過酷な現場で働く支援者たちを支えるしくみづくりを 津久井やまゆり園事件を取材したジャーナリストの提言
7/25(火) 16:50配信
2016年7月26日に起きた相模原・障害者施設殺傷事件から7年が経つ。植松聖(33)は今、死刑囚として日々を過ごしている。ジャーナリストの佐藤幹夫さん(70)は「事件の検証は十分にはなされていない」と言う。佐藤さんが突き当たった「取材拒否の壁」。私たちはこの事件をどのように記憶すればいいのか。家族や福祉関係者と対話を重ねてきた佐藤さんに話を聞いた。(取材・文:長瀬千雅/撮影:長谷川美祈/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
津久井やまゆり園事件の「特殊性」
さとう・みきお/フリージャーナリスト。1953年、秋田県生まれ。養護学校の教員を20年以上務める。著書に『自閉症裁判』『知的障害と裁き』『ルポ 闘う情状弁護へ』『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』など。批評誌「飢餓陣営」主宰
福祉施設での障害者虐待のニュースが相次ぐ。厚生労働省の発表によれば、令和3(2021)年度に全国の自治体に寄せられた相談・通報件数は3,208件で、統計を取り始めてから最多になった。
津久井やまゆり園事件が私たちに問うことは、一つは、障害のあるなしにかかわらず「共に生きる」という考え方をどう根づかせていくか。もう一つは、福祉施設のあり方だ。
──事件から7年経ちます。改めてどのような事件だったと考えていますか。
「(津久井)やまゆり園事件の特殊性は、いろんな角度からいろんなことが言えると思うんです。例えば、重度の知的障害者が一度に四十数人も殺傷されたとか、福祉施設の元職員が加害者となって利用者を傷つけたとか。ですが、あまり言われていないことがあって、それは何かというと、関係者がほぼ全員、取材拒否だということです。被害者は匿名で、ご遺族・ご家族はほとんど取材に応じていません。実名で応じるのは唯一、重傷を負った尾野一矢さんのご両親、剛志(たかし)さんとチキ子さんだけ。やまゆり園の職員も、取材はさせないという方針でした。当時の施設長や、(園を運営する)かながわ共同会の代表も、自分たちも被害を受けた側だということは話すけれども、『自分たちの職員のなかから、なぜそういう人間が出てきたのか』に関して、本気になって検証したとは思えません」
──佐藤さんはジャーナリストになる前、発達障害や自閉症、知的障害の子どもたちが通う養護学校(現在の特別支援学校)で教員を務めました。その立場から見て、知的障害者施設で植松のような人間が出てきたのはなぜだと思われますか。
「例えば、学校の場合であれば、最初に赴任した学校がどのような理念を持っているかで、ずいぶん変わると思うんですね。子どもたちをがんがん指導して、管理するのか。子どもたちの特性をゆるやかに受け入れて、子ども中心でやっていくのか。福祉も似ているのではないかと思います。植松にとっては、やまゆり園が最初の職場だったわけです。彼がなぜ『障害者は人を不幸にする』という考えを持つようになったかを考えるには、その施設のトップがどのような福祉の理念を持っていたかが重要だと思うのですが、そういうことがほとんどわからない」
──それが取材拒否の壁ということですね。
「そうです。公判のなかで断片的な情報は示されているのですが、信頼できるまとまった情報がない。入園当初、先輩たちのふるまいを見て、これでいいんだと思ったと考えざるをえないですね」
7/25(火) 16:50配信
2016年7月26日に起きた相模原・障害者施設殺傷事件から7年が経つ。植松聖(33)は今、死刑囚として日々を過ごしている。ジャーナリストの佐藤幹夫さん(70)は「事件の検証は十分にはなされていない」と言う。佐藤さんが突き当たった「取材拒否の壁」。私たちはこの事件をどのように記憶すればいいのか。家族や福祉関係者と対話を重ねてきた佐藤さんに話を聞いた。(取材・文:長瀬千雅/撮影:長谷川美祈/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
津久井やまゆり園事件の「特殊性」
さとう・みきお/フリージャーナリスト。1953年、秋田県生まれ。養護学校の教員を20年以上務める。著書に『自閉症裁判』『知的障害と裁き』『ルポ 闘う情状弁護へ』『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』など。批評誌「飢餓陣営」主宰
