当選することができました」と述べる議員すら現れた。菅氏も自身の資金管理団体「草志会」が北朝鮮とつながりがあるとみられる政治団体「政権交代をめざす市民の会」に政治献金をしていた問題で、その献金の原資が税金から出ていたことがわかり、国会で追及がされようとしたまさにそのとき、東日本大震災、福島第一原発事故が起こったのだ。
 そこで菅氏は浜岡原発の停止をはじめとして、数々の悪しき判断を行なうが、そもそも浜岡原発を緊急停止する必要がどこまであったのか。事故が起きた福島原発は日本の原発としてはいちばん古いタイプだが、それですら、地震そのものによる破損はなかった。事故は津波によって起こったのだ。そうした菅内閣の誤れる判断の結果、いま日本は領土問題と同様、いやそれ以上の危機に直面している、といってもよい。どういうことか。
 ■放射線で死亡した人は1人もいない
 そもそも福島第一原発事故による放射線で死亡した人は1人もいない。放射線の患者も報告されていない。被害者は強制的に避難させられたストレスや過労などが原因だ。高齢者や病人を無理やり動かした結果、死者まで出すことになったのである。あとでわかったことだが放射線医学の権威によれば、放出された放射線量の最も多い地域でさえ、人体に影響を与えるほどではなかったという。
 そもそも放射線による被害を考えるなら、広島の被害を参考にすべきではないだろうか。当時の放射線量率は福島原発事故の1700万倍に達するともいわれる。ただし、死因の大半は焼死。原爆のものすごい高熱で焼け死んだのだ。あるいは建物の倒壊によるもので、これらに比べると、放射線で亡くなった人の数は非常に少ない。
 遺伝についても、その後、世界的な遺伝学の権威たちが何十年にもわたる追跡調査を行なっているが、被害に遭わなかった周囲の県よりも、むしろ広島県民は長命である。奇形児の発生もとくにない。被爆で大変なやけどを負い、その後の治療で回復して被爆者の男性と結婚し、5人の子供を産んだ女性がいるが、その5人にも、5人の子供の17人にも、1人も異常児はいないという報告がある。
 1986年にチェルノブイリで起きた原発事故では、爆発を無理やり抑え込もうとした操作員や消火活動にあたった消防士ら数十人が死亡し、さらに消火後の清掃作業にあたった労働者も亡くなっている。いずれも十分な保護具を与えられなかったからだ。その後、日本財団が行なった追跡調査によると、最も放射線の影響を受けやすい甲状腺がんにかかった人は約60人いて、そのうち亡くなったのは15人。白血病で亡くなった人も1人いたが、20年以上も調べれば、どんな地域でもこれぐらいの死者は出るだろう。
 もともと「放射線が遺伝に影響を及ぼす」という報告は、アメリカのマラーという遺伝学者が行なったものである。1927年の発表で、ショウジョウバエのオスに放射線を浴びせたところ、大量の奇形が生まれた。だが1950年代にDNAが発見されると、人間の細胞は宇宙線や放射線、活性酸素などによって障害を受けるが、修復酵素によってすぐに修復されることが判明した。しかしショウジョウバエのオスの精子は修復酵素をもたない例外的なものだった。だから精子が影響を受けてしまうのだ。そのショウジョウバエのオスで実験を行なったため、大量の奇形が生まれたのである。
 ■韓国を喜ばせる日本の「脱原発」
 そうした事実を菅氏は無視して「脱原発」を打ち出した。不足する電力はメガソーラーで賄うともいうが、アメリカですら実現できていない太陽光発電を国土の狭い日本でどう行なうのか。山手線内の2倍の面積のメガソーラーを設置しても、浜岡原発1基分ほどの電力しか賄えないという。それも太陽が照っていればの話だ。しかもソーラーの下の大地は不毛の地となる。日本の土地がもったいなくないか。
 日本の「脱原発」で喜んだのは誰か。ほかならぬ朝鮮半島の一国である韓国である。韓国は国策として原発の輸出を推進しているが、その裏には軽電機メーカーとしてのサムスンの行き詰まりが見え隠れする。軽電機は技術の転化が比較的容易で、今後、人件費の安い国がサムスンに代わって台頭してくる可能性が高い。一方で、重電機の技術転化は簡単ではない。日本は戦前から続く重電機の歴史をもっているが、重電機の最たるものが原発だ。日本が脱原発に向かえば、日本の学生は原発という進路がなくなり、研究者にも勢いが失われる。働いている人も将来が見えなくなり、事実、すでに東京電力の原発関係者の引き抜きが始まっているという。
 しかし、日本が仮に脱原発を選択したとしても、現時点で代替エネルギーは火力しかない。他の電力は合わせても10%程度で、しかもそのうち9%は水力。風力など他のエネルギーは微々たるもので、ものになるまでに何十年かかるかわからない。日本海にはメタンハイドレートがあるともいわれるが、こちらも実用化までの見通しは不明だ。
