『パウロの福音』 とりわけ孤独という苦しみである

2020-05-15 | 本/演劇…など

『パウロの福音』
 カルロ・マリア・マルティーニ著 佐久間勤 訳   出版社 女子パウロ会

p33~

キリストとパウロが受けた肉体的、精神的苦難

 イエスの受けた苦難は、はなはだしいものであったと思われる。受難物語の中で詳しく報告されているからである。パウロのほうは、投獄された苦しみは大変であったろうと推測さ(p34~)れるのみである。だが投獄されるまえに、パウロは鞭打ちや石打ちの刑など多くの苦難を経験している。パウロはそれらがまるで予測していたできごとであるかのように回想する(2コリ11・23~27参照)。
 パウロは精神的な苦難のほうをより強調している。とりわけ孤独という苦しみである。これこそが、わたしたちの苦難と、キリストとパウロの苦難との間に共通点があることを示している。
 たしかにキリストが耐え忍んだ非常に過酷な精神的苦痛は、人々からまったく捨てられなければならなかったということにある。皆が逃げ去り、ただペトロだけが後について行ったが、やがてイエスを知らないと公言してしまう。イエスはいつも、だれか自分を支えてくれる人たちといっしょにいるのが常であったがーーこれはわたしたちも同じだーー、一瞬にして極端なまでの孤独に陥ってしまう。さらに孤独はひどくなり、神からも捨てられたと感じるほどの、わたしたちの理解を超えた孤独にまで達して、イエスはこう叫ぶ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27・46)。この意味を理解しようとして、おびただしい数の書物が作られてきた。(略)

p35~
 (略)
 他方、パウロの精神的苦難については、何を言うことができるだろうか。
 パウロは長期間にわたって「受難」を経験した。それは生涯の終わりまで続く。しだいに弟子たちが離れ去っていくという経験である。強い精神力をもった人物であったればこそ、パウロが認めるとおり、自分の力の限界まで苦しんで疲労困憊したということを隠しとおせなかった。

 ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼は私の務めをよく助けてくれるからです。銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕事に応じて彼にお報いになります。あなたも彼には用心しなさい。彼はわたしたちの語ることに激しく反対したからです。わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように(2テモ4・9~11、 14~16)。

 最後のことが最も苦しかったであろう。
 ここにあるのは、わたしたちが慣れ親しんでいるパウロとは異なるパウロである。肉体的にも疲れ果て、牢につながれて衰弱している。他の「牧会書簡」つまり「テモテへの第一の手紙」と「テトスへの手紙」にも同じように記されている。(略)
 たしかに、衰えつつあるパウロのイメージがわたしたちに伝わってくる。「ガラテヤの信徒への手紙」や「ローマの信徒への手紙」に見られるような、神学の偉大な総合を熱意にあふれて語るパウロではない。孤独のうちに日常の困難と闘い、ある種の悲観主義がにじみ出ているような人物である。現在を拒否し、悪い将来しか見ない。希望や自信、熱意は失われ、(p37~)暗く沈んだ気分に閉ざされている。(略)
 バルタザールがイエスについて述べていることに基づくなら、パウロもまた、信仰が闇にのみ込まれるという経験をしたと考えることができる。信仰の闇の中をただ独り、過去の恵みの経験のみに頼って、神の力がまったく感じられないという状況の中を、とぼとぼと歩かなければならない、という経験である。

 ◎上記事は『パウロの福音』からの書き写し(=来栖)


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