【平成の事件】19人殺害「屈しない」 実名で取材応じる被害者家族、問い直す我が子の幸せ
2019/4/9(火) 10:00配信 カナロコ by 神奈川新聞
画像;事件後、週1回、尾野一矢さん(右)と親子水入らずのひと時を過ごす父の剛志さんと母のチキ子さん=2017年1月
「お父さん、お父さん、お父さん…」。生死の境をさまよった息子は、意識が戻ると同時に何度も叫んだ―。平成最悪の犠牲者を出した相模原障害者施設殺傷事件。父はいま、命を選別する被告の妄言に抗い、そして自責の念を胸に問い直す。我が子にとっての「幸せ」とは何か。(神奈川新聞記者・石川泰大、成田洋樹)
午前5時過ぎだった。
「障害者施設で入所者刺される」「15人心肺停止」―。テレビをつけた瞬間、衝撃的な字幕が目に入った。画面の向こうで、アナウンサーが強い口調でニュースを繰り返す。
現場上空からの中継で大きく映し出されたのは、見覚えがあるS字型の居住棟が連なる茶色い建物。オレンジ色の大型テントが張られ、周囲をせわしく動き回る救急隊員らの姿が、事態の深刻さを伝えていた。
2016年7月26日に起きた神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)で入所者19人が犠牲になった殺傷事件。重傷を負った尾野一矢さん(46)の父の剛志さん(75)=座間市=は、事件のあった日の記憶が頭から離れない。
「あの光景は、目に、耳に、今もはっきり残っている。きっと死ぬまで消えないと思う」
■「この子のために」病室での誓い
あの日、妻のチキ子さん(77)を助手席に乗せ、自宅から約40キロ離れた園へと車を走らせた。ハンドルを握る手は震えていた。
付近では片側1車線の狭い道路にパトカーや救急車が長い列をなし、到着したころには午前7時半を回っていた。事件発生からすでに5時間がたっていた。
施設の入り口や廊下に血が点々と残り、体育館にはけがのなかった入所者がぼうぜんとした表情で座っていた。そこに一矢さんの姿はなかった。不安が一気に募った。
はやる気持ちを抑え、職員らが集まる部屋に向かうと、テーブルの上に4枚の紙が並んでいた。入所者の安否が書き込まれた名簿だった。 無事だったら「○」、そうでないなら「×」。祈るような気持ちで、記号が混在する名簿を指でなぞり、目で追っていく。
「尾野一矢」。ようやく見つけた我が子の名前に記号はなく、代わりに病院名があった。
病院に着いたのは午前9時半。首やのど、腹部を刺され、意識不明の状態で運び込まれた、と医師から聞かされた。必死に抵抗したのだろう。手の甲にはいくつもの切り傷があった。
家族全員がそろった時だった。一矢さんの右目から、涙がスーッと流れるのを見た。「俺たちの声が聞こえている。だから、絶対大丈夫」。信じることしか、できることがなかった。
翌日、一矢さんの意識が戻った。病室に駆け付けた時、思いもよらぬことが起きた。
「お父さん、お父さん、お父さん、お父さん…」
一矢さんが叫んだ。何度も、何度も。普段あまり言葉を話さない息子が、そう呼んだのは初めてだった。
喜びと驚き。だが胸にこみ上げたのは、それだけではなかった。
自分は本当に息子のことを理解していたのか。何も考えていないと勝手に決めつけていなかったか―。罪悪感だった。一矢さんを力いっぱい抱きしめながら、誓った。
「残りの人生を、この子のためだけに生きていこう」
■血縁なくても「一度も後悔ない」
一矢さんはチキ子さんと死別した前夫の子どもで、剛志さんと血のつながりはない。
初めて会ったのは、一矢さんが3、4歳のころ。チキ子さんの家を訪ねると、玄関に立って黙ったままこちらを見ていた。
「色白でぽっちゃりとしていて、まるでお人形さんのようだった」
自閉症のためか、一矢さんは水にぬれるのを嫌がり、髪がひどく汚れていた。剛志さんは泣いて暴れる一矢さんを抱きしめて髪を洗った。辛抱強く世話をしているうちに、膝の上におとなしく座っていられるようになった。
着替えの練習も始めた。パジャマのボタン代わりに大きなホックを縫い付けたり、洋服の表裏をわざと逆にして置いたり。チキ子さんが「ここをパチンと留めるんだよ」と教えると、一矢さんは手を動かさず、口で「パチン」と繰り返した。うまくできたと思ったのだろう。うれしそうにはにかむ一矢さんを囲んで、家族に笑顔が広がった。
トイレ、食事、歯磨き…。一つのことを覚えるまで数カ月。小学校の特別支援学級を卒業するころには身の回りのことができるようになった。
「目障りだ」「早く施設に入れろ」―。周囲から心ない言葉を浴びせられたことは数え切れない。
小学校からの帰り道。民家の軒下で見つけたダンゴムシやアリを持って帰ってくると「うちの敷地で何かを盗んでいった」と文句を言われ、牛舎にいるウシに草をあげれば「変なものを食べさせた」と言いがかりをつけられた。