 火力発電の燃料は石油か天然ガス。いずれも日本にはあまりない資源だ。それらを日本は外国から買い続けなければならない。目下の基調は円高だが、もし大幅に為替が円安に振れれば、日本は恒常的に巨額の貿易赤字を出す国になりかねない。脱原発を宣言すれば、そこにつけ込み法外な金額を請求されないとも限らないだろう。そうしたことが5年続けば日本の産業はもう、立ち行かなくなる。工業だけではない。農業のハウスやトラックにしろ、石油がなければやっていけないからである。
 ■先の大戦の原因もエネルギーだった
 エネルギー問題が国家戦略においていかに重要か。そうした認識が菅氏にはまったくなかったといってよい。歴史を遡れば、先の大戦で日本が敗戦に至る原因も、すべてはエネルギーに拠る、といえるだろう。
 そもそも産業革命はイギリス人が石炭の利用法を発見し、蒸気機関をつくったことに始まる。これによって鉄鋼業でも鉄が大量につくれるようになった。その象徴が黒船で、日本も明治以降は石炭の使い方を覚え、一方で石炭の輸出国ともなる。日露戦争以後は戦艦も日本でつくるようになり、石炭全盛の時代となるが、日露戦争からわずか10年後の第一次大戦によって、事情は一変する。
 当時、第一次大戦を見に行った観戦武官は、戦争が石炭から石油の時代へと移り変わったことを知る。戦艦はもちろん、地上でも騎兵は消えて石油で動く戦車になり、さらに第一次大戦で登場する飛行機の燃料もすべて石油だ。これを知った当時の日本の軍人たちは、日本が戦争で勝てない国になった、と悟った。
 陸軍と海軍でも、危機感には違いがあった。当時の陸軍は20個師団ほどしかなかった兵を4個師団も減らし、余った予算で機関銃部隊をつくっている。アメリカを仮想敵国としていない陸軍に石油問題がピンときていた節はなく、彼らは体制づくりに力を注いだ。これが統制派といわれるグループで、日本を総力戦のできる国家体制にしようと計画した。一方ではひたすら愛国心を鍛えよ、という精神論に左翼が結びついて皇道派や青年将校が生まれた。彼らによって2・26事件が起こり、統制派は黙って天下を取ったのである。その後、敗戦に至るまでの日本は、山本七平氏の言葉によると「陸軍に占領されたような国」になる。
 一方の海軍は石油に敏感で、そこから軍縮会議にも賛成し、中近東の油田を握るイギリスや、カリフォルニアから石油が出るアメリカと妥協しようと考える。これが条約派である。ただし、石油よりも大砲の大きさばかりに関心を向ける艦隊派もいて、彼らは英米を敵に回して独伊と結ぶことを考える。マスコミが支持したのは「戦えば勝つ」と主張する艦隊派で、そこから日独伊による三国同盟が結ばれる。
 とはいえ石油がなければ、戦艦を動かすことはできない。そこで日本は石油が出るスマトラのパレンバンの占領を考える。そのためには、アメリカが出てくるのを防がなければならない。ならばハワイの真珠湾を叩こう、という発想が生まれたのだ。
 いまにして思えば、あのとき山本五十六連合艦隊司令長官が機動部隊の南雲忠一司令官に「重油タンクだけ爆撃せよ」と命じていれば、戦局は大きく変わっただろう。戦後に出版されたアメリカのニミッツ太平洋艦隊司令長官の回顧録によると、ハワイの重油タンクと海軍工廠を爆撃されていれば、アメリカの船は半年間、太平洋で動けなかったという。その場合、1942年4月のドーリットル爆撃隊による東京空襲も、同年6月のミッドウェー海戦もなかっただろう。
 ドーリットルによる東京空襲の前に、日本の機動部隊はインド洋海戦でイギリスの航空母艦ハーミスを沈め、その前にはイギリスの東洋艦隊を全滅させている。当時の日本の急降下爆撃の命中率は90%を超え、一方で日本船は1隻も沈まなかった。意気揚々で帰途に向かったところ、東京空襲の報を受け、そこから歯車が狂いだすのだ。
 日本がハワイの重油タンクと海軍工廠を壊していれば、アメリカとの引き分けに持ち込むのが可能だったというアメリカ側の説もある。それほどエネルギーは重要で、そもそも日本が戦争を始めたのは、このままでは海軍の石油が7カ月くらいしか持たない、とわかったからである。それが毎日減っていく。半年後には軍艦を動かせないことがはっきりしているのに、アメリカは絶対に妥協しない、ということをハル・ノートで理解した。だからアメリカとの戦争に踏み切ったのだ。
 ■問われる新総理の国家観と歴史観
