花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

神も仏もインチキばかり。

2020年01月10日 14時52分54秒 | 怒りの心柱

 

人は豊かに,そして,幸せを享受するために生まれてくるもの。

苦労の苦労は,ただの苦労でしかない。

苦労するために生まれてくる人間なんて存在しない。

嘘,偽りのばかりの世の中。

嘘,偽りの神仏ばかり。

それに気が付かず,苦労は,修行だどうのと偽りを言い続けるエセ宗教家。

それに群がる今だけ・カネだけ・自分だけ。

誰かが苦しんでいるなら助けてやれよ。

苦しんでいるなら助けを求めろ。

人は助けて,また助けられる存在。 誰もが弱い存在。

誰かにしてあげたことなど水に流せよ。 誰かにしてもらった事は石に刻めよ。

今すぐ神を捨てろ! 今すぐ神をつかめ! 今すぐ神を手放せ! 今すぐ生きろ!


立ち上がれ,日本人!

2019年10月31日 04時40分15秒 | 怒りの心柱

撮影先は,麻賀多神社です。

 

こんにちは。

何度かタイトルを変えて再掲載させて頂いています。最初の投稿から3年になります。

今日は,とても厳しい社会の現実的なお話を書かせて戴きたいと思います。

これは,決して他人事ではなく,国家として取り組んで行かなくてはならない重要な課題でもあると想っています。決して自己責任論だけで終わらせて良い問題ではありません。明日は我が身であります。政治家や公務員には是非とも何度も読み返して頂きたいと思います。わたし達の国家には,やらなければならないことが山積しているのです。政治家ひとり一人には,その現実を直視して政務活動をして戴きたいです。もう待ったなしのところまで来ていると云うのに・・・。厚生労働省によると要介護(要支援)認定者数は620万人と推計されているのです。この現実を日本人は少子化の中で乗り越えて行かなければならないのであります。

こちらも見て下さい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E6%AE%BA%E4%BA%BA

本当に自己責任論と云う抽象的な言葉だけで良いのでしょうか?

下記記載の引用元は「デイリー新潮」2016年11月16日掲載分(全文)からです。

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/11161130/?all=1

地裁が泣いた介護殺人 10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末

2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。

一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが「休職」を理由に認められなかった。

母親の症状がさらに進み、止む無く退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。

母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。

長男は母親との心中を考えるようになる。

そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。

母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。

やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。

そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。

「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。

その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。

自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前2時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

 京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。

殺害時の2人のやりとりや「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。

この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として日本中に知られることになる。

親子の境遇や長男に同情する声や温情判決に賛同する声などが広がった。

それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

やがて判明した死因は自殺だった。

琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。地獄を味わった彼の言葉やその後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。

厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。なぜ悲劇は繰り返されるのか。どうすれば食い止めることができるのだろうか……。

引用記載「全文」は,以上です。

自己責任と云う言葉に分霊は宿りません。

古神道の言霊に自己責任と云う言葉はありません。

祝語である日本語でもありません。

 

花咲 あさひ 拝


祈りを忘れた宗教家 ~剣を箒にかえて~ 2

2019年10月19日 04時38分40秒 | 怒りの心柱

 

令和元年十月二十二日 外在性神仏論から内在性神仏論への始まり。

いさのはじまりありがとう 

こんにちは。

先日「祈りを忘れた宗教家 ~剣を箒にかえて~ 1」を書かせて頂きましたので,今日はその2を書きたいと思います。東京深川の神社にて悲惨な事件があり,神社の護持はちゃんと機能しているのか?素朴にそう感じたものですから,私の仕事上の解釈も若干踏まえ,少しだけ神社や寺院の護持についても書かせて頂きました。そして,宗教家には権力は必要ないとも書きました。何故なら,宗教家にとって必要なものは権力ではなく,権威であるからです。この私の考え方は,実際に現場で体験した事に基づくものです。

神社や寺院を私物化(自己の所有物)し,権力に終始し,執着する宗教家はどこかでほぼ落ちて行きます。

その理由は,いくつかありますが最も大きいというか宗教家が最も恐れることは,それは穢れです。穢れはつまり気が枯れるという意味です。そもそも神社寺院の護持と云うものは宮司さんや住職さんがするものではなく,地元の氏子,不特定多数の崇敬者,縁ある檀家と信徒の役割であるからなのですが,ここを勘違いし間違えてはならないのであります。気の毒が出て来てしまいます。

何故かと言うと,先ほども申し上げました通り,宮司さんや住職さんと云うのは「権力」ではなく「権威」であるからです。では,権威としての宮司さんや住職さんの役割とは何かと云うとそれは「」です。これに尽きます。祈ると云うと祈願や祈祷と据える宗教家が多いのですが,祈るとは「することです。聖徳太子のを以て貴しと為すです。和と云う言葉は神と云う意味ですから,和することが出来るその事,そのものに感謝するのであります。つまり,と云うものは神の御心そのものなのです。

神さま,仏さまと聞くと如何わしい新興宗教の勧誘と想像したり,神仏の存在を否定的に感じる人もいます。

でも何故か?和と云う言葉に違和感を感じる人はいないのではないでしょうか。 

つまり,和の国とは神の国であり,和の国に住む私たちは和の民「神の御子」となります。

これが大和民族と呼ばれる所以です。(わたし個人の解釈です。)

ですから,和の国に住む日本人としての誇りを持たねばなりません。

宮司さんや住職さんが護持そのものを支配するとそこには権力が生じてしまいます。つまり,実質的に自己の所有物として支配できてしまうのです。たとえば,護持会や奉賛会の人事権や意思決定の重要な機関の会長や会計監査の任命権であったり,又,工事などを行う業者を選ぶ選任権であったり,金銭などの財産権や処分権です。そのような物質的な支配権を握ってしまうと当然,自己の身を権力構造の中に置くことになってしまいます。しかしながら,権威は違います。権威とは多数の人(大衆)が権威者に自ら付き随うと言う意味合いですから,目先の損得や感情,金銭に躍らさせれることはないのです。逆に,それでは権威ではありません。