福祉施設での障害者虐待のニュースが相次ぐ。厚生労働省の発表によれば、令和3(2021)年度に全国の自治体に寄せられた相談・通報件数は3,208件で、統計を取り始めてから最多になった。
津久井やまゆり園事件が私たちに問うことは、一つは、障害のあるなしにかかわらず「共に生きる」という考え方をどう根づかせていくか。もう一つは、福祉施設のあり方だ。
──事件から7年経ちます。改めてどのような事件だったと考えていますか。
「(津久井)やまゆり園事件の特殊性は、いろんな角度からいろんなことが言えると思うんです。例えば、重度の知的障害者が一度に四十数人も殺傷されたとか、福祉施設の元職員が加害者となって利用者を傷つけたとか。ですが、あまり言われていないことがあって、それは何かというと、関係者がほぼ全員、取材拒否だということです。被害者は匿名で、ご遺族・ご家族はほとんど取材に応じていません。実名で応じるのは唯一、重傷を負った尾野一矢さんのご両親、剛志(たかし)さんとチキ子さんだけ。やまゆり園の職員も、取材はさせないという方針でした。当時の施設長や、(園を運営する)かながわ共同会の代表も、自分たちも被害を受けた側だということは話すけれども、『自分たちの職員のなかから、なぜそういう人間が出てきたのか』に関して、本気になって検証したとは思えません」
──佐藤さんはジャーナリストになる前、発達障害や自閉症、知的障害の子どもたちが通う養護学校(現在の特別支援学校)で教員を務めました。その立場から見て、知的障害者施設で植松のような人間が出てきたのはなぜだと思われますか。
「例えば、学校の場合であれば、最初に赴任した学校がどのような理念を持っているかで、ずいぶん変わると思うんですね。子どもたちをがんがん指導して、管理するのか。子どもたちの特性をゆるやかに受け入れて、子ども中心でやっていくのか。福祉も似ているのではないかと思います。植松にとっては、やまゆり園が最初の職場だったわけです。彼がなぜ『障害者は人を不幸にする』という考えを持つようになったかを考えるには、その施設のトップがどのような福祉の理念を持っていたかが重要だと思うのですが、そういうことがほとんどわからない」
──それが取材拒否の壁ということですね。
「そうです。公判のなかで断片的な情報は示されているのですが、信頼できるまとまった情報がない。入園当初、先輩たちのふるまいを見て、これでいいんだと思ったと考えざるをえないですね」
植松の「未熟さ」と「キレやすさ」
佐藤さんが6年かけて書いた著書『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』。下は主宰する批評誌「飢餓陣営」。関係者のインタビューや講演録が掲載されている
事件当日を短く振り返る。植松は、2016年7月26日午前2時ごろに津久井やまゆり園に侵入し、持っていた包丁で入所者を次々に刺していった。夜勤担当の職員を結束バンドで縛って連れ回し、入所者がしゃべれるかどうかを確認して、職員が「しゃべれません」と答えると包丁を何度も振り下ろした。およそ1時間で45人(職員2人を含む)を殺傷すると、園から東におよそ7キロ離れた神奈川県警津久井署に出頭した。
──植松は、意思疎通ができるかできないかで命の線引きをしました。どこからそういうアイデアを得たと思いますか。
「それも、検証できないのでなんとも言えません。一つ言えることは、どれだけ重度の障害がある人でも、一緒にすごしているうちに、いろんな反応があることがだんだんわかってくるんですよ。日によって、今日は表情が険しいなとか、紅潮しているけど熱っぽいのかな、とか。こちらは、それに応じて対応をする。そんなの交流じゃないと言われてしまえばそれまでなんだけれども、しゃべれなくても、なんらかの喜怒哀楽のやりとりがあることが、実感として感じられるんです」
津久井やまゆり園で慰霊碑の撮影をしていると、現在の園長が出てきて、エントランスの内側に招き入れてくれた。祭壇には「19の命を忘れない」と書かれた色紙や、建て替え前の園舎の写真が飾られている
「そういうことを、施設だとか(特別支援)学校だとかで働く人たちは少しずつ身につけていくはずなんだけれども、そこがうまくキャッチできないタイプの人もなかにはいるわけです。植松は、やまゆり園の仕事に就いた当初は、(施設の)利用者を『かわいい』と言っています。しかし、これは私の仮説ですが、支援者としてのスキルが未熟で、利用者に反抗されたのではないか。当たり前ですが、どんなに障害が重い人にだって感情がありますから、こいつ嫌なやつだなと思えば言うことを聞かないんですよ。植松にすれば、思いどおりにいかなくてイラつく。そうやって、怒りを募らせていったのではないか」