 先の大戦でアメリカに大敗した日本がその後復活するのは、中東地区で奇跡といえるほどの豊富な石油が出たからである。安い石油をエネルギーにして高度成長が訪れるが、1973年の第一次オイルショック、1979年の第二次オイルショックを経て、石油に依存したままでは危ない、と日本は気付き、原子力へと舵を切る。
 現在、日本の原発技術は世界最先端だが、高速増殖炉「もんじゅ」までを視野に入れていたのは慧眼というべきだろう。「もんじゅ」が完成すれば、日本のエネルギー問題は500年、1000年単位で解決する。いまでも高速増殖炉の開発を続けているのは日本、ロシア、中国、インドぐらいで、今後も日本が開発を継続させれば、それだけで世界中の最高の原子力科学者が日本に集まってくる。そうした高速増殖炉を世界に輸出すれば、中国のように資源漁りをする必要もなくなる。ほんとうに地球に優しいクリーンエネルギーが生まれるのだ。
 鳩山氏は首相になるやCO2の排出量を25%削減すると国際公約したが、これは原発の稼働を近い将来に50%にすることを前提としている。それをゼロにするなら排出量は25%削減どころか、増えるしかないだろう。
 今回の総選挙で自民党は「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立をめざす」「10年以内に持続可能な電源構成を確立する」と慎重な言い回しに終始したが、国家の雌雄を決するエネルギー問題に新政権はいかに対処するのか。問われているのは新しい総理の国家観、そして歴史観である。
 それはとりもなおさず、エネルギーをどうするかにかかっているのだ。毎年、何兆円ものムダ金を燃料代に使って平気な人は、政治家の資格がないと断定してよいだろう。
 * 渡辺昇一(上智大学名誉教授):1930年、山形県生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オックスフォード大学に留学。Dr.phil.、Dr.phil.h.c.(専攻は英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に、『知的生活の方法』(講談社現代新書)、『知的余生の方法』(新潮新書)ほか多数。
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民主政権は“日教組政権”だ 対談「中山成彬氏×伊藤玲子氏」 『WiLL』7月号/2009年 2013-03-25 | 読書 
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 『アメリカに潰された政治家たち』孫崎亨著(小学館刊)2012年9月29日初版第1刷発行 
*序章  官邸デモの本当の敵
1960年安保闘争との違い
p13~
 60年安保闘争と現在の野田政権打倒デモは、反政府デモという意味では同じですが、中身はまったく異なります。
 60年安保闘争では、運動に参加している人たちは日米安保条約の条文など読んでおらず、冷戦下の世界情勢のなかでどのような意味をもつのかも理解していませんでした。運動は組織化され、学生は主催者が用意したバスに乗り込み、労働者は労働組合の一員として参加し、女子学生が亡くなったことで激化しました。
 安保闘争の初期は新聞等のマスメディアも運動を支持していましたが、1960年6月17日、朝日、讀売、毎日等新聞7社が「その理由のいかんを問わず、暴力をもちいて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」という異例と言える「新聞7社共同宣言」を出すと、運動は一気に萎んでいったのです。
 
*第1章 岸信介と安保闘争の真相
 1.安保闘争神話の大ウソ
「岸信介=対米追随」の誤り
p21~
 しかし、これほどの反対運動にもかかわらず、5月20日未明に衆議員で強行採決された新安保条約案は、参議院の議決がないまま6月19日に自然成立し、批准を阻止することは出来ませんでした。
 一方で、この混乱の責任を取って岸信介内閣は7月15日に総辞職します。この運動は、もともとは日米安保改正阻止から始まりました。しかし、運動が盛り上がっていく過程で徐々に、A級戦犯として訴追されながら政界へ復帰し、“昭和の妖怪”とまで呼ばれた岸信介の政権を打倒することへ目的が変質していきました。そのため、岸内閣の退陣により、ある種の達成感が生まれ、急速に運動は萎んでいくのです。
p34~
 岸は安保改定の交渉を進めるため、まずマッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)と会談し、次のような考えを述べます。