いつものように話は変わりますが,天皇は日本国の象徴であると云う大前提があります。それでは,外国人に天皇とは何ですか?と尋ねられたら,私たちは何と答えるのか?です。私は胸を張って「祈」祭祀と答えます。自然をも支配する思想を持った外国人には解かりにくいかもしれませんが,天皇霊を宿すと云う意味は祭祀の最高位に就く訳です。最高祭主です。過去の日本の歴史を見ると,天皇陛下が祈り「祭祀」を蔑ろにすると災いが起きて来ました。それが私たちが暮らすこの「和の国」日本であります。

この様な話をすると毎度の如く,左派の人々(特に,某討論番組に出演している論客のみなさん)が「それでは天皇は祈っていれば良いのか!」と言われますが,もっと政体と国体を勉強してほしいと思います。和「神」の国は,祭祀に基づいて政治を行うのであります。朝廷と幕府の関係でも分かる様にです。その証拠に,どんな権力者であっても天皇にはなれなかったのです。せめて自分の娘を天皇家に嫁がせるとか,南北朝時代のように南朝と北朝とに分けるぐらいでしか当時の権力者も出来ませんでした。

話を戻して次回に続きを書かせて頂きます。拝


個人主義と云う言葉の魔力。 

2019年10月06日 05時55分27秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

今日も昨日の続きを掲載させて頂く予定でしたが,急遽,別の事柄を書かせて頂きたいと思います。

近年,よく耳にする言葉に「個人主義」と云う言葉を聞く回数がだんだんと多くなってきた気がしています。ですが,この「個人主義」と云う言葉の意味を理解している人は案外少ないようにも思えます。このブログを長く読んでくださっている方はご存知であろうと思いますが,私は,主に神社と寺院の護持をしています。ただ,神社と寺院の護持だけでは到底,食べていく事は出来ませんので郵便局で配達員の仕事も兼ねています。

神社や寺院の護持と云うものは,大きく区分けして3種に分類できます。

三本柱と表現する事も出来ますが,その1つは御本殿や本堂などの礼拝堂施設の護持,

もう1つは,氏子崇敬者さんや檀家さん,一般にお参りに来られる参拝者の護持,そして神社や寺院本体の護持です。

この内,どれが先で,どれが一番大切かと言った事ではなく,その時・その場・その状況で優先順位が変わってきます。

つまり,神社や寺院の護持は三本柱で支えられているのです。そして,護持をする上で,私たち護持司が最も気を使うのが,参拝者の皆さまに「また明日も生きてみよう」と感じて戴ける事です。この記事を読まれている方の中には,生きてみようなんて随分と大袈裟だなと感じるかも知れません。私もおそらく,護持司でなければそのように感じる事もあるのかなと思います。

しかしながら,生きる事に疲れ,生きている事が苦痛に感じている人々も神社や寺院には沢山参拝に来られます。そう云った方々が,神社や寺院に参って「また明日も生きてみよう」とほんの少しでも感じてくれれば良いなと考えながら護持をさせていただいています。ささえな事で元気になられる方もいらっしゃいますが,本当に残念な事ですが,亡くなった方もいます。

最近は特に,個人主義と云う言葉があちらこちらで平然と使われるようになりました。

確かに,個人主義と云う言葉は魅力的に感じるかも知れません。

ですが,私は,この「個人主義」と云う言葉に,とても強い魔力を感じています。世界の個人主義思想の元は,自然権思想や天賦人権説に基づいた思想です。つまり,人は誰であっても生まれながらにして人権と言う目には見えないものを宿し,その時の権力者によって人権を与えられるものではないと云った考え方です。当然,私たちの国の憲法にも書かれている憲法の核に相当するものです。それを「個人の尊重」と言います。しかし,私たちが日常的に口にする「個人主義」は「個人の尊重」と同じ意味で使われているでしょうか?私には,どうもそうは思えないのです。つまり,個人主義と個人の尊重を履き違えているように見えます。

私たちの住むこの日本は大変歴史が長い国でもあります。しかしながら,長い民族史を持つ日本に個人主義だの自己責任と言った時代は一度もありません。もし,一度でもそう云った時代が過去に存在していたら,きっと,日本民族は滅びていたと感じます。

個人主義が行き過ぎると,私たちは,自己責任と云う恐ろしい言葉を何の違和感も嫌悪感も抱かずに平然と使い始めます。

それが,今の日本ではないでしょうか?私たちの国には,自己責任と云う言葉は存在しないのだと言う事から改めて学んで行かなければならず,このままでは本当に滅びるのを待つのみです。 誰であっても,明日は我が身です。自分は安全だなんて言える人はもういません。先日も記事で書かせていただきましたとおり,今,日本が抱えるいくつもの問題は,すべて中途半端な状態のままです。

その一つひとつの問題や課題に個人主義や自己責任論を当てはめるとどう云ったことになるでしょう。考えるだけでも嫌になるくらいです。古神道の世界観では,日本の諸問題は,世界に先駆けて起きます。したがいまして,日本のとる対応が今後の世界で同様に起こる問題の悪い見本にならない様にしなければなりません。

なら,どうすれば乗り越えられるか?