──プライドを傷つけられた。
「そうでなければ、支援の現場から『障害者は生きる意味がない』と主張する人物が現れるとは、到底考えられないんです。ただ、植松はそういったことをほとんどしゃべりません。この間(かん)、新聞等々を通じていろんな情報が出たけれども、自分にとって都合のいいことしか言わない。それ以外のことを聞かれるとスーッと遮断してしまって、態度を豹変させてしまう。私からすれば、植松も、実質的に取材を拒否しているように見えました」
佐藤さんが6年かけて書いた著書『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』。下は主宰する批評誌「飢餓陣営」。関係者のインタビューや講演録が掲載されている
事件当日を短く振り返る。植松は、2016年7月26日午前2時ごろに津久井やまゆり園に侵入し、持っていた包丁で入所者を次々に刺していった。夜勤担当の職員を結束バンドで縛って連れ回し、入所者がしゃべれるかどうかを確認して、職員が「しゃべれません」と答えると包丁を何度も振り下ろした。およそ1時間で45人(職員2人を含む)を殺傷すると、園から東におよそ7キロ離れた神奈川県警津久井署に出頭した。
──植松は、意思疎通ができるかできないかで命の線引きをしました。どこからそういうアイデアを得たと思いますか。
「それも、検証できないのでなんとも言えません。一つ言えることは、どれだけ重度の障害がある人でも、一緒にすごしているうちに、いろんな反応があることがだんだんわかってくるんですよ。日によって、今日は表情が険しいなとか、紅潮しているけど熱っぽいのかな、とか。こちらは、それに応じて対応をする。そんなの交流じゃないと言われてしまえばそれまでなんだけれども、しゃべれなくても、なんらかの喜怒哀楽のやりとりがあることが、実感として感じられるんです」
津久井やまゆり園で慰霊碑の撮影をしていると、現在の園長が出てきて、エントランスの内側に招き入れてくれた。祭壇には「19の命を忘れない」と書かれた色紙や、建て替え前の園舎の写真が飾られている
「そういうことを、施設だとか(特別支援)学校だとかで働く人たちは少しずつ身につけていくはずなんだけれども、そこがうまくキャッチできないタイプの人もなかにはいるわけです。植松は、やまゆり園の仕事に就いた当初は、(施設の)利用者を『かわいい』と言っています。しかし、これは私の仮説ですが、支援者としてのスキルが未熟で、利用者に反抗されたのではないか。当たり前ですが、どんなに障害が重い人にだって感情がありますから、こいつ嫌なやつだなと思えば言うことを聞かないんですよ。植松にすれば、思いどおりにいかなくてイラつく。そうやって、怒りを募らせていったのではないか」
──プライドを傷つけられた。
「そうでなければ、支援の現場から『障害者は生きる意味がない』と主張する人物が現れるとは、到底考えられないんです。ただ、植松はそういったことをほとんどしゃべりません。この間(かん)、新聞等々を通じていろんな情報が出たけれども、自分にとって都合のいいことしか言わない。それ以外のことを聞かれるとスーッと遮断してしまって、態度を豹変させてしまう。私からすれば、植松も、実質的に取材を拒否しているように見えました」
「障害者の家族」としての思い
佐藤さんは一度だけ、植松に手紙を送っている。公判が始まる前の2019年のことだ。
佐藤さんには、重い脳性まひを持って生まれた弟がいた。弟は3つ下で、1956年生まれ。10歳で亡くなったが、生きていれば67歳だ。やまゆり園の入所者には60代も多い。佐藤さんは、事件の一報を聞いたとき、「えっ!? と絶句してしゃがみこんでしまった。まるで弟がやられたような感覚ががーんと入ってきた」という。
──弟さんが重い脳性まひを持っていたこと、ご両親が療育に苦労されたこと、お母さまが若くして亡くなったことを著書(『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』)で明かされています。
「弟のことはずっと触れないように、記憶に蓋をしてきたんです。だけど(取材を)やるからには、過去と向き合わないといけない。いろんなことをさらさないといけない」
「弟が8歳のときに母が病気で亡くなり、父は困り果てます。実家のあった秋田県には、当時、重症児施設はありませんでした。いろいろ手を尽くしてようやく、島田療育園(現在の島田療育センター)に受け入れてもらえることになります。弟は、昭和42(1967)年1月に10歳で亡くなるのですが、その数カ月後に父が書いた手記があって、本の最後に全文を載せました。妻への思い、息子への思いが縷々つづられています」