 「駐留米軍の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地を、日本に返還することなども提案した。
 さらに岸は10年後には沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行った」(『岸信介証言録』)
 在日米軍の削減だけでなく、沖縄・小笠原諸島の返還にまで踏み込んでいるのです。
 同年6月には訪米し、ダレス国務長官に次の点を主張します。
 「抽象的には日米対等といいながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか」(同前)
 岸の強い態度に今度は逃げられないと思ったのでしょうか。ダレスは「旧安保条約を新しい観点から再検討すること」に同意します。
p40~
 もう一つの謎は、財界のトップから資金が出ていることです。なぜ学生運動に財界が手を貸したのでしょうか。
 実際に財界から資金提供を受けたと証言しているのが元全学連中央執行委員の篠原原浩一郎で、『60年安保 6人の証言』でこう述べています。
 「財界人は財界人で秘密グループを作っていまして、今里広記・日本精工会長さんたちが、とにかく岸さんではダメだということで岸を降ろすという勢いになっていたんですね。(略)」
 財界は、学生たちの純粋な情熱を、“岸降ろし”に利用したということです。
p41~
 ここで私が注目するのは、中山素平と今里広記の2人です。彼らは経済同友会の創設当初からの中心メンバーですが、(略)
 経済同友会といえば池田勇人の首相時代を支えた財界四天王のひとり、フジテレビ初代社長の水野成夫も経済同友会で幹事を担っていました。池田勇人は大蔵官僚出身で石橋政権時代から岸内閣でも大蔵相だったこともあり、財界とは密接な関係を築いていました。
 国際政治という視点から見れば、CIAが他国の学生運動や人権団体、NGOなどに資金やノウハウを提供して、反米政権を転覆させるのはよくあることです。“工作”の基本と言ってもよく、大規模デモではまずCIAの関与を疑ってみる必要があります。
 1979年のイラン革命、2000年ごろから旧共産圏で起きたカラー革命、アメリカから生まれたソーシャルメディアを利用したつい最近のアラブの春など、アメリカの関与を疑わざるを得ない例はいくらでもあります。
岸政権打倒のシナリオ
p42~
 確証がある訳ではありませんが、私が考えた1番ありうるシナリオは、次のものです。
1、岸首相の自主自立路線に気づき、危惧した米軍およびCIA関係者が、政界工作を行って岸政権を倒そうとした。
2、ところが、岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった。
3、そこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよくもちいられる反政府デモ後押しの手法を使った。
p43~
4、ところが、6月15日のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相の退陣の見通しも立ったこともあり、翌16日からはデモを抑え込む方向で動いた。
 安保闘争がピークに達した6月17日に、一斉に「暴力を排し議会主義を守れ」と「7社共同宣言」を出した新聞7社も、当然のことながらアメリカの支配下にあったことは疑いようがありません。(略)
 岸が軽く見ていた60年安保闘争は、外部からの資金供給によって予想以上の盛り上がりを見せ、岸はそれに足をすくわれることになりました。
 岸の望んだ形ではなかったかもしれませんが、それでもこの時締結された新安保条約は、旧安保条約に比べて優れている点がいくつかあります。
p44~
 一方で、安保条約と同時に、日米行政協定は日米地位協定へと名称を変えて締結されましたが、「米軍が治外法権を持ち、日本国内で基地を自由使用する」という実態は、ほとんど変わっていません。岸が本当に手をつけたかった行政協定には、ほとんど切り込めず、しかもその後50年にわたって放置されてきたのです。
 いわば60年安安保闘争は、岸ら自主路線の政治家が、吉田茂の流れを汲む対米追随路線の政治家とアメリカの反政府デモ拡大工作によって失脚させられ、占領時代と大差ない対米従属の体制がその後の日本の歴史にセットされた事件だったといえるのではないでしょうか。
 しかし、岸は改定された安保条約に、将来の日本が自主自立を選べるような条項をしっかりと組み込んでいました。
p45~