それは,本来の日本人の姿勢である相互扶助でしか乗り越えることは出来ないと,わたしは考えます。


水の神から。穢すなかれ,汚すなかれ。

2019年09月28日 14時02分27秒 | 怒りの心柱

 

こんにちは。

昨日は,鹿島神宮にて御神水を賜り,すぐ近くの海で海の神さまにお祈りをして参りました。

帰りがけに,時間がありましたので麻賀多神社にも参拝させて頂くことが出来ました。

麻賀多神社では,いつも通りたくさんの方々が参拝に来られていてにぎわっていましたが,今回の台風での影響なのか境内の鎮守の木々が数本倒れていました。先日の台風から数週間経過した今でも茨城県や千葉県の一部の地域では,復旧作業に追われています。何年か前から,このブログでも水に纏わることを書かせて頂いて来ました。水に関する災害は,これから増々巨大化していくだろうと云う感じがしています。日本と朝鮮半島は,10月から台風シーズンに入っていきますので十分な備えを怠らず,事前の準備と避難想定をして行くことが大事なように思います。

一日も早く,もとの日常生活に戻れるよう祈念します。

 

水の神からです。

夜空に輝く星々たちは 水に恋をし光り輝く

太古の人はそれを知り 水の輝き目印に

水の湧き出る大地を求め 種々の種植え鎮守の森に

水を穢さず 水を汚さず

人と出入りを固く禁じ 水に感謝し 水を奉る。

水が如何ほど尊いか 水は人の命の源

知る者少なき哀れなことよ

水は万物恵みを与え 競わず誇らず素直に流るる

下へ下へとその身を任せん

なれど必要あればすべてを祓い 必要あらばすべてを清めん

穢すなかれよ 汚すなかれ

水を穢せば その身も気枯れ

水を汚せば 空も荒れん

水の如くに素直に生きよ 水の如くに謙虚であれよ

逆らわず 競いもあわず 争わず

ただ己の身を低くして

多くの人に恵みを与えよ。


はやくおうちにかえりましょう。鬼が出て来ますよ。

2019年05月29日 05時50分00秒 | 怒りの心柱

 

こんにちは。今日は,怒りの心柱です。

先日,わたしの家に,とある新興宗教の信者さんが勧誘に来られました。よくあることですが,片手に教団が発行している新聞紙を持って私に教団の説明やら宗教の話しやらいろいろと話をしながら教団に入信しませんか?と云うことを言いたいのでしょう。女性二人でやって来ました。あとで,わたしも考えて見てみるとどうやら宗教の勧誘には戦略を以て活動されているようです。勿論,戦術ではなく戦略ですから目には見えません。その戦略とは何か?それは,企業のマーケティングを参考にしているのではないかと想像しています。いろいろと教団で策を考え,宗教勧誘が上手く出来そうな場所や人を見つけ出しターゲットにしているようです。

わたしもワザといろいろとその二人の女性に質問してみたりして見ましたが,全然お話にならないレベルです。聞いていて私の方が説法してやりたくなるくらいで,言葉に重みも説得力も説明力も無くすべてがダメです。そんな薄っぺらい言葉で,勧誘している自分自身が内容も理解せず,教団新聞に書いてあることすら解からない人がと言ってやりたいくらいでした。自分の言葉にもなっていない言葉で,書いてあることをそのまま文字図らで朗読されてもそもそも気持ちも何も伝わって来ません。そんな魂の宿らないような言葉ではなく,自分自身の言葉で宗教とはなにか?信仰とは何かを語ってもらいたかったのですがまったく期待外れでした。

一般人には理解できないような仏教用語で長々と何かを話している様子に思わず一度,永平寺にでも行って若い雲水の伽藍説明でも聴いてくれば良いですよと言ってやりたくらいでした。永平寺とは,禅の根本道場でもある福井県にある雲水さんたちの修行道場ですが御存知の方も多いと思います。その永平寺に参拝すると,伝承部と云うところから若い雲水さんが独り来て参拝者に七堂伽藍を案内して回ります。いろいろと施設の話を雲水さんがしてくれるのですが,実は,この雲水さんの話しは,雲水さんの大事な修行でもあるのです。つまり,自分の考えや思いを相手に伝えるためにはどういった言葉を選べば良いのかを修行しているのです。

相手に何かを伝える。その為に,私たちは言葉や文字を使います。普段の生活でも仕事でも誰でも同じです。その際に,自分だけのことしか考えずに何かを伝えたい相手と対話していたらどうなるのでしょうか?相手に解かる伝え方をすることは対人関係でもとても大切なことだと以前,永平寺で修行中の雲水さんを観ていてそう感じました。どうすれば永平寺に来寺して下さった参拝者の人に分かり易く,限られた時間の内に伝えることができるのか?これも禅の根本修行のひとつです。つまり,言霊信仰でもあります。

自分でも解かっていないお題目を何万遍唱えるよりも何倍もまだ行く価値があります。

口を開けば,やれ,安倍政権がどうした,お釈迦さまがどうした,日蓮さんがどうした,教団に入信しない人は地獄へ落ちるだの独り寂しく暮らしている高齢者の人にも同じように勧誘していると想像しただけで,心の鬼が太鼓を叩きはじめ,舞を舞い出してきました。これ以上,話をしていると本当に鬼が出て来てしまうので「お題目も唱えません」「入信もしません」と言って帰って頂きました。あんな言葉に易々と新興宗教に入信してしまう人がいる事に,私はある意味とても危機感があります。ご注意ください。

日蓮さんを崇敬する新興宗教信者のみなさん。

日蓮さんは,伊勢神宮の外宮で宗教家になる決意を宣べました。

それが,3つの言葉です。今の教団に日蓮さんの魂は宿っていません。

愛する人がお家で待っています。はやくおうちにかえりましょう。喝!

