〈来栖の独白 2018.11.20 Tue〉
男であるとか女であるとか(性別)を超えて「貴方自身が尊い」というのが、桜木紫乃さんの小説「緋の河」だろう。このことを桜木さんは「僕はマコさんのことをこの世でいちばん美しい生きものだと思っとる」<308>と、仲野丈司に言わせている。
緋の河<307>
桜木紫乃 作
2018/11/17 Sat. 中日新聞 夕刊
「マコ、今日はおもろい男を紹介したる。妹のところの次男坊でな、わしの甥(おい)っ子や」
「いい男なら何人でもオッケーよ」
「いいも悪いも、お前がひょいひょいと咽でもさすれば、世の中がぐるっと動くで」
「なぁにそれ。あたしが自由に動かせるものなんて、この子くらいよ」
足元に置いたバスケットをヒールの先で小突くと、社長が「開けるなよ」とそこだけ真面目な顔をする。
「まぁ今日はお前に会うのを楽しみにして来る男がいるよって、たんともてなしてやってくれ。お前に悪いようにはならんはずや」
(中略)
赤津ミワコ画
店でシャンパンを一本空けたところで現れたのは、恰幅のよい社長とは対照的な筋肉質の男だった。色の黒いのも体が大きいのも秀男の好みだ。なにより眼光の鋭さに引き寄せられる。
これが甥っ子、と紹介されて迷わず「いい男ね」と先手を打った。秀男より先にさっと名刺を差し出す仕種と、指の長さに目眩がしそうだ。
仲野丈司---肩書きは放送作家とある。
ブラジャーの内側から名刺入れを出し、一枚渡した。
「マコです。お電話一本でどこへでもお迎えに上がります。よろしく」
つよい目の光りがゆるんだところでにっこりと微笑んで見せた。口元にほんの少し恥ずかしげな気配を漂わせたあと、仲野丈司が手元の名刺に視線を落とし、ひとり言に似た響きで「やっと会えた」と漏らした。初対面でそんな甘ったるい言葉を吐く男に会ったことがなかった。
「そんなふうに言われると、なんだか恥ずかしいわ」
しなをつくり上目遣いで秀男がつぶやいたところで、仲野は自分の言ったことに気づいたようだった。
緋の河<308>
2018/11/19 夕刊
「堪忍、こっちこそ恥ずかしゅうてかなわんもんやから」
眼光が鋭く見えたのは緊張からだったらしい。そうとわかれば秀男のほうも彼に対して優しい気持が湧いてくる。このやり取りに、紹介者である社長も満足げだ。すぐにシャンパンが追加された。
「放送作家って、どんなお仕事なんですか」
「テレビとかラジオの台本を書いたり、舞台の脚本を書いたりしてます」
「じゃあ俳優さんとか歌い手さんとか、芸人さんとも親しいのね」
「わりと交流のあるほうやと思うけど」
「お願いだから、そんなに緊張しないで」
仲野の肩にそっと触れたとき、秀男は夜の街で生きる自分の腕がほんの少し上がったのを感じた。陽気、快活、淫蕩。マヤの言葉が通り過ぎる。
その日は店が退けたあと、仲野と一丁先の寿司屋で落ち合った。酒が入り、ゆるやかな時間を挟んでいるというのに、心拍数は上がっていた。
仕事場以外で男に会う際の、覚悟のハードルは
女たちより数段低く設定されている。駆け引きが必要と彼女たちは言うけれど、そんな湿気があるばかりに、裸になるまでのあいだに快楽の角が丸まってしまう。お互いを削り合うようなやり取りよりも、夜が明ける前に抱き合ったほうがいい。女たちがもたもたしている間にこそ、自分はライトに透かしたカットグラスみたいに、七色の光を放つ時間を手に入れるのだ。
寿司屋の暖簾をくぐり、カウンターにひとり座っていた仲野を見たときすでに、秀男は寝床でこの男をどう悦ばせようか考えていた。
鮎の塩焼きをつまみながら、仲野が嬉しそうに今日のステージの話をする。
「妖しいな、ものすごく妖しい。マコさんは踊りながら金色の鱗をまき散らしているようやった。あんなステージ、大阪のどこの劇場へ行ったってお目にかかれるもんやない。僕はマコさんのことをこの世でいちばん美しい生きものだと思っとる」
(*強調(=太字)は来栖)
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* 人間には性別の前に個人が在るんだよ。それに勝る仕切りはないはずなんだけどね 『緋の河』 2018/10/2
* 「緋の河」 …「生まれつき」に小賢しい是非を言わず なにがあっても死ぬようなことはいけないよ 2018/9/6
* 叔父を同性愛者としてもってくる才筆「緋の河」 こういう、常識の狭間に苦しむ人をこそ救わねばならないのに、聖書は。
* 私の実質人生は終わっている。 夕刊は「緋の河」を読む。 〈来栖の独白 2018.9.5〉
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