昨夜(8月31日)、若手ユニットの舞台「演劇」を観に行った。観客三十人程度の小さなものだったが、そのあまりの“拙劣さ”に衝撃を受け、帰宅後しばらく考え込んでしまった。
気を取り直してテレビをつけると、「民主党代表選」に関する報道の真っ最中。菅首相と小沢一郎氏の「話し合い」が物別れとなり、「挙党一致」態勢が崩れたとのこと。党分裂の危機を孕んだ一騎打ちとなったわけだが、国民としては黙って推移を見守らざるをえない。
だが今回の「話し合い」のきっかけとなった「例の元首相」が、『自分は何だったの?』との「セリフ」を言ったとか言わなかったとか……。結果はどうなるにせよ、「伝書鳩」の『脚本』通りにいかなかったことだけは確か。
もっとも、以前よりこの元首相の“言葉の軽さ”には定評があった。彼が菅首相と小沢氏の仲立ちをするのではと言われていても、正直言ってまともに期待するマスコミはなかった。
思うに、せめて彼が「国民世論という森の中」から飛び立っていればまだしも救いはあったのかもしれない。だが悲しいかなこの「伝書鳩」は、ひとり自らの「軽井沢鳩舎」から飛び立ち、国民不在のもとでこっそり「小沢カラス」に対し、“合従連衡時の大義”とやらに殉じていたのだ。
今回の「両者の対立」は、一年前の“政権交代”以前へと「タイムスリップ」させたことになるだろう。“一寸先は闇”の政治の常道からすれば、今回の「茶番」も“織り込み済み”と言えるのかもしれない。ただ厄介なことに、「伝書鳩」が不意に「蝙蝠(こうもり)」に変貌することがあるため、どちらの陣営からも“仲立ち”としての信頼がかぎりなくゼロに近いということだろうか。
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ともあれ、“前者”の若手「演劇」は、はっきり言って「芝居」以前のもの。この「演劇」の存在を知ったのは、他の演劇公演時に配布された案内チラシだった。眼を通したそのとき『あれっ?』と想ったのは、チラシの中に、「原作者」や「脚本家」という重要スタッフの表記がまったくなかったからだ。
そして昨夜、会場に入った途端嫌な予感がした。舞台美術(?)による「場」の「背景」が、“いかにも女の子っぽいと思わせる“賑やかな”ものだった。“これ見よがし”に安直な色柄の布地や飾り”で占められていた。「舞台背景」のまとまりに欠け、「劇」そのものの進行にもほとんど意味を持たず、自らを「stage direction」と称する担当者の自己満足にすぎなかった。とにかく“目ざわりな美術”であり、バックの音楽も“耳障りな音響”でしかなかった。
それに加え、観客は女子高生をはじめとする若い女性が大半を占め、しかも「女子高文化祭」の“ノリ”が漂っていた。セリフや演技のあまりの“拙劣さ”に、途中で何人かの若い男性が席を立ったほど。どうやら大学生のようだった。今思えば、その勇気を讃えたい。
こういう“途中退席”は、百数十本の舞台観劇体験の中でも初めてのものだった。実は筆者自身、演劇開始後数分で“途中退席”をしたかったのだが、ここは“大人”の責務として必死で我慢していた。それはただ一つ、最後の「アンケート」に以下のような感想を残したかったためだ。
『演劇とは何か。脚本とは何か。演じるとは何か。人間とは、生きるとは何か……。演劇の基本を、ちゃんとしたテキストを使ってみんなで学んで欲しい。』
ほんとはその後に、次の一文も付け加えたかった。
『正直言って、当世流行りの薄っぺらな“一発ギャグ”や“瞬間芸”的な安易さの集積と言わざるをえない。どこか入口を間違えてしまったのでは?』……と。
だがこの「一文」は控えた。
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一方、“後者”は公共の電波を使った「政治的三文芝居」と言える。前者の「演劇」のように、今さら“驚きも躊躇い”もない。だが誰がどのような理由でどちらの陣営を応援するのかしないのか。ここはしっかりと見据える必要があるのかもしれない。もっとも、まともな『脚本』がない以上、せめて奇跡的な『アドリブ』に束の間の慰めを期待するとしようか。
ともあれ、いずれにしても「茶番」二つの暑苦しい夜となった。