  

毎日,クリック応援ありがとう御座います。

これからも,世界への発信ボタン3つクリック応援宜しくお願いします。 

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


ポンコツ僧侶との闘い始まる? 再掲載

2019年04月19日 05時25分54秒 | 怒りの心柱

以下の記事は,過去記事です。

こんにちは。今日は,怒りの心柱に沿って書かせて戴きます。

最近,寺院と檀家さんとのトラブル「争い」が多くなって来ているのか何なのかよく解かりませんが,昨日もある寺院と関係する仕事先の社長さんから相談を受けました。どうやら,そこの住職さんが檀家さんに対して不当に金銭を要求したり,恐喝まがいな行為を繰り返していて,檀家さんが離檀したいと云う相談が急増しているのでどうにかしたいと云う内容でした。又,お寺のお金を交際相手に使いまくり,貢ぐお金がなくなると,霊的なことで不安を煽り檀家さんや信徒さんへ高額で札を売っていると云うのです。

その社長さんのもとに,あるご高齢の檀家さんが泣きながら相談に来たとのことでした。高齢者のおばあちゃんと云うことなのでどうして良いのか解からないようです。特に,高齢の方だと信仰心も厚く,心配や不安の対象が自分の家族や亡くなった先祖の御霊のことを言われると居ても立ってもいられないのだと思います。騙す方の輩もそう云った不安になることを言えばお金が出て来ることを知っていてやるのです。人間霊を宿して生まれておきながら,畜生霊まで成り下がる愚かで,自ら滅び行く哀れな姿であります。

そう云ったことで,昨日の夕方,おばあちゃん檀家さんから相談を受けた社長さんから「あさひちゃん。何か良い方法はない?」と電話で連絡がありました。今日の夕方,その社長さんとお会いすることになりましたが,おばあちゃん檀家さんも来られるかどうかまでは判りません。私もこれまで寺院の僧侶の非行問題と対峙して来たりもしましたし,非行問題と対決して来たことも何度もありましたので方法論としてはたくさんあるのです。つまり,選択肢としてはと云うことです。しかし,その目的が相手をただやっつけたいとか,打ちのめしたいとか,地に落としてやると云う恨みや,憎しみだけであれば,知恵をかすわけにはいかないのです。

ただ,自分の地位を利用して,自分よりも弱い者を徹底的に追い込んで行き,精神を狂わせる行為には毅然とした対応で臨まなければならないとも考えます。しかもこともあろうに,住職の身でありながら,霊的なことで相手の不安心を煽り金銭を要求すると云う卑怯な行為は,僧侶に非ずと云うべき悪行そのものであります。第六天魔王が降臨する前に改心出来れば良いなと思っています。

本来,御仏さまに仕えると云うことも忘れ,分を弁えず,本能のまま勝手好き放題の行為には,まさにポンコツ僧侶と云う名がピッタリと当て嵌まります。もうこうなると,何でもありの状況で宗教法人と云う民間企業の経営者には考えられない高待遇で守られていることの意味すらその住職は忘れているのです。自分たちは,神仏から選ばれた人間で,特別な人間なんだと思っているのでしょう。偶に,こう云ったことを本気で信じ込んで気の毒を巻き散らかしている輩がいますので巻き込まれないよう致しましょう。

僧侶の世俗化が仏法を滅ぼす。by 宮崎 奕保。

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。 

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


大岡越前守に訊け。大岡裁きは復活するのか?再掲載

2018年11月11日 07時55分07秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

今日は,とても厳しい社会の現実的なお話を書かせて戴きたいと思います。

これは,決して他人事ではなく,国家として取り組んで行かなくてはならない重要な課題でもあると想っています。決して自己責任論だけで終わらせて良い問題ではありません。明日は我が身であります。政治家や公務員には是非とも何度も読み返して頂きたいと思います。わたし達の国家には,やらなければならないことが山積しているのです。政治家ひとり一人には,その現実を直視して政務活動をして戴きたいです。もう待ったなしのところまで来ていると云うのに・・・。厚生労働省によると要介護(要支援)認定者数は620万人と推計されているのです。この現実を日本人は少子化の中で乗り越えて行かなければならないのであります。

こちらも見て下さい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E6%AE%BA%E4%BA%BA

本当に自己責任論と云う抽象的な言葉だけで良いのでしょうか?

下記記載の引用元は「デイリー新潮」2016年11月16日掲載分(全文)からです。

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/11161130/?all=1

地裁が泣いた介護殺人 10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末

2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。

一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが「休職」を理由に認められなかった。

母親の症状がさらに進み、止む無く退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。

母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。

長男は母親との心中を考えるようになる。

そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。

母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。

やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。

そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。

「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。

その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。

自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前2時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

 京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。

殺害時の2人のやりとりや「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。

この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として日本中に知られることになる。

親子の境遇や長男に同情する声や温情判決に賛同する声などが広がった。

それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

やがて判明した死因は自殺だった。

琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。地獄を味わった彼の言葉やその後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。

厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。なぜ悲劇は繰り返されるのか。どうすれば食い止めることができるのだろうか……。

引用記載「全文」は,以上です。

自己責任と云う言葉に分霊は宿りません。

古神道の言霊に自己責任と云う言葉はありません。

祝語である日本語でもありません。

  

毎日,クリック応援ありがとう御座います。

これからも,世界への発信ボタン3つクリック応援宜しくお願いします。 

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


刀折れ矢も尽きた・・・。本当の闘いはそこから。再掲載

2018年11月07日 11時25分00秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

今日の記事表題。きっと,そんなことを考えながら感じながら日々,生活されている人も多いのではないでしょうか。自分の周りを見渡せば自分よりもすべての人々が幸せそうに思ってしまうことをあると思います。確かに,一見すれば恵まれた環境の中で暮らしている人は結構多いようにも感じます。しかし,その一見すればと云う一側面だけで自分の周りの人の人生までを幸せだと判断してしまうことにも一度,自分の眼を向けることにも意義があるように感じます。つまり,自分自身の内面・内観をよく見つめると云うことであります。こんな偉そうに書いている私自身もつい自分の周囲の人との違いに羨ましさを感じることは確かにあります。