「それでも、障害のある子どもの親になったことを後悔したことは一度もない」
幼いころ、知的障害のある近所の子どもをからかったことがある。「障害を持ちたくて持ったわけじゃないんだよ」。母にきつくしかられた時の言葉が、いつも胸にあった。
かわいいだけで子育てはできない。大声で騒いだり、暴れたり…。思い通りにならないいら立ちを一矢さんにぶつけてしまったこともある。後ろめたい気持ちが心にずっとあった。
一矢さんは成長とともに障害が重くなり、夫婦で仕事を抱えながら自宅で介助するのが難しくなった。親元を離れて12歳から障害児施設で暮らし、23歳の時にやまゆり園に入所した。
剛志さんは家族会の会長を務め、月1回は園に顔を出した。だが一矢さんは食堂で一緒に食卓を囲んでも、食べ終えると振り返ることもなくすぐに自室に戻っていった。息子が何を考えているのか分からなかった。そういうものなのだろうと軽く考えていた。
園での生活が長くなるにつれ、一矢さんの一時帰宅は減っていった。「あの子にとってのわが家は園なんだね」。親離れしていく息子に、うれしさと寂しさが入り交じった。
■息子の意思「やっと気づけた」
そして事件は起きた。穏やかな暮らしは断ち切られ、かつてそこにあった営みは奪われた。施設は一部の建物を残し、建て替えに向けて取り壊され更地が広がる。
入所者の多くは17年4月から、横浜市港南区の仮園舎で暮らしている。事件後、一矢さんは髪が薄くなり、白髪も増えた。一時は体重が6キロ落ち、傷痕を見ようとすると「怖い」と取り乱すこともあった。
週1回、夫婦で施設を訪ね、親子水入らずのひと時を過ごす。以前よりも言葉がはっきりと出るようになり、生き生きとした表情を見せるようになった実感がある。
「本当の気持ちは今も分からない。でも、心の中にちゃんと意思を持っている。事件をきっかけに、親子の絆が深まったような気がするんです」
園の再建を巡っては、より自由度の高い少人数のグループホーム(GH)などで暮らす「地域移行」を求める声が身体障害者や支援者から上がった。だが、剛志さんは元の場所で大規模施設としての再出発を訴え続けた。
「重度の知的障害者を受け入れてくれるGHがないのに、地域に出て行けというのはおかしい」
管理されがちな大規模施設での暮らしに否定的な障害当事者らが参加する集会にも足を運び、時に批判を浴びながらも施設の必要性を説いた。
そんな剛志さんが考えを変えるきっかけになったのは、映画監督の宍戸大裕さん(36)との出会いだった。重度の知的障害者が公的制度を使ってヘルパーの支援を受けながらアパート暮らしをする日々を撮り続けてきた宍戸さんから「新たな生活の選択肢として一人暮らしもある」と教えられた。支援者の話に耳を傾け、実際に一人暮らしをしている当事者と家族にも会い、ゆったりした自由な暮らしぶりに目を見開かされた。
「施設にこだわっていた自分は間違っていたかもしれない」。18年夏から、一矢さんと昼食をともにする場に外部のヘルパーに同席してもらっている。
「最終的にどこに住むかを決めるのは一矢自身。できるなら、一人暮らしを実現させてあげたい」
あの日から2年8カ月。遺族や被害者家族が口を閉ざす中、剛志さんは唯一、実名で取材に応じている。当事者が声を上げなければ、「障害者は不幸を作ることしかできない」と言ってはばからない植松聖被告(29)=殺人罪などで起訴=に屈してしまうと思うからだ。
社会に根付く差別や偏見が事件を起こした、と剛志さんは考えている。「平成最悪」とされる事件も風化と無関係ではいられない。人々の記憶が薄らげば悲劇はいつか繰り返される。そんな危機感が強い。
「そうならないためにも、これからも語り続けていく。ある意味、一矢への懺悔でもあるから」
10年後、20年後、100年後でもいい。障害のある人が差別されず、地域で当たり前に暮らせる社会になってほしい―。
「一矢のために、できることは何でもやる」
剛志さんは今、我が子にとっての幸せを必死で見つけようとしている。
連載「平成の事件」 この記事は神奈川新聞社とYahoo!ニュースの共同企画による連載記事です。「平成」という時代が終わる節目に、事件を通して社会がどのように変わったかを探ります。4月8日から計10本を公開します。
最終更新:4/9(火) 10:00 カナロコ by 神奈川新聞
◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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相模原事件初公判1月ごろで調整
神奈川 NEWS WEB 2019/04月03日 15時17分
