スポーツクラブへせっせと通うようになって、ピアノにしわ寄せが行き、稽古が余りできない。本日は、ちょっと心を入れ替えて、2時間半ほど弾いた。ショパン。ぎこちなくて駄目だ。途中、CDを聴く。ブーニンのショパン。(当たり前だけれど)やっぱり上手い。しっかり頭に叩き込んで、今度は目を瞑って弾いてみた。目を瞑ると、自分の音が、よく見える。真珠のネックレスのように音が一粒一粒揃っていると美しいが、全然揃わない。飛び出したり凹んだりだ。
午後、スポーツクラブへ車をひとっ走り。ボディ・ヒーリング。運動の後のリラクゼーション(催眠)で、ほんとに眠ってしまった。マシンをやる気になれず、帰宅。
覚えてくださっていますか?
来栖さんはピアノにスポーツジムと充実した毎日を送っていらっしゃるようで、時間を大切にされているという感じが伝わってきます。
僕も見習わなければなりません。
今回投稿させていただくのは、光市の事件についてです。はじめにはっきりとさせておきたいのですが、これは批判ではないのでその辺は理解してください。
この事件は犯罪被害者の権利と立場が確立される前であったなら、死刑が関わってくるような事件ではなかったのかもしれません。
しかし、奥さんと娘さんを失った、本村洋さんの無念はやはり本村さんにしか理解できないのではないでしょうか?
そして、家族を殺害された本村さんが少年にその命でもって償ってもらいたいと思うのは当然なのではないでしょうか?
死刑廃止運動を活発になさっている方とお話させていただいた時に、犯罪被害者遺族の救済処置として「お金という方法がある」、とおっしゃっていました。
でも、家族が味わった恐怖を、苦しみを、無念をお金に換算することが家族にとっての供養になるのでしょうか?冥福になるのでしょうか?
愚かな自分はどれだけ考えてもそう思えません。そして、そういった考え方が命に対する冒涜に当たるとさえ考えてしまいます。
「人の命を身勝手に奪ったものは、その命で持って償うしかない」、と本村さんがおっしゃっていました。
この考え方は生命を本当に尊いものだと思っているから出てくるのではないでしょうか?
もちろん、来栖さんが指摘するように、行き過ぎた報道や、弁護人叩き、死刑を煽るようなコメンテーターやタレント弁護士の言動はどうかと思いますが。
自分は本村さんがいろいろな苦悩を背負いながらも、自分の信念を貫く姿に、「生きることの輝き」を感じます。
またそれとは逆に、鬼畜と呼ばれるような死刑囚が懺悔し、贖罪に努め人間性を取り戻していく姿にも、「生きることの輝き」を感じます。
愚かな投稿ですみませんでした。
心尽されたコメント、ありがとうございます。深い共感を覚えました。
外出前にPCを開いたのでした。後ほど必ずご返事、書かせて戴きます。寸書で申し訳ございません。感謝のうちに。
>どれだけ考えても
>考えてしまいます。
untouchableさんの全編に流れる謙虚な姿勢に、まず敬意を表します。
>「お金という方法がある」
国家による補償の充実ということですが、私はその言葉を被害者遺族から聞いて、じっと考え込んだものでした。untouchableさんと同じ理由からです。
人は、何かで、納得させたいのかもしれませんね。本村氏の場合は、司法の場でご自分の空虚に埋め合わせをしたいのかもしれません。上記ご遺族は加害者の命を要求しておられませんでしたから、代わりに、国家に埋め合わせ(被害者給付金ですか)をしてもらいたかったのかもしれません。埋め合わせと申しますか、やりきれない思いの矛先を何処へ向けるか、ということかもしれません。いずれにしましても完璧な補償などありえないことは、充分過ぎるほど痛感していらっしゃるのでしょう。どんなにかお辛いことでしょう。
死刑という制度は、論理で是々非々の決着のつくものではないように思います。考えて考えて、それでも答えの出るものではない、と思います。
untouchableさんのように、最後は、「感じる」ことではないでしょうか。本村氏の悲しみとか苦しみとか・・・名状しがたい心の中を、私たち一人ひとりが感じること。加害者の悔いの思いとか、嘆きを、じっと感じること。
長く死刑という困難な問題を考えてきましたが、untouchableさんの感性に希望のようなものを感じました。ありがとう。
しかし、僕は本村さんからとてつもない生命力を感じるのです。人は絶望の淵に追いやられることによって、本当の意味での優しさを理解したり、人の痛みがわかったりするのではないでしょうか。
これは、僕の勝手な想像なのですが、本村さんは非常に優しい方なのではないかと思います。
どんな名声を手に入れるよりも、どんな幸福を叶えていくよりも、「一人の人間としてどうあるべきか」ということを考えることのほうが大切で、それこそが人間が人間として生きていることの所以なのではなかろうか、と今感じはじめています。
これは加害者にも、被害者にもいえることだと思います。
被害者遺族が加害者の生命を要求するということは、正当なことだと思います。
しかし、それとは逆に死刑囚が最期に幸福を追求するという権利だけは誰も奪うことは出来ないと思っています。
そこではじめて人権という概念が考えられるのではないでしょうか?