しかも,厳しい世の中ですから尚更です。

わたしの仕事柄,今の物質社会において地位が高いと言われている人がとても多いのです。たとえば名家であったり,資産家であったり,職業上であったりとだから特にそう感じてしまうのかも知れません。貧乏人の私が何でお金持ちの面倒を見なきゃいけないんだとふてくされて居たこともたくさんありました(笑)。あんなボンボン真面目に働け!なんて考えたことも正直のところありました。その額たるや凄まじい資産でしたからその様にやっかんでいたのだと思います。修行が足りずお恥ずかしい限りで御座います。

お金が無くてご飯が食べられない時の苦しさと虚しさ,悲しさは真に耐え難いことであります。このように餓死して行くんだと感じていたこともありました。地獄と云うものは,あの世にではなくて,この世にあるのだと確信したのです。今思うと,当時の様子が懐かしく思います。きっと,私の膨大な祖先の中にもご飯が食べたくても貧困や食糧難・病気などでご飯が満足に食べることが出来ずに亡くなった御霊もたくさん居た筈だと云うことが判りました。出来れば,体験をしないで判るようになりたいですね(笑)。

家系の祭祀継承者には,このような事があるようです。

餓死などで亡くなった御霊は,あの世でもお腹を空かしているのではないかと思うと何だか悔しさが自分の身体の中から湧き上がってくる感覚がありました。それならば,自分が祖霊の御霊を自分で供養することで,あの世の先祖にご飯を届けることができるのだと想い,子孫の私がやらねばと決意しました。しかし当時は,まだ若かったですから,お金がないのです。供養台が欲しくても高くて若い私には手が出ません。みかん箱にベニヤ板を買ってきて,その上で画用紙に自分の家系の名前を書いたものを位牌代わりにしていました。傍から見れば貧しい祭祀用具一式でしたが,不思議と供養することが楽しくて仕方がなかったのを憶えております。

本当に笑っちゃうようなことを平気でしていたのです。

でも,私自身は真剣そものもでした。いつか必ず豪華な位牌で供養するんだ!と意気込んでいましたから。それから位牌貯金の計画を立案して1年くらいで目標の金額が貯まったので仏具店さんに発注して豪華な位牌で祖霊祭祀が出来るようになったのです。仏具店さんに発注する時もいろいろと位牌の種類などを調べていたりしておりました。あとになって考えて見ると,祖霊祭祀と云うのは自分で供養すると決意した瞬間から祭祀が始まっているのだと想います。現在でもその位牌で祖霊の御霊を毎日供養しています。

私の場合は,そう云った一つひとつの実体験と積み重ねが祖霊祭祀の動機付けになって行ったんだろうと改めて振り返って観るとそのように感じています。なにか霊的に云々とか霊能者に何かを言われたとかそう云うことではなくて,自分から私が祖霊の御霊を供養する!と思い立ったのが始まりです。そして,気が付いたらいつの間にか自分で御経を作成して見たりしていました。動機付けは問題ではなく,実際に自分が供養するかどうかだと感じています。供養するから何か良いことがあるとか,願いが叶うとかではありません。祖霊の御霊を供養していたって厳しい社会の中で生きて行かなければなりませんし,現実は誰でも同じでありますから。

刀折れ矢も尽きた時だからこそ,本当の闘いが始まるのであります。

本当の自分は,心の中に坐します。

仮の姿を見て思い悩んではなりません。悪い状況は必ず好転します。

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

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童心は強烈なエネルギーを放ちます。再掲載

2018年08月24日 11時34分58秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

今日は,自分自身を奮い立たせるためにも怒りの心柱に降ろして書かせて戴きたいと思います。人の怒りと云ってもさまざまな感情があると思います。怒りと聞くと何だか近寄りがたく,破壊的で破滅論を想像してしまいがちです。確かにそのように考えることも出来ると思いますが,私的には,そう云ったことだけではいと考えています。同時に,そう云った考え方こそ,大人が勝手につくり上げた虚構なのではないかと感じているからです。虚構は虚構で良いのですが,私の考えている怒りとは,もっと純粋な言って見れば童心のような心だと考えているのです。たとえば,困難なことに直面しても自分の信念を貫き通す気持ちも怒りだと思います。

先の見えない社会に,不安なことが多い今の世の中で怒りを以て挑戦してくことの方が逆に難しいことのようにも感じています。心が不安定になってしまったり,心配事が増えてしまったり,経済的に困窮したりと自分の信念を貫き通すことが難しいと想うことも多いと感じるくらいではないでしょうか。古神道に伝わる言葉に一霊四魂と云ういってみれば魂の働きを現わした言葉があります。

前にも確か,記事にさせて戴いたと思いますが,この一霊四魂は「和魂:にぎみたま」「幸魂:さきみたま」「荒魂:あらみたま」「奇魂:くしみたま」と云う魂の働きを分類した考え方でありますが,その内,怒りと云うのは「荒魂」の働きであるのです。困難なことに果敢に挑戦したり,自分の信念を貫き通す強い意思,自分自ら率先して行動に移す勇気も全部この荒魂の働きであります。

こう云った強い想念をわたしは怒りと表現しているのです。しかし,真に残念なことに,大人になるにつけ荒魂の働きは徐々に機能しなくなり,弱ってしまうようです。きっと,理屈で考えてしまい心で感じることが少なくなったことが原因ではなしでしょうか。