──その手記を植松に送ったそうですね。
「確かめたかったんです。公判が近づくにつれて不安になっているようだと、新聞が報道したんですよ。彼は一貫して自分は間違っていない、死刑判決が出ても控訴しないと言っていたわけです。それがポツンと、裁判を気にするそぶりを見せているという情報が出てきた。人を殺してしまった人というのは、あとになって自分のしたことの重さに押しつぶされます。植松は苦しむそぶりを一切見せていなかったけれども、裁判が近づいてさすがに弱気になっているのではないか、と」
──返事は。
「来ました。短い手紙でしたが、『障害児の家族と話し合いはできない』と書かれていましたね。私の母が亡くなったのは、重度障害者と関わったことによる過労だとも」
──どう思われましたか。
「そうか、と。彼は(後悔や反省をしているとは)認めないだろうと予想していましたから、意外ではなかった。でも、裁判が終わって、彼についての情報もいろいろ集まってきたときに、ひょっとしたら、この短い手紙に、彼の内側を読み解くポイントがあるんじゃないかと思ったんです。手紙を読む限り、あれだけたくさんの人を殺傷しても、心理的ダメージを受けていない。それが一つ、手がかりになっていきました」
佐藤さんは一度だけ、植松に手紙を送っている。公判が始まる前の2019年のことだ。
佐藤さんには、重い脳性まひを持って生まれた弟がいた。弟は3つ下で、1956年生まれ。10歳で亡くなったが、生きていれば67歳だ。やまゆり園の入所者には60代も多い。佐藤さんは、事件の一報を聞いたとき、「えっ!? と絶句してしゃがみこんでしまった。まるで弟がやられたような感覚ががーんと入ってきた」という。
──弟さんが重い脳性まひを持っていたこと、ご両親が療育に苦労されたこと、お母さまが若くして亡くなったことを著書(『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』)で明かされています。
「弟のことはずっと触れないように、記憶に蓋をしてきたんです。だけど(取材を)やるからには、過去と向き合わないといけない。いろんなことをさらさないといけない」
「弟が8歳のときに母が病気で亡くなり、父は困り果てます。実家のあった秋田県には、当時、重症児施設はありませんでした。いろいろ手を尽くしてようやく、島田療育園(現在の島田療育センター)に受け入れてもらえることになります。弟は、昭和42(1967)年1月に10歳で亡くなるのですが、その数カ月後に父が書いた手記があって、本の最後に全文を載せました。妻への思い、息子への思いが縷々つづられています」
──その手記を植松に送ったそうですね。
「確かめたかったんです。公判が近づくにつれて不安になっているようだと、新聞が報道したんですよ。彼は一貫して自分は間違っていない、死刑判決が出ても控訴しないと言っていたわけです。それがポツンと、裁判を気にするそぶりを見せているという情報が出てきた。人を殺してしまった人というのは、あとになって自分のしたことの重さに押しつぶされます。植松は苦しむそぶりを一切見せていなかったけれども、裁判が近づいてさすがに弱気になっているのではないか、と」
──返事は。
「来ました。短い手紙でしたが、『障害児の家族と話し合いはできない』と書かれていましたね。私の母が亡くなったのは、重度障害者と関わったことによる過労だとも」
──どう思われましたか。
「そうか、と。彼は(後悔や反省をしているとは)認めないだろうと予想していましたから、意外ではなかった。でも、裁判が終わって、彼についての情報もいろいろ集まってきたときに、ひょっとしたら、この短い手紙に、彼の内側を読み解くポイントがあるんじゃないかと思ったんです。手紙を読む限り、あれだけたくさんの人を殺傷しても、心理的ダメージを受けていない。それが一つ、手がかりになっていきました」
植松は、事件の5カ月前の2月中旬、衆院議長公邸に手紙を持参し、受け取りを拒む公邸職員に土下座までして強引に手渡している。手紙は「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」と始まり、職員の少ない夜勤の時間帯に行うこと、速やかに作戦を実行したら自首すること、逮捕・監禁されたあとは無罪となって自由な人生を送りたい、新しい名前と5億円を与えてほしいと訴えたのち、「ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します」と書かれていた。
