勝田清孝が天に召されて22年 2022.11.30.

2022-11-30 | 死刑/重刑/生命犯

〈来栖の独白〉2022.11.30.Wed.

 本日は、勝田清孝が天に召されて22年の日。
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* 清孝が死刑執行されたとき、私はこの曲を弾いていた。


* 『落葉帰根』 『113号事件 勝田清孝の真実』

『落葉帰根』水上勉著 昭和54年11月20日発行 小沢書店

  

p254~
 八十五で死んだ父は、このさんまい谷ではないが、阿弥陀堂向こうのもう一つの埋葬地で、埋められていて、私も棺をかついだので知っているのだが(戦争でみな招集をうけたものの死にもせず、帰ってきた男兄弟4人で担いだ)、埋めにゆくと、先にきた穴掘り当番の爺さまが、酒で眼のふちを赤くしていて、
「ばばさまの埋まらっしゃるとこをさがしあてて掘ったがのう」
 といった。そういってからスコップの先で、いまさっき赤土をもりあげた端っこの方を示すのだった。骸骨の頭が一つころげていて、ひっこんだ眼窩や鼻骨を鮮明にのこして、口をあけていた。父の母、私の祖母の頭だった。老爺は昔の人ゆえ、埋め場所をおぼえていて、子が死んだのだからそのあとへ埋めてやろうといい、これが穴掘りの心つくしだった。祖母は盲目だった。私が4歳の時に死んだが、その時の埋め場所をおぼえていた人の手で、父は同じ穴へ埋められたのである。陽にさらされたシャレコーベをスコップでころがして、老爺は父の棺の上に置いてから土をかぶせた。私にそれが、祖母のものであるかどうか、多少の疑心は生じたものの、老爺の涙ぐんだ顔を見ていて心がなごんだ。土葬ならこその温かみかと思った。
「だいいち、土の中へね、ちょっと・・・」
 中野さんのことばの尻がのこっていた。それが思いだされたりした。死んで、また、せまい棺に入れられ、そのまま、土へいけられる。その冷たさと、それから、死体がそこで、くさり(p255~)はてるまで残る、そういう世の中への執念ぶりが、中野さんにはいたたまれなく思われるのもこの詩人の感覚でもあり見識だろう。しかし、土葬ならこそ、死んだ盲母にも会える、八十五歳の子の楽しみもありはしないか。もっとも、これは、棺をかついでいる生き身の私の感懐だった。ふと、それでは、旅の途中、どこかでこと切れ、死んだまま、村のさんまいまで運ばれる私の厄介さを思ったら、中野さんが焼かれた方が手っ取り早くて身軽さ、といわれたのにかたむく気持があった。
 いずれにしても、私はやがて死ぬのであった。どこでその日を迎えるかしらぬが、もどる場所は慧能流に考えてこの六十三戸のならいちおう、林左衛門さんが乞食谷とよんだ谷のとば口がふさわしいかとふと思う。
 六祖慧能は、こんなことをいった。
「葉は落ちて根に帰す」
「夫れ物は芸々(うんうん)たるも、冬にその根に復帰す。根に帰るを静と曰う。これを命に復すると謂う。命に復するを常と曰い、常を知るを明と曰う」
 あとは老子のことばである。芸々は草木の繁茂するけしきだろう。根は地中にあって見えぬが、わが古屋敷でも繁茂のエネルギーは、根から生じることは明らかと思えた。
 あとは老子のいったようなことを慧能もいったかどうか、知らぬにしても、ふと本来無一物をいた、身心の空虚を悟った人のことばが毛穴をふるわせて沁みたのである。
 わが生れた家跡は、蛇いちごの繁茂する、乞食谷の近くのもう一つの谷のとば口にある。わずか三十坪。日がな竹の葉ずれの中で草がゆれて、かげっている。福井県大飯郡本郷村大字岡田区9号の三番地。戸籍抄本にある、その家跡の景色だ。(~256p)


『113号事件 勝田清孝の真実』

  

p279~
 やがて細い道に入り、坂道を登ると、分校や駄菓子屋も現れた。清孝少年が小学校2年生まで通った分校であり、建物は替わっているようだが、親から貰った5円玉で菓子を買いに走った駄菓子屋である。
 と、すぐに、「ここですよ」と車が停まる。勝田家が、そこにあった。運転手に、待っていてくれるように頼んで、私は車を下りた。
 レンガ色の屋根の二階家で、農家という感じではなく、町のサラリーマンか何かの家庭を想わせる。高校生の時、勝田は二階を自室にし、のちに夫婦でこの家に帰ってからは、両親の新築してくれた離れに生活した。
 名古屋地裁一審判決文は、次のように言う。