特に,小さな子どもは荒魂の働きが盛んで,勢いもあります。小さな体で,よくあんなにエネルギーがあるなと感心してしまうことがあると思います。子どもと遊ぶとそれが良く解ります。大人の方が息切れをしてしまうほどです。幼い子どもが戦隊ヒーローに憧れたりするのも荒魂の働きです。あえて別な言い方をすれば,荒魂とは正義の味方の働きであると言っても良いかも知れません。

子ども達は,みな正義の味方が大好きですから。それは,理屈を知らず,人を疑うことを知らず,純粋に物事を見つめることが出来るからだと感じています。逆に,大人になるにつれ,何でも理屈で物事を判断し,性悪説で人と接し,自分にとって損か得かで善悪を決めて行く訳ですから荒魂のエネルギーが落ちて行くのは当然と言えば当然であります。理屈は誰にでも憶えることが出来ます。

しかし,理屈を憶えて使いこなせる大人がとても少ないのです。つまり,理屈を憶えると理屈に使われてしまう訳です。そのことは法律を学ぶと良く理解できます。理屈は使う為にあるのであって,理屈に使われ支配され出すと自分は頭が良いと本当に錯覚を起こしてしまうものなのです。自分の周りの人たちがみんなバカに見えてくるとようになってしまうと理屈に支配されている証明です。

子どもの頃に戻りたいという想念は,荒魂からのシグナルでもあるのです。

童心は強烈なエネルギーを放ちます。皆で,どんどん放って行きましょう。

国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。by 最澄。

  

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私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

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龍泉洞 そこは龍神が棲息する聖域です。 再掲載

2018年07月15日 06時47分41秒 | 怒りの心柱

上の画像は被災前の龍泉洞内の(御神水)です。ドラゴンブルーと呼ぶ人もいるようです。

こんにちは。

以下の記事は,2年前の2016年9月3日に掲載した過去記事です。

自然界の音霊「波動」を感じましょう。自然は教えてくれています。

こんにちは。今般の台風10号の影響で岩手県岩泉町に御鎮座されております龍神が棲息する「龍泉洞」が水没してしまいました。昨日の夕方,インターネットのニュースで知りましたが,とてもショックです。この龍泉洞は日本三大鍾乳洞ともされていて,東北地方では有数の名水とも知られています。私も龍泉洞の御神水は自宅の神様へ捧げておりましただけに何とも云えない気持ちであります。水は正に私たちの生活に欠かすことの出来ないものですし,縄文神道にとっては神様そのものなのであります。現代の神社神道においても水つまり,御神水は禊やお祓いの際には,神前に捧げられています。その龍泉洞が水没した意味はとても大きなことでもあり,日本でも水の有難さを思い知らされる前兆かもしれません。日本の御水は金の10倍の価値が本当はあります。

これをただの台風の災害や被害と受け止めては絶対にいけないと私は考えています。まさかと思いましたが,龍泉洞の公式ホームページを確認しても「復旧の見通しはたっていない」とされていました。今日からしばらく,御神前の水祀りは龍泉洞の御神水を捧げさせて頂きます。このニュースを拝見した時に,私の頭の中で先日記事にさせて頂いた龍神雲のことを思い出しました。こちらです「龍神と麒麟に歌姫。今日は独り言です。」もし宜しければ読んでみて下さい。あの時の龍神さんかもしれない。事前に避難したのかもしれません。仮にそうだと良いのですが,万が一,未だ龍泉洞の洞窟内にいるかもしれません。龍神は清らかな水に棲息しています。汚れた水では棲息できませんからちょっと心配です。怪我などしていなければ良いのですが・・・。

私にとって龍神さんはとても身近な存在で,過去にもたくさん出会いがありました。「氷川神社の龍神さん」「室生龍穴神社と室生寺の龍神さん」「富士山へ帰還した龍神雲」「とあるお寺の龍神池」などなど。以前には,私の自宅の神棚に御水を飲みに来た時もありました。今日もいつもの様に意味不明で変なことを申し上げておりますが,それで良いのです。この日本には超太古の昔から自然すべてに神が宿り,人間は自然に生かされ,自然と共に共存共栄して来た自然崇拝と云う信仰がありました。その子孫が私たちですから本当は判らないはずがないのであります。もし,判らなければ私たちの方に問題があると思っています。

よく,龍神伝説とか言われる方々がいますが,伝説でもなんでもありません。本当のことです。

私たちの遠い祖先である縄文人はもっとリアルに正確に観えていたに違いありません。現代に生きる私たちが感じない様にしているだけです。今朝は,太陽神に龍泉洞の龍神さんを助けて下さいとお願いしました。一之宮の神様へも報告に行き,池の畔に御鎮座されています弁財天「宗像大社」へ龍泉洞の御神水を奉納されて頂きました。ここの神池にも龍神さんが棲息していますから地下深くで龍泉洞と繋がっていたら良いなと思っています。おとぎ話のようかもしれませんが可能性はあります。

一日も早く,綺麗な御神水に戻られることを祈っております。私たち人間が,龍神や精霊の居場所さえも奪い,身勝手に自分たちの利益だけの為に自然を汚し,破壊する行為は直ちに止めなければなりません。今回の龍泉洞の出来事がそれを教えてくれているように思えます。あの東日本大震災で起きた巨大津波と古から伝わる神社の配置,先祖からの伝承話を興味深くインターネットの動画サイトで拝見させて頂きました。御見事としか云いようがない程の正確性でした。また台風がやって来ています。今度は,九州地方です。くれぐれも事前の備えをお忘れなく用心されて下さい。もう人が亡くなるニュースは勘弁願いたい。拝

  

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ポンコツ僧侶との闘い始まる?