──佐藤さんは著書の中で、戦場における兵士との比較で植松の心理を考察していますね。
「人は、簡単には人を殺せないようにできていると思うんですよ。例えば、戦場に向かう兵士がなぜ人を撃てるようになるかというと、人間的な共感性の部分を訓練によってぶち壊していくからですよね。だからこそ、日常に帰ると社会不適応を起こし、PTSDを発症して苦しむ。しかし植松からは、『加害者であることによって生じるPTSD』を感じません」
「ふつうは『命の重さ』とことさら言わなくても、育っていくなかで人との関わりがしっかりとできてくれば、おのずと身についてくるものだと思うんですよ。植松は、そこのところがどういうわけか、育ちきれていないように見えます。この事件の根底にある問いは、『なぜ彼はこれほどまでに命を軽んじるようになったか』です。一番肝心なところは生育歴なんですが、ほとんど語られていません。彼は、自分の親のことは話さないんです」
──死刑囚となった現在は、命の重さに気づいているでしょうか。
「そこはわからない。あるいは気づいているかもしれない。だとしても言わないでしょうね。それよりも、自分がどう見られているか、世の中が騒いでくれているかのほうが気になるんじゃないかという気がします」
「ケアする人たち」を支えるしくみづくりを
黒御影石のモニュメントは水鏡になっており、穿たれた19カ所の溝から水が流れ落ちる。鳥が水を飲みにきていた
津久井やまゆり園は2021年夏に再建された。入り口には鎮魂のモニュメントが設置されている。敷地の一角に、地域住民が出入りできる広場が設けられた。「散歩の途中に立ち寄ってください」の張り紙がある。
園舎の再建には、賛成派と反対派で議論があった。戦後、障害者のための福祉施設が各地に建てられたが、それは障害者を「収容」する側面もはらんでいた。1970年代ごろから、知的に問題のない身体障害者を中心に、「施設から地域へ」の動きが始まる。障害者を1カ所に集めて隔離するのではなく、さまざまな支援を受けながら地域で自立して生活できるようにするべきだと考える人には、やまゆり園のような山間部にある大規模施設の再建は、時代に逆行することだった。一方で、重度の知的障害のある人を地域で支えるのは難しい、施設は必要だと考える人もいた。
──佐藤さんはもともと、施設中心の障害者福祉のあり方に問題意識を持っていたんですか。
「いいえ。学校教育と福祉はほとんど交流がありませんでした。それに、発達障害や自閉症、知的障害に関わる仕事を長く続けていると、知的障害の重度の子が地域で自立して生活するというイメージは持ちにくいんです」
「正確に言うと、一人だけ、交通事故による中途障害で、病院に収容されていた人で、『死んでもいいからここから出たい、一人暮らしをしたい』という人と出会ったことがあるんです。だから、自立したいという気持ちが、命にかえてもというぐらい強いものだということはわかっていました」
──置かれている状況や環境によって、考え方はさまざまに異なるのですね。
「私は、軽度の知的障害のある人が起こした刑事事件のルポを手がけてきました。取材の過程で、ある施設を運営する人と懇意になりました。その施設には、地域にいられなくなった人(軽度の知的障害者)が集まってくるんです。少年院にいたとか、問題を起こして地域にいられなくなったとか。だけど、そこもついのすみかではないわけだから、どうやって地域に帰すか、自立のあり方を探るかというのは、大きなテーマでした」
「そういった、点でしかなかった情報が、やまゆり園事件の取材を通じて、やっと一つの図にまとまっていった感じがあります。支援や介護、介助といった『ケア』の問題は、社会全体で取り組むべきテーマでしょう」
──佐藤さんは著書の中で、戦場における兵士との比較で植松の心理を考察していますね。
「人は、簡単には人を殺せないようにできていると思うんですよ。例えば、戦場に向かう兵士がなぜ人を撃てるようになるかというと、人間的な共感性の部分を訓練によってぶち壊していくからですよね。だからこそ、日常に帰ると社会不適応を起こし、PTSDを発症して苦しむ。しかし植松からは、『加害者であることによって生じるPTSD』を感じません」
「ふつうは『命の重さ』とことさら言わなくても、育っていくなかで人との関わりがしっかりとできてくれば、おのずと身についてくるものだと思うんですよ。植松は、そこのところがどういうわけか、育ちきれていないように見えます。この事件の根底にある問いは、『なぜ彼はこれほどまでに命を軽んじるようになったか』です。一番肝心なところは生育歴なんですが、ほとんど語られていません。彼は、自分の親のことは話さないんです」
