ローマ法王来日(2019.11.23~26) 「死刑制度廃止」「広島と長崎を訪れ」=きれいごと。この世は、そんなところ。〈来栖の独白 2019.11.16〉

2019-11-16 | 死刑/重刑/生命犯

 2019年11月16日 中日新聞 朝刊
ローマ法王、ミサに袴田さん招待 訪日中短時間接触、言葉交わすか 
 【ローマ共同】ローマ法王庁(バチカン)の報道官は15日、今月下旬に訪日する法王フランシスコが25日に執り行う東京ドームでのミサに、静岡県の一家4人強盗殺人事件で死刑が確定した袴田巌さん(83)=再審請求中=が招待されていると記者会見で明らかにした。面会の予定はないが、言葉を交わすなど短時間接触する可能性がある。
 法王をトップとするローマ・カトリック教会は昨年、死刑を一切認めないとする立場を打ち出しており、25日の安倍晋三首相との会談で日本政府に死刑制度廃止を働き掛けるかどうかが注目されている。
 袴田さんは東京拘置所で1984年にキリスト教の洗礼を受けた。
 法王は11月23日~26日に訪日し、24日に広島と長崎を訪れ核兵器廃絶を訴えるほか、25日に天皇陛下とも会見する。

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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〈来栖の独白 2019.11.16 Sat〉
 「死刑制度廃止」「広島と長崎を訪れ」…法王自身の「満足」と「メンツ」というきれいごと。この世は、そんなところ。この世の王「天皇陛下」とも会見。正に「この世」。


『カラマーゾフの兄弟』 Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy 
『カラマーゾフの兄弟』 Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy 訳者.米川正夫 河出書房新社 世界文学全集19

 誠に実(まこと)に爾曹(なんじら)に告げん、
   一粒の麦 もし地に落ちて死なずば唯(ただ)一つにてあらん。
  もし死なば多くの実を結ぶべし(ヨハネ伝第12章24節) 

【1巻】
p330~
  この家の犬小屋には何百匹という犬がいて、それに百人近い犬飼がついていたが、みんな制服を着て馬に乗っているのさ。ところが、あるとき召使のむすこで、やっと九つになる小さい男の子が、石をほうって遊んでるうちに、誤って将軍の愛犬の足をくじいたんだ。『どういうわけで、おれの愛犬はちんばをひいておるのか?』とのおたずねで、これこれの子供が石を投げて愛犬の足をくじいたのです、と申し上げると、『ははあ、これはきさまのしわざか』と将軍は子供を振り返って、『あれを捕まえい!』で、人々はその子を母の手から奪って、ひと晩じゅう牢の中へ押し込めた。翌朝、夜の明けきらぬうちに、将軍は子供の着物をはげと命じた。子供はすっかり丸裸にされて、ぶるぶるふるえながら、恐ろしさにぼうっとなって、うんともすんとも言えないのだ・・・『それ、追えい!』と、将軍が下知あそばす。『走れ、走れ!』と勢子どもがどなるので、子供は駆け出した・・・と、将軍は『しいっ!』と叫んで、猟犬をすっかり放してしまったのだ。こうして母親の目の前で、獣かなんぞのように狩り立てたので、犬は見る間に子供をずたずたに引き裂いてしまった!・・・その将軍はなんでも禁治産者か何かになったらしい。そこで・・・どうだい? この将軍は死刑にでも処すべきかね? 道徳的感情を満足さすために、死刑にでも処すべきかね? 言ってごらん、アリョーシャ!」
  「死刑に処すべきです!」あお白いゆがんだような微笑を浮かべて兄を見上げながら、アリョーシャは小さな声でこう言った。
  「ブラーヴォ!」とイヴァンは有頂天になったような声でどなった。「いまえがそう言う以上、つまり・・・いや、どうもたいへんな隠遁者だ!そらね、おまえの腕の中にも、そんな悪魔の卵がひそんでるじゃないか、え、アリョーシカ・カラマーゾフ君!」
  「ぼくはばかなことを言いました、しかし・・・」
p332~
  問題は山ほどあるけれど、ぼくはただ子供だけを例にとった。そのわけは、ぼくの言わなければならないことが、明瞭にその中に現れているからだ。いいかい、すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和をあがなうためだとしても、なんのために子供がそこへ引き合いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか? なんのために子供までが苦しまなけりゃならないのか、どういうわけで子供までが苦痛をもって調和をあがなわなけりゃならないのか、さっぱりわからないじゃないか!
p333~
  しかし、ぼくはそのとき『主よ』と叫びたくないよ。まだ時日のある間に、ぼくは急いで自分自身を防衛する、したがって、神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さなこぶしを固め、われとわが胸をたたきながら『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら価しないからだ! なぜ価しないか、それはこの涙が永久に、あがなわれることなく棄てられたからだ。この涙は必ずあがなわれなくちゃならない。でなければ調和などというものがあるはずはない。しかし、なんで、何をもってそれをあがなおうというのだ? それはそもそもできることだろうか? それとも、暴虐者に復讐をしてあがなうべきだろうか? しかし、われわれに復讐なぞ必要はない。暴虐者のための地獄なぞ必要はない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞがなんの助けになるものか! それに、地獄のあるところに調和のあろうはずがない。ぼくはゆるしたいのだ、抱擁したいのだ。決して人間がこれ以上苦しむことを欲しない。もし子供の苦悶が、真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすのに必要だというなら、ぼくは前からきっぱり断言しておく、---いっさいの真理もこれだけの代償に価しない。そんな価を払うくらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と抱擁しなくたってかまわない! 母親だってその暴君をゆるす権利はないのだ! もしたって望むなら、自分だけの分をゆるすがいい、自分の母親としての無量の苦痛をゆるしてやるがいい、しかし、八つ裂きにせられたわが子の苦痛は、決してゆるす権利を持っていない。たとえわが子がゆるすと言っても、その暴君をゆるすわけにはゆかない! もしそうとすれば、もしみんながゆるす権利を持っていないとすれば、いったいどこに調和がありうるんだ? いったいこの世界に、ゆるすという権利を持った人がいるだろうか? ぼくは調和なぞほしくない、つまり、人類にたいする愛のためにほしくないと言うのだ。ぼくはむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえばぼくの考えがまちがっていても、あがなわれざる苦悶と、いやされざる不満の境にとどまるのを潔しとする。

 *強調(=太字)は来栖


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