3年前、相模原市の知的障害者施設で入所者19人が殺害されるなどした事件で、殺人などの罪に問われている29歳の元職員の初公判を来年1月頃に開く方向で調整が進められていることが、関係者への取材でわかりました。
検察は3日、こうした方針を遺族の代理人などに説明したということです。
平成28年7月、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者が次々と刃物で刺され19人が殺害されるなどした事件では、施設の元職員、植松聖被告(29)が殺人などの罪に問われています。
裁判員裁判を始めるにあたって争点を整理するため、現在裁判所と検察、それに弁護側が協議を行っていて、この中で初公判については来年1月頃に開く方向で調整が進められていることが関係者への取材でわかりました。
検察は3日、こうした方針を被害者遺族の代理人を務める弁護士などに説明したということです。
植松被告は捜査段階の調べに対し「意思疎通できない障害者を殺そうと思った」という供述を続けたほか、精神鑑定ではみずからを特別な存在だと考える「自己愛性パーソナリティー障害」などの複数の人格障害があったと指摘されましたが、検察は刑事責任能力があったと判断しておととし起訴しています。
◎上記事は[NHK NEWS WEB]からの転載・引用です
やまゆり事件3年 施設を出て地域へ 模索 障害者家族ら「積極的になれた」
2019年7月26日 中日新聞 朝刊
入所者十九人が殺害された相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の事件から三年。入所者の多くが建設中の新施設への入居を希望する中、地域の中で社会経験を積み、一人暮らしを目指す入所者と家族もいる。 (土屋晴康、曽田晋太郎、鈴木弘人) 「おいしい?」。今月十日、横浜市港南区にある入所者の仮移転先の庭で、事件で重傷を負った尾野一矢さん(46)がおにぎりをほおばっていた。母チキ子さん(77)が問いかける前で、介護福祉士の大坪寧樹(やすき)さん(51)がほほ笑む。
自閉症と重い知的障害がある一矢さんは、国の支援制度を使ってアパートでの一人暮らしを目指している。ただ、対人関係を築くのが苦手で、いきなり見ず知らずの介護者と暮らすと心を閉ざしてしまう可能性がある。
そのため昨夏から毎週水曜、大坪さんは家族の昼食会に加えてもらい、時間をかけて少しずつ距離を縮めている。
父剛志さん(75)は当初、二〇二一年度に完成予定の新施設に一矢さんを預けるつもりでいた。「二十年以上、やまゆり園で暮らしてきた。それ以外の選択肢はなかった」。しかし、介護を受けながら一人暮らしをする重度障害者と接触する機会があり、楽しそうに生活する姿を見て考えを改めた。「社会の中で生きる方が幸せなのではないか」と。
同じく重度の知的障害があり、一四年からやまゆり園で暮らしていた平野和己(かずき)さん(29)は昨年六月、横浜市のグループホーム(GH)に移った。バスで三十分ほどの距離にある作業所に通い、細断された紙をビニール袋に詰めてクッション材を作る毎日を送った。父泰史さん(68)によると、施設と違って外に出る機会が多くなり、笑顔が増えたという。
今は、体調の問題から市内の施設に入っているものの、再びGHで生活させたいという泰史さん。「障害もあって本人は口に出して言えないからこそ、周りがいろいろなことを試させてあげるのが大事。園を出てから息子は積極的になれた」と話した。
◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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◇ 【平成の事件】相模原障害者殺傷 被告と接見19回、手紙34通 ゆがんだ正義と心の闇 カナロコ 2019/4/8
* 相模原殺傷(障害者施設で19人が殺害された事件)植松聖被告 2020年1月初公判で調整
* 相模原障害者殺傷事件・植松聖被告と面会室で話した強制不妊問題 篠田博之 2018/5/30
* 相模原殺傷事件(2016/7/26)から1年 植松聖被告からの手紙「障害者は人の心失っている=心失者」 浮かぶ強固な差別意識
* 新出生前診断 問われる社会のあり方 陽性確定の9割が中絶 障がい者抹殺思想は相模原事件容疑者だけじゃない 2016/7/20
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* 帚木蓬生著 ・ 『安楽病棟』 安楽死・尊厳死 ・『守教(上・下)』信仰守った人々の心に迫る
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