 60年安保改定で、安保条約は10年を過ぎれば、1年間の事前通告で一方的に破棄できるようになったのです。自動継続を絶ち、一度破棄すれば、条約に付随する日米地位協定も破棄されることになります。おそらくここには自主路線の外務官僚も一枚かんでいたのでしょう。必要であれば、再交渉して新たな日米安保条約を締結し直せばいいわけです。(略)
 岸はこう述べています。
 「政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです」(『岸信介証言録』)
p46~
 2.岸信介とCIAの暗闘
CIAは岸を警戒していた
 岸という人は、これまで世間ではまったく誤解されてきましたが、アメリカからの自立を真剣に考えた人でした。アメリカを信用させ、利用しながら、時期を見計らって反旗を翻し、自主自立を勝ち取るという戦略に挑みました。その意志に気づいたアメリカ側は、「岸降ろし」を画策し始めます。
 では、日本が安保闘争で揺れていた時代、アメリカ側では何が起きていたのでしょうか。今日では、さまざまな資料から、当時のアメリカの様子が窺えるようになっています。
 岸が第1に採った戦略は、アイゼンハワー大統領と直接的な関係を築くことでした。
p47~
 岸は1957年6月に訪米して、アイゼンハワー大統領を表敬訪問しています。ここでアイゼンハワーは岸をゴルフに誘います。ダレス国務長官はゴルフをやりません。このときの様子を岸はこう述べています。
 「ワシントンのヴァ―ニングトリーという女人禁制のゴルフ場にいったのです。プレーのあと、ロッカーで着替えをすることになって、レディを入れないから、みな真っ裸だ。真っ裸になってふたりで差し向かいでシャワーを浴びながら、話をしたけれど、これぞ男のつきあいだよ」(『岸信介の回想』)
 こういった裸のつきあいは外交上でも大きな意味をもちます。このゴルフ以降、岸は大統領との直接的なつながりをもち、非常に親密な関係を築くことに成功しました。
 それまで、日米関係はダレス国務長官が牛耳っていましたが、岸がアイゼンハワーと数時間の間でもダレス抜きで直接言葉を交わし、個人的な関係でつながったので、それ以降、ダレスは岸にあまり強く切り込めなくなったのです。現実の外交の現場では、こうした人間的なファクターが影響することは、意外に多いものなのです。
 しかし、いくら大統領の支持を得て、CIAから資金提供を受けていようとも、、徐々にアメリカ側は岸の真意に気づき始めます。期待を裏切って、対米自主路線を突き進む岸に対して、アメリカは慌てます。その様子が当時のさまざまな記録から見えてきます。
p51~
「中国との関係改善」は虎の尾
 しかし、なぜ岸はこれほどアメリカから警戒され、嫌われたのでしょうか。
 実はアメリカの“虎の尾”は、「在日米軍の撤退」以外にもう1つあります。「日本と中国の関係改善」です。
 日米戦争が勃発したのは、日本が中国大陸に侵攻して利権を独り占めにしようとしたことが1つの原因です。第2次大戦が終結した後、中国は共産主義国になり、ソ連と国交を結んでしまったために、結局、アメリカは中国に手を出せなかったのです。日本にとって中国は隣国なので、日本国内には常に中国との関係改善をめざし、利益を得ようとするベクトルが存在します。
 しかし、アメリカは中国を潜在的なライバルとみなしており、中国が共産主義的な色彩を帯びたときは封じ込めようとし、軍事力が強くなれば対抗しようとしてきました。
p52~
 中国をめぐっては、日米対立が起きやすい構造があるのです。
p53~
 それでも岸は、中国との関係改善に突き進みます。1957年7月、岸内閣は「中国への貿易を規制する中国特別措置を遵守することはできない」と表明。翌年3月には、中国との間で「第4次日中民間協定」を結び、民間通商代表部の設置に合意します。日中貿易の拡大に進み始めるのです。
p54~
 対米追従路線の池田首相でも、対中国の関係改善を図ろうとすると、アメリカの逆鱗に触れてしまうのです。中国問題で、日本が独自に先行することはアメリカにとっては許しがたい行為なのです。
p55~
 「在日米軍の削減」と「中国との関係改善」という2つの“虎の尾”を踏んだ岸に対しては、アメリカが総攻撃をかけて、政権の座から引きずり下ろしたということが、これで納得いただけるのではないでしょうか。
 第2章で詳しく述べますが、田中角栄が失脚させられたのも、アメリカを出し抜いて日中国交正常化を実現したことが1つの原因でした。鳩山由紀夫首相も「東アジア共同体構想」で中国重視の姿勢を示していました。
 中国問題が相変わらずアメリカの“虎の尾”であることは、現代においてもなんら変わっていないのです。
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