2018年06月08日 08時08分08秒 | 怒りの心柱

こんにちは。今日は,怒りの心柱に沿って書かせて戴きます。

最近,寺院と檀家さんとのトラブル「争い」が多くなって来ているのか何なのかよく解かりませんが,昨日もある寺院と関係する仕事先の社長さんから相談を受けました。どうやら,そこの住職さんが檀家さんに対して不当に金銭を要求したり,恐喝まがいな行為を繰り返していて,檀家さんが離檀したいと云う相談が急増しているのでどうにかしたいと云う内容でした。又,お寺のお金を交際相手に使いまくり,貢ぐお金がなくなると,霊的なことで不安を煽り檀家さんや信徒さんへ高額で札を売っていると云うのです。

その社長さんのもとに,あるご高齢の檀家さんが泣きながら相談に来たとのことでした。高齢者のおばあちゃんと云うことなのでどうして良いのか解からないようです。特に,高齢の方だと信仰心も厚く,心配や不安の対象が自分の家族や亡くなった先祖の御霊のことを言われると居ても立ってもいられないのだと思います。騙す方の輩もそう云った不安になることを言えばお金が出て来ることを知っていてやるのです。人間霊を宿して生まれておきながら,畜生霊まで成り下がる愚かで,自ら滅び行く哀れな姿であります。

そう云ったことで,昨日の夕方,おばあちゃん檀家さんから相談を受けた社長さんから「あさひちゃん。何か良い方法はない?」と電話で連絡がありました。今日の夕方,その社長さんとお会いすることになりましたが,おばあちゃん檀家さんも来られるかどうかまでは判りません。私もこれまで寺院の僧侶の非行問題と対峙して来たりもしましたし,非行問題と対決して来たことも何度もありましたので方法論としてはたくさんあるのです。つまり,選択肢としてはと云うことです。しかし,その目的が相手をただやっつけたいとか,打ちのめしたいとか,地に落としてやると云う恨みや,憎しみだけであれば,知恵をかすわけにはいかないのです。

ただ,自分の地位を利用して,自分よりも弱い者を徹底的に追い込んで行き,精神を狂わせる行為には毅然とした対応で臨まなければならないとも考えます。しかもこともあろうに,住職の身でありながら,霊的なことで相手の不安心を煽り金銭を要求すると云う卑怯な行為は,僧侶に非ずと云うべき悪行そのものであります。第六天魔王が降臨する前に改心出来れば良いなと思っています。

本来,御仏さまに仕えると云うことも忘れ,分を弁えず,本能のまま勝手好き放題の行為には,まさにポンコツ僧侶と云う名がピッタリと当て嵌まります。もうこうなると,何でもありの状況で宗教法人と云う民間企業の経営者には考えられない高待遇で守られていることの意味すらその住職は忘れているのです。自分たちは,神仏から選ばれた人間で,特別な人間なんだと思っているのでしょう。偶に,こう云ったことを本気で信じ込んで気の毒を巻き散らかしている輩がいますので巻き込まれないよう致しましょう。

僧侶の世俗化が仏法を滅ぼす。by 宮崎 奕保。

 

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菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

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童心は強烈なエネルギーを放ちます。

2018年05月30日 08時08分08秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

今日は,自分自身を奮い立たせるためにも怒りの心柱に降ろして書かせて戴きたいと思います。人の怒りと云ってもさまざまな感情があると思います。怒りと聞くと何だか近寄りがたく,破壊的で破滅論を想像してしまいがちです。確かにそのように考えることも出来ると思いますが,私的には,そう云ったことだけではいと考えています。同時に,そう云った考え方こそ,大人が勝手につくり上げた虚構なのではないかと感じているからです。虚構は虚構で良いのですが,私の考えている怒りとは,もっと純粋な言って見れば童心のような心だと考えているのです。たとえば,困難なことに直面しても自分の信念を貫き通す気持ちも怒りだと思います。

先の見えない社会に,不安なことが多い今の世の中で怒りを以て挑戦してくことの方が逆に難しいことのようにも感じています。心が不安定になってしまったり,心配事が増えてしまったり,経済的に困窮したりと自分の信念を貫き通すことが難しいと想うことも多いと感じるくらいではないでしょうか。古神道に伝わる言葉に一霊四魂と云ういってみれば魂の働きを現わした言葉があります。

前にも確か,記事にさせて戴いたと思いますが,この一霊四魂は「和魂:にぎみたま」「幸魂:さきみたま」「荒魂:あらみたま」「奇魂:くしみたま」と云う魂の働きを分類した考え方でありますが,その内,怒りと云うのは「荒魂」の働きであるのです。困難なことに果敢に挑戦したり,自分の信念を貫き通す強い意思,自分自ら率先して行動に移す勇気も全部この荒魂の働きであります。

こう云った強い想念をわたしは怒りと表現しているのです。しかし,真に残念なことに,大人になるにつけ荒魂の働きは徐々に機能しなくなり,弱ってしまうようです。きっと,理屈で考えてしまい心で感じることが少なくなったことが原因ではなしでしょうか。

特に,小さな子どもは荒魂の働きが盛んで,勢いもあります。小さな体で,よくあんなにエネルギーがあるなと感心してしまうことがあると思います。子どもと遊ぶとそれが良く解ります。大人の方が息切れをしてしまうほどです。幼い子どもが戦隊ヒーローに憧れたりするのも荒魂の働きです。あえて別な言い方をすれば,荒魂とは正義の味方の働きであると言っても良いかも知れません。

子ども達は,みな正義の味方が大好きですから。それは,理屈を知らず,人を疑うことを知らず,純粋に物事を見つめることが出来るからだと感じています。逆に,大人になるにつれ,何でも理屈で物事を判断し,性悪説で人と接し,自分にとって損か得かで善悪を決めて行く訳ですから荒魂のエネルギーが落ちて行くのは当然と言えば当然であります。理屈は誰にでも憶えることが出来ます。

