神戸連続児童殺傷事件20年 <少年と罪 「A」、20年> 第2部(4)実像 「死にたい」はやがて「社会の中で生きてみたい」になった(中日新聞 2017/6/29)

2017-06-29 | 神戸 連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗

<少年と罪 「A」、20年>第2部 (4)実像 
 中日新聞 2017/6/29 Thu 朝刊
  「疲れた子ども」変化 

    
     卓球台を置いた事務所で神戸事件の少年Aを待つ井垣。喉頭がんの手術を受け、笛式の人工声帯を使う=大阪府豊中市で
 「訪ねてほしい。支えるから」。弁護士の井垣康弘(77)は大阪府豊中市の自宅を兼ねた事務所で、いまも一人の「元少年」を待つ。
 神戸家裁の元裁判官。1997年10月、少年審判で神戸連続児童殺傷事件の「A」と向き合った。犯行後に誕生日を迎えた15歳だった。
 初対面のAは「しなびた野菜」に見えた。崩れ落ちそうな姿勢でいすに座り、口癖は「疲れた」「早く終わって」「死にたい」。すぐ死刑になると勘違いして、死なせてくれない大人たちを恨んでいた。
 非行に走った5000人の少年少女と接した井垣。「みんな、根底に生への願望があった。死にたがっていたのはAだけだった」。思春期の子を持つ日本中の親をおびえさせた「モンスター」の姿はどこにもない。目の前に座ったAの実像は「孤独に追い詰められた、疲れた子ども」だった。
 井垣は審判で事件の背景として、虐待に近い母親のしつけや、幼児期からの親の愛情の欠如を指摘した。出した結論は、医療少年院送致。Aに生きる気力をどう持たせるか。いずれ退院するAを社会が受け入れるには何が必要か。そう考えた井垣は、審判後も収容先の関東医療少年院へ足を運び、Aと関わり続けた。
 送致先の対応も異例だった。家裁の決定を受け、法務教官や精神科医がAの「疑似家族」を形成。生まれたときからの家族関係を再構築する、前例のない「育て直し」の矯正プログラムに取り組んだ。
 祖父役だった当時の院長、杉本研士(77)=東京都八王子=は、当初のAを「目を上げず、全てを拒むようだった」と話す。ただ、井垣と同様に「成育環境に問題がある。事件の特異性はあるが、理解不能な怪物ではない」とも感じた。
 6年半の入院で「Aは変わった」と杉本。「死にたい」は「無人島で、1人で生きたい」に変化し、やがて「社会の中で生きてみたい」になった。問題視された母親との関係も改善が見られ、中学時代に卓球部員だったAと、地域クラブでラケットを握った母親が、少年院の体育館でラリーを交わすまでになった。
 矯正の手応えを感じた杉本。「他者への共感を十分に醸成できたはずだった」
 Aは退院後、再び罪を犯していないとみられ、遺族への謝罪の手紙も毎年、書いていた。それだけに2015年、遺族感情を逆なでする手記『絶歌』を出版したことは、杉本にとって裏切りだった。「矯正プログラムの失敗」との批判には反論するが、同時に「今となっては、矯正に携わる者が手を差し伸べる方法はない」と突き放す。
 一方、弁護士の井垣。最後にAと会ったのは、仮退院を半年後に控えた03年だった。21歳のAは「普通の大学生のような好青年」。退院後の生活を手記で知り「よくここまで立ち直った」と話す。
 供述調書や精神鑑定書など、積み上げると高さ2㍍に及ぶ事件記録の中で、井垣もAが卓球部員だったことを知っていた。
 弁護士事務所の中央にいま、卓球台が置いてある。来客とプレーして心を通わせるためだ。Aと卓球をして、聞きたいことが山ほどある。だがAからの連絡は、まだない。」(敬称略)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し。なお、記事中、漢数字のところ、算用数字とした。(=来栖)
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〈来栖の独白 2017.6.29 Thu 〉
>「死にたい」は「無人島で、1人で生きたい」に変化し、やがて「社会の中で生きてみたい」になった。
 これは確かな矯正の成果である。『絶歌』でAは以下のように吐露しており、私の胸に迫った。読んでほしい。遺族に、読んで戴きたい。

p288~
 被害者のご家族の皆様へ
 まず、皆様に無断でこのような本を出版することになったことを、深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ありません。どのようなご批判も、甘んじて受ける覚悟です。
  何を書いても言い訳になってしましますが、僕がどうしてもこの本を書かざるを得なくなった理由について、正直にお話させていただきたく思います。
 二〇〇四年三月十日。少年院を仮退院してからこれまでの十一年間、僕は、必死になって、地べたを這いずり、のたうちまわりながら、自らが犯した罪を背負って生きられる自分の居場所を、探し求め続けてきました。人並みに社会の矛盾にもぶつかり、理不尽な目にも遭い、悔しい思いもし、そのたびに打ちひしがれ、落ち込み、何もかもが嫌になってしまったこともありました。ぎりぎりのところで、(p289~)いつも周囲の人に助けられながら、やっとの思いで、曲がりなりにもなんとか社会生活を送り続けることができました。しかし、申し訳ありません。僕には、罪を背負いながら、毎日人と顔を合わせ、関わりを持ち、それでもちゃんと自分を見失うことなく、心のバランスを保ち、社会の中で人並みに生活していくことができませんでした。周りの人たちと同じようにやっていく力が、僕にはありませんでした。「力がありませんでした」で済まされる問題でないことは、重々承知しております。それでも、もうこの本を書く以外に、この社会の中で、罪を背負って生きられる居場所を、僕はとうとう見つけることができませんでした。許されないと思います。理由になどなっていないと思います。本当に申し訳ありません。