死刑になっても、最期に幸福だったと思えるのであれば、生きていることの意味があったといえるのではないでしょうか。
藤原さんもそうだったのだと自分は思います。
>生命を要求するということは、正当
>死刑囚が最期に幸福を追求するという権利
しばらく、考えさせてくださいね。保留・・・。
>最期に幸福だったと思えるのであれば、生きていることの意味があった
これも、まだまだ私には課題です。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/essay5.htm
私からのコメントで、少し補足と申しますか、訂正をさせてください。
>納得させたい
>埋め合わせ
と、書きました。「意味を問いたい」というフレーズを補わせてください。
頓馬な私は、よく失敗を仕出かします。先日も、わざわざ出かけていったのに曜日を間違えて(勘違いして)無駄足。とぼとぼ帰ってきました。そうしながら、しきりに「意味」を考えているのです。この失敗には何か意味があるのではないか、などと考えているのです。「正しい日に出直すべきだろうか。いや、元々行かないほうがいいから、今日こんなことだったのではないか」など。
昨日一つ判決がありました。赤ちゃんが殺害された事件で、有期最高刑30年の求刑に対し、22年の判決でした。判決前の記者会見で「かわいそうで、かわいそうで」と泣き崩れていた被害児の母親の姿に胸が詰まりました。「かわいそう」との思いとともに、僅かの人生で無残に将来を断たれてしまった吾子の、生まれたことの意味を考えないではいられなかったのではないでしょうか。人は「なぜ?」と問い、「意味がある」と答えてほしいものではないか、そんな気がしてなりません。この世は、不条理に満ちています。涙の中から「なぜ? どうしてですか?」と問わないでいられない無残に満ちています。分からないことだらけです・・・。
来栖さんのおっしゃる通りで自分の考えはまだまだ甘いですね。
簡単に生まれてきたことに意味があるなどとは言えないですね。
その言葉がいかに偽善的で傲慢な考え方か、喜怒哀楽の素晴らしさを理解する前に生命を絶たれてしまった赤ん坊の無念を思い描くことなどできません。
そこで、ある人がおっしゃっていたのですが
人にとっての救いとは一体何なのでしょうか?
人が完全に苦悩や矛盾から解放されるような救いと何なのでしょうか?
赤ん坊の両親にとっての救いとは一体何なのでしょうか?
また、赤ん坊にとっての救いとは一体何なのでしょうか?
この世には法律では裁ききれない罪がある。赤ん坊の両親の涙はそれを切実に訴えているように思います。
私のようなもののために丁寧な返信ありがとうございます。
PS、来栖さんはおっちょこちょいなのですね、僕もおっちょこちょいで人のことは言えませんが、曜日は事前に確認しましょう(笑)。
超難しいことなので、私のような暗愚には、分かりかねます。
>曜日は事前に確認しましょう(笑)。
ほんと。そうしま~す♪