洗礼受け、“神の子“になった死刑囚 前原伸二の罪と罰 2003/9/12 死刑執行 向井武子は母として遺骨を受け取った

2014-04-23 | 死刑/重刑/生命犯

刑務所で洗礼受け、“神の子“になった残虐死刑囚!! 前原伸二の罪と罰
tocana / 2014年4月20日 12時0分
 2件の事件で3人を殺害し、死刑の判決を受けながら、"神の子"となったのが、前原伸二だ。
 前原が事件を起こしたのは、24歳の時。1985年だ。
 11月29日午前11時過ぎ頃、兵庫県姫路市の民家に、前原は押し入った。30歳の主婦を脅し、キッチンのテーブルに仰向けにして両手両脚を縛り付け、レイプしようとした。ところが、奥から3歳の長男が駆け出てきたため、果たせなかった。前原は、2人を包丁でメッタ刺しして殺害。その場で自慰をし、家にあった42,500円を手にして逃走した。
 4日後の12月3日の正午近く。前原は、神戸市東灘区の民家に押し入る。34歳の主婦に金を要求。後ろ手に縛るが、泣き叫ばれたため、胸や背中10数カ所を果物ナイフでメッタ刺しして殺害した。家には現金はなく、バナナ1房のみを持って出た。
 その夜の8時過ぎ、前原は神戸市の東灘署青木駅前派出所に出向いた。「人を殺した」と自首を申し出る前原に、「からかうんじゃない」と警察官は訝しむ。前原がジャンパーの前を開くと、シャツは血まみれで、そのまま逮捕された。
 最初の事件の3日前に、前原は住居侵入罪で入っていた少年刑務所を出所したばかりだった――。
■近親相姦一家に生まれた前原伸二 壮絶な生い立ち
 前原伸二(以下、伸二)の生い立ちは、凄絶だ。父親は酒に酔うと、幼い伸二の目の前で、母親を陵辱した。伸二が小学4年生の時に母親は男を作って出て行ってしまう。それから、伸二は非行に走る。
「自分は長男だ」と思っていた伸二だが、中学生になって、兄と姉がいることを父親から知らされる。それぞれ、少年院と刑務所に入っていたのだ。兄は母親をレイプしたことがあり、父親は姉と性関係を持っていた。それを明かしたのも、父だった。
 伸二が18歳の時、とび職の父が足場から転落して死亡する。労災補償金1,500万円を伸二は受け取る。すると、「家族だから」と言って、母と男がやってきて同居する。だが、8カ月で伸二は家出した。
 少年刑務所を出所する直前に、伸二は母親からの電話を受ける。「決して家には帰ってくるな」と、母の言葉が、耳に冷たく渦巻いた。
■3人を殺害した後、"神の子"になった前原伸二
 3人の殺害で、神戸拘置所に収監された伸二の元に、見知らぬ女性から手紙が届くようになったのが、事件の翌年のことだった。やがて2人は面会を果たす。女性は当時48歳、キリスト教牧師の向井武子だった。伸二が会ったのは好奇心からだったが、面会を重ねていくうちに、心を開いていく。
 そして養子縁組をして、2人は母と子になった。
「神の導きによってひとりの罪人が悔い改めるならば、他の99人の善人を導くよりもずっと価値のあることだからです」それが、向井武子が母になった理由だった。
 それでも伸二の心は揺れた。「母さんと一緒に生きていきます」と言ったかと思うと、「利用価値がないから離れます」と口走ることもある。だが、辛抱強く文通や面会が続けられるうちに、伸二のほうから聖書の内容を尋ねるようになった。
 1993年7月、伸二は洗礼を受けた。「伸二おめでとう。これであなたは神の子になったのよ」母である向井武子は祝福した。
 1996年12月17日、最高裁で前原伸二の死刑判決が確定した。2003年9月12日、死刑が執行された。享年42であった。向井武子は、母として遺骨を受け取った。

 ◎上記事は[tocana]からの転載・引用です
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2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜死刑囚 ② 殺人者支える“母親”
【二月二十一日 ある死刑囚の記録】殺人者支える“母親” (18)
 中日新聞 2014年1月27日
 二〇〇四年五月、ちょうど名古屋拘置所で武藤恵喜(ぶとうけいき)と初めて顔を合わせたころ、恵喜との養子縁組を心に定めた加納真智子(名は仮名)が、ある女性を訪ねている。
 大阪市の小さな教会で牧師をしていた当時、六十五歳の向井武子。武子によれば、出会いはあまり印象に残っていない。一五〇センチそこそこの背丈で、奥二重の優しそうな目。一見、もの静かだが、いったん口を開くとよくしゃべる。確か、弾んだ口ぶりで、こんなことも言った。「向井さんのような生き方をしたいわ」
 殺人者を家族として支える-。武子はその数少ない“先輩”だった。一九八五年、神戸市などで二軒の民家に押し入り、幼子を含む計三人を殺害、〇三年に四十二歳で死刑執行された向井(旧姓前原)伸二。武子はこの男を養子とし、十七年にわたり、向き合ってきた。
 「母さんと一緒に生きていきます」。そんなことを言ったかと思えば、「利用価値がないから離れます」と豹変(ひょうへん)する。「息子」に代わって遺族に頭を下げ、裁判所では見知らぬ人から罵倒された。心身ともに疲れ果て、数カ月、床に伏したこともある。武子が「全身全霊」でぶつかった息子との歩みは本にもなり、真智子も読んでいた。
 「のめり込みすぎだ」。たびたび、そんな批判も浴びた武子だが、その実、踏みとどまった一線がある。「償いと向き合わせるという宗教者としての目的意識は忘れなかった。それを忘れ、母親の情に流されるだけでは、泥の中にはまってしまう」
 幾度目かの来訪で、真智子から養子縁組の証人を頼まれたとき、武子は快諾する。恵喜のことはよく知らなかったが、真智子は同じクリスチャン。恵喜とどう向き合っていくのか、さほど心配はしなかった。
 〇四年七月、恵喜の母となった後も真智子は足しげく武子のもとへ通い続ける。ある日、思い詰めたように武子に耳打ちした。「恵喜さん、わたし以外にも女性と文通してるみたい」
 まだ、漠然とではあったが、武子は二人の関係に少し「危うさ」を感じた。=続く(敬称略)

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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