 僕にはもう、失うものなど何もないのだと思っていました。それだけを自分の強みのように捉え、傲慢にも、自分はひとりで生きているものだと思い込んだ時期もありました。でもそれは、大きな間違いでした。こんな自分にも、失いたくない大切な人が大勢いました。その人が泣けば自分も悲しくなり、その人が笑えば自分も嬉しくなる。そんなかけがえのない、失いたくない、大切な人たちの存在が、今の自分を作り、生かしてくれているのだということに気付かされました。
 僕にとっての大切な、かけがえのない人たちと同じように、僕が命を奪って(p290~)しまった淳君や彩花さんも、皆様にとってのかけがえのない、取替えのきかない、大切な、本当に大切な存在であったということを、自分が、どれだけ大切なかけがえのない存在を、皆様から奪ってしまったのかを、思い知るようになりました。自分は、決して許されないことをしたのだ。取り返しのつかないことをしたのだ。それを理屈ではなく、重く、どこまでも明確な、容赦のない事実として、痛みを伴って感じるようになりました。
 僕はこれまで様々な仕事に就き、なりふりかまわず必死に働いてきました。職場で一緒に仕事をした人たちも、皆なりふりかまわず、必死に働いていました。
 病気の奥さんの治療費を稼ぐために、自分の体調を崩してまで、毎日夜遅くまで残業していた人。
 仕事がなかなか覚えられず、毎日怒鳴り散らされながら、必死にメモをとり、休み時間を削って覚える努力をしていた人。
 積み上げた資材が崩れ落ち、その傍で作業をしていた仲間を庇(かば)って、代わりに大怪我を負った人。
 懸命な彼らの姿は、僕にとても輝いて見えました。誰もが皆、必死に生きていました。ひとりひとり、苦しみや悲しみがあり、人間としての営みや幸せがあり、守るべきものがあり、傷だらけになりながら、泥まみれになりながら、汗を(p291~)流し、涙を流し、二度と繰り返されることのない今この瞬間の生の重みを噛みしめて、精一杯に生きていました。彼らは、自分自身の生の重みを受け止め、大事にするのと同じように、他人である僕の生の重みまでも、受け止め、大事にしてくれました。
 事件当時の僕は、自分や他人が生きていることも、死んでいくことも、「生きる」「死ぬ」という、匂いも感触もない言葉として、記号として、どこかバーチャルなものとして認識していたように思います。しかし、人間が「生きる」ということは、決して無味無臭の「言葉」や「記号」などではなく、見ることも、嗅ぐことも、触ることもできる、温かく、柔らかく、優しく、尊く、気高く、美しく、絶対に傷つけてはならない、かけがえのない、この上なく愛おしいものなのだと、実社会での生活で経験したさまざまな痛みをとおして、肌に直接触れるように感じ取るようになりました。人と関わり、触れ合う中で、「生きている」というのは、もうそれだけで、他の何ものにも替えがたい奇跡であると実感するようになりました。

 自分は生きている。
 その事実にただただ感謝する時、自分がかつて、淳君や彩花さんから「生きる」を奪ってしまったという事実に、打ちのめされます。自分自身が(p292~)「生きたい」と願うようになって初めて、僕は人が「生きる」ことの素晴らしさ、命の重みを、皮膚感覚で理解し始めました。そうして、淳君や彩花さんがどれほど「生きたい」と願っていたか、どれほど悔しい思いをされたのかを、深く考えるようになりました。
 二人の命を奪っておきながら、「生きたい」などと口にすること自体、言語道断だと思います。頭ではそれを理解していても、自分には生きる資格がないと自覚すればするほど、自分が死に値する人間であると実感すればするほど、どうしようもなく、もうどうしようもなく、自分でも嫌になるくらい、「生きたい」、「生きさせて欲しい」と願ってしまうのです。みっともなく、厭(いや)ったらしく、「生」を渇望してしまうのです。どんなに惨めな状況にあっても、とにかく、ただ生きて、呼吸していたいと願う自分がいるのです。僕は今頃になって、「生きる」ことを愛してしまいました。どうして事件を起こす前にこういった感覚を持つことができなかったのか、それが自分自身、情けなくて、歯痒くて、悔しくて悔しくてたまりません。淳君や彩花さん、ご家族の皆様に、とても合わせる顔がありません。本当に申し訳ございません。
 生きることは尊い。
 生命は無条件に尊い。
p293~
 そんな大切なことに、多くの人が普通に感じられていることに、なぜ自分は、もっと早くに気付けなかったのか。それに気付けていれば、あのような事件を起こさずに済んだはずです。取り返しのつかない、最悪の事態を引き起こしてしまうまで、どうして自分は、気付けなかったのだろうか。事件を起こすずっと前から、自分が見ない振りをしてきたことの中に、それに気付くことのできるチャンスはたくさんあったのではないだろうか。自分にそれを気付かせようとした人も大勢いたのではないだろうか。そのことを、考え続けました。
 今さら何を言っても、何を考えても、どんなに後悔しても、反省しても、遅すぎると思います。僕は本当に取り返しのつかない、決して許されないことをしてしまいました。その上このような本を書くなど、皆様からしてみれば、怒り心頭であると思います。
 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべてが自業自得であり、それに対して「辛い」、「苦しい」と口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊(p294~)しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした。あまりにも身勝手過ぎると思います。本当に申し訳ありません。
 せめて、この本の中に「なぜ」にお答えできている部分が、たとえほんの一行であってくれればと願ってやみません。
 土師淳君、山下彩花さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
 本当に申し訳ありませんでした。

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『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)

    

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【元少年Aを闇に戻したのは誰か 7年2カ月の更生期間が水の泡】杉本研士・関東医療少年院元院長 2015/9/16

    

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