〈被告人の身上経歴等〉より
 こうして、殺人の回数が増えるに連れ、内心の苦悩は更に重くのしかかり、それを忘れるため毎晩のように飲み歩く生活は少しも変わらなかっただけでなく、物欲と虚栄心を満足させるための出費は限りなく増大を続け、同年5月には12万円を掛けて自宅に高さ20メートルの無線アンテナを建て、翌年4月には外車(フォード・マーキュリークーガー)を購入し、ゴルフや競馬も始め、アマチュア無線の大会に頻繁に参加するなど周囲も目を見張る派手な生活ぶりであったが、非行の再発を心配する両親の弱みに付け入り---。

 山あいの静かな村であった。春の陽が明るい。私の耳に、前月(3月)勝田の父親次郎氏から届いた手紙の一節が聞こえるようだった。
「一〇年前のあの辛く苦しかったことは、忘れたい。このような愚息を育てた責を痛感・・・」と胸中が認められてあった。「生まれ育った故郷を捨て、夫婦で異郷に暮らしている」とも書かれていた。
 私は、このK山の住所宛で次郎氏に書信を差し出したのだった。それを、おそらくは郵便局が次郎氏に転送してくれて、次郎氏からの返信を受け取ることができたのであろう。差出人(次郎氏)の住所も、K山のここの住所が記されていた。
 葉は落ちて根に帰る---「落葉帰根」は、六祖慧能の言葉であるが、老いて家郷をあとにした夫婦を想い、そして、「山の中でも、ええ、河原でも、ええ。京都で逝ってくれ」と声かけて田吾作を見送るかも知れぬ死刑囚の行く末を思えば、私は、無人の庭に独り胸を詰まらせないわけにはいかなかった。
 勝田死刑囚は自らの根っこを、手記に次のように記す。

 私は、その木津町から東へ約2キロ山間に進んだ鹿背山という場所で、専業農家の長男として生まれました。昭和23年8月の生まれですから、もう40歳になろうとしています。
  鹿背山地区は、150戸ほどの農家が肩を寄せ合う小さな山村です。重畳する山々のため、日の出が遅く日没の早い村でした。昼間でも森閑とし、町からわずか2キロなのに、幼いころの私には、この村がたいへんな僻地にあるように思われたものでした。

 主のいない庭に、それでも春は訪れて、草がやわらかな芽を吹いていた。無線のアンテナは取り払われていたが、物干し台の置かれてあるのはかつてのままのようで、雨戸はすべて閉じられ、2階にすだれが微かに揺れていた。
 村に満ちる静寂と勝田家を襲う緩慢な荒廃のなかで、私の感傷は湧き、揺すぶられるようだった。
 死刑囚は、手記に続ける。

 裏山に立つと視界が開けます。
  西の彼方はるかに、重畳する山稜の中でもひときわ聳える山が見えます。生駒山です。うすづく空にくっきり山容を形つくっていました。右手眼下には、平地を扼する木津川が眺望できます。
 木津川は蛇がぬめるごとくの姿で、隣町との界線を描き、北の遠くに「く」の字とぼやけます。

 導かれるように勝田家の裏山に立てば、木津の町は一望できるのだった。K高校も消防署も駅も、まるで一枚の絵に収まってしまうのだった。
「あっちの方に学園都市の建設が進んでいます」と、並んで立った運転手は指さし説明してくれたが、その新しい息吹の傍らで、いにしえの奈良に似た懐かしさ、長閑さを、私は煙ったような景色のなかに感じていた。
 この日、帰りのタクシーを私は木津駅の手前(3~400メートルほど手前になるだろうか)で下りている。そこは、木津町役場や木津警察署、山城木津郵便局、それに清孝少年の通ったキリスト教系の保育園がそれぞれ目と鼻の先の位置にあり、そこから木津駅まで商店街が続いているのだった。いずれも、裏山から眺めた絵のなかに、すっぽりと入ってしまうものである。
「勝田さん、この町では、無理です。この町では、生きてゆけない。あなたが盗みを働き逮捕された警察署、退学となった高校、そしてそれら凶状を総て知っていたでしょう、この小さな町。ここで公務員として生きてゆくなど、気の弱い、神経の細いあなたには出来はしない…」(~p282)


 
 
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2022年11月30日(水曜日)

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