──死刑囚となった現在は、命の重さに気づいているでしょうか。
「そこはわからない。あるいは気づいているかもしれない。だとしても言わないでしょうね。それよりも、自分がどう見られているか、世の中が騒いでくれているかのほうが気になるんじゃないかという気がします」
「ケアする人たち」を支えるしくみづくりを
黒御影石のモニュメントは水鏡になっており、穿たれた19カ所の溝から水が流れ落ちる。鳥が水を飲みにきていた
津久井やまゆり園は2021年夏に再建された。入り口には鎮魂のモニュメントが設置されている。敷地の一角に、地域住民が出入りできる広場が設けられた。「散歩の途中に立ち寄ってください」の張り紙がある。
園舎の再建には、賛成派と反対派で議論があった。戦後、障害者のための福祉施設が各地に建てられたが、それは障害者を「収容」する側面もはらんでいた。1970年代ごろから、知的に問題のない身体障害者を中心に、「施設から地域へ」の動きが始まる。障害者を1カ所に集めて隔離するのではなく、さまざまな支援を受けながら地域で自立して生活できるようにするべきだと考える人には、やまゆり園のような山間部にある大規模施設の再建は、時代に逆行することだった。一方で、重度の知的障害のある人を地域で支えるのは難しい、施設は必要だと考える人もいた。
──佐藤さんはもともと、施設中心の障害者福祉のあり方に問題意識を持っていたんですか。
「いいえ。学校教育と福祉はほとんど交流がありませんでした。それに、発達障害や自閉症、知的障害に関わる仕事を長く続けていると、知的障害の重度の子が地域で自立して生活するというイメージは持ちにくいんです」
「正確に言うと、一人だけ、交通事故による中途障害で、病院に収容されていた人で、『死んでもいいからここから出たい、一人暮らしをしたい』という人と出会ったことがあるんです。だから、自立したいという気持ちが、命にかえてもというぐらい強いものだということはわかっていました」
──置かれている状況や環境によって、考え方はさまざまに異なるのですね。
「私は、軽度の知的障害のある人が起こした刑事事件のルポを手がけてきました。取材の過程で、ある施設を運営する人と懇意になりました。その施設には、地域にいられなくなった人(軽度の知的障害者)が集まってくるんです。少年院にいたとか、問題を起こして地域にいられなくなったとか。だけど、そこもついのすみかではないわけだから、どうやって地域に帰すか、自立のあり方を探るかというのは、大きなテーマでした」
「そういった、点でしかなかった情報が、やまゆり園事件の取材を通じて、やっと一つの図にまとまっていった感じがあります。支援や介護、介助といった『ケア』の問題は、社会全体で取り組むべきテーマでしょう」
モニュメントの献花台には18本の百合が刻まれている。中央はこのモニュメントに賛同する気持ちが決まらないご遺族のために空いている
──やまゆり園の事件は、植松という特異なパーソナリティーが、重い知的障害のある人たちをターゲットにしてしまったという悲劇でした。あれだけのことがあっても、福祉施設での障害者虐待の事例はあとを絶ちません。
──やまゆり園の事件は、植松という特異なパーソナリティーが、重い知的障害のある人たちをターゲットにしてしまったという悲劇でした。あれだけのことがあっても、福祉施設での障害者虐待の事例はあとを絶ちません。
「私は、植松はまったく許せないと思っています。抵抗できない人を襲うなど、卑劣以外のなにものでもありません」
「それとは別の問題として、重度障害者の入所施設で働く人たちが、過酷な状況にあることも確かだと思います。でも、福祉についてきちんと学んで、訓練を受けて、物心両面で支えられていけば、支援者としてのレジリエンス(回復力、しなやかさ)をつくっていけるはずなんです。そういうことが、やまゆり園のなかで行われていたのか。職員たちを支える人はいたのか。きちんと検証することが、今後につながると思います」
「それとは別の問題として、重度障害者の入所施設で働く人たちが、過酷な状況にあることも確かだと思います。でも、福祉についてきちんと学んで、訓練を受けて、物心両面で支えられていけば、支援者としてのレジリエンス(回復力、しなやかさ)をつくっていけるはずなんです。そういうことが、やまゆり園のなかで行われていたのか。職員たちを支える人はいたのか。きちんと検証することが、今後につながると思います」
最終更新:7/25(火) 16:50
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