「民法大改正で喜ぶのは、学者と法律関係の出版社、弁護士だけ」後藤昌弘弁護士/ 『官僚の責任』古賀茂明著

2011-09-05 | 後藤昌弘弁護士

中日新聞を読んで 「民法大改正という問題」後藤昌弘(弁護士)
2011/09/04 Sun.
 3.11の大震災以来、最近では菅直人首相の退陣まで、紙面は大きなニュースに事欠かないが、将来大きな影響を与えるはずなのにほとんど報じられない事態が今水面下で進行している。それは、民法の大改正である。
 数年前から法務省で民法の債権法の改正が検討されている。既にパブリックコメントの手続きも終わり、来年あたりには具体的な改正案が発表されるかもしれない。しかし、なぜ今改正する必要があるのか理解できない。
 弁護士を30年あまりしているが、債権法全面改正の必要を感じたことは1度もないし、金融機関などの依頼者からも、そんな声は全く聞かない。必要なら部分改正で足ることである。
 民法、特に債権法は社会の基礎である。庶民でもクレジット・住宅ローン程度の契約書は経験する。企業ならば取り交わす契約書の量は膨大である。こうした契約書について、債権法が変われば全面的な見直しが必要となる。コストは莫大なものになるだろう。しかも、広告費などと違い、これは管理費であり、売り上げなど少しも全く貢献しない。完全に無駄なコスト負担を押しつけられることになるのである。
 債権法の改正で喜ぶ人は、本の売れる学者と法律関係の出版社、そして契約書の見直しで仕事の増える弁護士だけではないだろうか。官僚も、仕事が増えて人員増が見込めて、あるいは歓迎するのかもしれない。しかし、大多数の市民・企業にとっては、何のメリットもなく思われる。
 今、円高で経済は低迷している。震災の復興も必要である。推進論者は、判例理論を取り込むなど民法を分かりやすいものにするのだという。しかし条文数は今の約千条の数倍になると予想されている。大量の条文の理解は市民の大きな負担ともなる。1部の学者や官僚の手柄作りに国民が巻き込まれるとすれば問題ではないだろうか。広く論議を望みたい。

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)

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〈来栖の独白〉
 民法大改正は恐らく官僚の「仕事増やし・人員増」が主たる目的だろう。3.11で、相当「仕事」は増え、「天下り先」も増えたと思うが。
 古賀茂明著『官僚の責任』〈権限争議という無益な争い〉に、以下のようなことが書かれてある。
p67~
 権限争議と呼ばれるものがある。ひと言でいえば、省の縄張り争いだ。省の境界線上で、どちらが陣地を広げるかという争いである。ちょうど私が入省したころ、唖然とした記憶がある。
「次世代基盤技術研究開発制度」なるものを、通産省が創設すると発表した時のことだった。戦後、欧米先進諸国に追いつけ追い越せでやってきた結果、日本の科学技術は世界トップレベルになった。そこで、「これからはモノマネではなく、創造的な技術開発をしなければならない」との観点から--もっともこれは、いまもずーっといいつづけていることなのだが--具体化した構想だった。
 じつは、それまでこうした基礎研究は科学技術庁が担い、通産省は技術の商業化を推進するという役割分担がなされていたのだが、時代が基礎研究重視という流れになったこと、もっといえば、そう言えば予算が取れると通産省が踏んだことから、構想を打ち上げたのだろう。
 ところが、「基礎研究はわれわれのデマケ(デマケーション=領域)」、つまり、縄張りだとの認識が科技庁にはある。そこで科技庁でも似たような制度を立ち上げることになった。しかも、そのための新しい組織もつくる計画が立てられた。
 結果、予算を握っている大蔵省から「ほとんど同じだから、どちらかにしなさい」との指導があり、通産省と科技庁のあいだで連日、それこそ徹夜で協議が行われることになった。
 ただ、「やはり基礎研究は科技庁」というデマケがあるから、どうしても通産省は押され気味になる。そうして最終的には下りなければならなくなるわけだが、科技庁としてもあまりに通産省を痛めつけるのは得策ではない。業界に「科技庁の研究には協力するな」と注文をつけられかねないからだ。そこで、妥協策を探ることになる。結果、「科技庁はきちんと法律も組織もつくり、予算を取る。ただし、通産省にも大蔵省が予算だけはつけてあげましょう」となり、表向きは痛み分けで終わった。
 ただし、その裏では担当の局長どうしが相談し、「新しくできる組織の理事のなかに通産省OBを採用する」などという覚書が交わされ、互いの公印を押して手打ちとなった。
 滑稽なのはそれからだ。
 そうやって上のほうでは了解ができても、直接闘ってきた現場は納得できない。彼らが純粋に、「政策としてどちらがいいのか」との観点で闘ってきたのは事実。それなのに、上から突然「打ち方やめ」との命令が下ったのである。
「このあたりが収めどきだから」
 そう言われても、意味がわからない。
「いや、これで手を打ったんだから」
「おかしいじゃないですか」
 そう言って、むかしの青年将校のように局長室に乗り込んでいっては、涙を流して帰ってくるのである。傍から見ているとドラマのようだ。それなりに感動的でもあった。けれども、その光景を見ていた当時、官僚1年生の私には--口には出せなかったが--すごく違和感があった。
「科技庁だろうと通産省だろうと、どっちがやったっていいじゃないか。そんなことでどうして泣かなければいけないんだ・・・」
「今日は飲むぞ!」
 悔し涙を流した先輩に誘われて、べつに飲みたくもない酒につきあわされた挙句、愚痴を聞くハメになったのだが、その席でも私はこう思わざるをえなかった。
「たしかにこの人たちは涙を流してがんばっている。それは認める。けれども、それは要するに権限をこかのところに取られないようにするため、つまりは省益のためで、断じて国益のためではない。少しも国民のためにはならないどころか、無駄な労力と税金が使われるだけじゃないか・・・」
 国民からすれば、国として政府がやってくれればいいのであって、どちらが管轄しようとまったくかまわない。しかし、こういうことが、法律をつくるときにはすべての省庁でくりかえされる。いかに官僚が国民のことを考えていないかを示す典型例だと思う。(~p70)


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