「一心不安」 現代日本人の個と孤㉒
名古屋大大学院准教授 川合伸幸
中日新聞 2019/8/28 Wed 夕刊
あなたの痛み
公正な判決を下したことで有名な大岡裁きに「子争い」というエピソードがあります。
あるとき、二人の女性が一人の子どもを奉行所に連れて来て、どちらも「自分こそがこの子の母親です」と主張したところ、大岡越前は、「一人ずつ子どもの右手と左手をもって力いっぱい引き合って勝ったほうが母親とする」と云いました。子どもの腕を力いっぱい引き始めると、子どもが痛がって泣いたので、一人は手を放してしまいました。勝ったほうは喜んで子を連れて行こうとしましたが、大岡越前は、「本当の母親なら、子を思うもので、痛がっているのになお引く者が母親であるはずはない」と沙汰を下します。
この「子争い」は、旧約聖書の列王記にあるソロモン王の逸話や中国古典の「棠陰比事」(とういんひじ)に基づいたフィクションだともいわれますが、実の母親のほうが子の痛みをわかるという話は、世界中にあるのでしょう。
共感は脳の働き
個人の痛みを自分の痛みのように感じるのを共感といいます。英語ではエンパシーですが、よく似た言葉にシンパシー(同情)があります。たとえば、誰かが足先を椅子の角にぶつけて痛そうにしているのを見たとします。「あぁ、それは痛いだろうな」とやや客観的な視点で他者の状態を推測するのが同情です。
それに対して共感は、自分も痛みを感じるような感覚になることを言います。じつは、このエンパシーという言葉は、百年ほど前にできた造語で、それ以前はそのような感覚はなかったようです。
いまでは、他人の痛みを自身の痛みのように感じるだけでなく、脳もそのように活動することがわかっています。恋人に電気ショックを与えているところを見ている最中の脳活動が調べられました。自身が電気ショックを与えられたときに活動するのと同じ脳の領域が、活動していたのです。他人の傷を見ていると自分も痛くなる気がしていましたが、本当に脳で痛みの信号が発せられていたのです。
◎上記事は[中日新聞 夕刊]からの書き写し(=来栖)
列王記 上 3章
16 さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。
17 ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。
18 ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。
19 ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。
20 彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。
21 わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。
22 ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。
23 この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。
24 そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。
25 王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。
26 すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。
27 すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。
28 イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。