しかし,理屈を憶えて使いこなせる大人がとても少ないのです。つまり,理屈を憶えると理屈に使われてしまう訳です。そのことは法律を学ぶと良く理解できます。理屈は使う為にあるのであって,理屈に使われ支配され出すと自分は頭が良いと本当に錯覚を起こしてしまうものなのです。自分の周りの人たちがみんなバカに見えてくるとようになってしまうと理屈に支配されている証明です。

子どもの頃に戻りたいという想念は,荒魂からのシグナルでもあるのです。

童心は強烈なエネルギーを放ちます。皆で,どんどん放って行きましょう。

国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。by 最澄。

 

毎日,クリック応援ありがとう御座います。

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

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はやくおうちにかえりましょう。鬼が出て来ますよ。

2018年04月27日 08時10分55秒 | 怒りの心柱

 

こんにちは。今日は,怒りの心柱です。

先日,わたしの家に,とある新興宗教の信者さんが勧誘に来られました。よくあることですが,片手に教団が発行している新聞紙を持って私に教団の説明やら宗教の話しやらいろいろと話をしながら教団に入信しませんか?と云うことを言いたいのでしょう。女性二人でやって来ました。あとで,わたしも考えて見てみるとどうやら宗教の勧誘には戦略を以て活動されているようです。勿論,戦術ではなく戦略ですから目には見えません。その戦略とは何か?それは,企業のマーケティングを参考にしているのではないかと想像しています。いろいろと教団で策を考え,宗教勧誘が上手く出来そうな場所や人を見つけ出しターゲットにしているようです。

わたしもワザといろいろとその二人の女性に質問してみたりして見ましたが,全然お話にならないレベルです。聞いていて私の方が説法してやりたくなるくらいで,言葉に重みも説得力も説明力も無くすべてがダメです。そんな薄っぺらい言葉で,勧誘している自分自身が内容も理解せず,教団新聞に書いてあることすら解からない人がと言ってやりたいくらいでした。自分の言葉にもなっていない言葉で,書いてあることをそのまま文字図らで朗読されてもそもそも気持ちも何も伝わって来ません。そんな魂の宿らないような言葉ではなく,自分自身の言葉で宗教とはなにか?信仰とは何かを語ってもらいたかったのですがまったく期待外れでした。

一般人には理解できないような仏教用語で長々と何かを話している様子に思わず一度,永平寺にでも行って若い雲水の伽藍説明でも聴いてくれば良いですよと言ってやりたくらいでした。永平寺とは,禅の根本道場でもある福井県にある雲水さんたちの修行道場ですが御存知の方も多いと思います。その永平寺に参拝すると,伝承部と云うところから若い雲水さんが独り来て参拝者に七堂伽藍を案内して回ります。いろいろと施設の話を雲水さんがしてくれるのですが,実は,この雲水さんの話しは,雲水さんの大事な修行でもあるのです。つまり,自分の考えや思いを相手に伝えるためにはどういった言葉を選べば良いのかを修行しているのです。

相手に何かを伝える。その為に,私たちは言葉や文字を使います。普段の生活でも仕事でも誰でも同じです。その際に,自分だけのことしか考えずに何かを伝えたい相手と対話していたらどうなるのでしょうか?相手に解かる伝え方をすることは対人関係でもとても大切なことだと以前,永平寺で修行中の雲水さんを観ていてそう感じました。どうすれば永平寺に来寺して下さった参拝者の人に分かり易く,限られた時間の内に伝えることができるのか?これも禅の根本修行のひとつです。つまり,言霊信仰でもあります。

自分でも解かっていないお題目を何万遍唱えるよりも何倍もまだ行く価値があります。

口を開けば,やれ,安倍政権がどうした,お釈迦さまがどうした,日蓮さんがどうした,教団に入信しない人は地獄へ落ちるだの独り寂しく暮らしている高齢者の人にも同じように勧誘していると想像しただけで,心の鬼が太鼓を叩きはじめ,舞を舞い出してきました。これ以上,話をしていると本当に鬼が出て来てしまうので「お題目も唱えません」「入信もしません」と言って帰って頂きました。あんな言葉に易々と新興宗教に入信してしまう人がいる事に,私はある意味とても危機感があります。ご注意ください。

日蓮さんを崇敬する新興宗教信者のみなさん。

日蓮さんは,伊勢神宮の外宮で宗教家になる決意を宣べました。

それが,3つの言葉です。今の教団に日蓮さんの魂は宿っていません。

愛する人がお家で待っています。はやくおうちにかえりましょう。喝!

 

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私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


大岡越前守に訊け。大岡裁きは復活するのか?

2018年04月25日 05時07分15秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

今日は,とても厳しい社会の現実的なお話を書かせて戴きたいと思います。

これは,決して他人事ではなく,国家として取り組んで行かなくてはならない重要な課題でもあると想っています。決して自己責任論だけで終わらせて良い問題ではありません。明日は我が身であります。政治家や公務員には是非とも何度も読み返して頂きたいと思います。わたし達の国家には,やらなければならないことが山積しているのです。政治家ひとり一人には,その現実を直視して政務活動をして戴きたいです。もう待ったなしのところまで来ていると云うのに・・・。厚生労働省によると要介護(要支援)認定者数は620万人と推計されているのです。この現実を日本人は少子化の中で乗り越えて行かなければならないのであります。

こちらも見て下さい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E6%AE%BA%E4%BA%BA

本当に自己責任論と云う抽象的な言葉だけで良いのでしょうか?

下記記載の引用元は「デイリー新潮」2016年11月16日掲載分(全文)からです。

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/11161130/?all=1

地裁が泣いた介護殺人 10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末

2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。

一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが「休職」を理由に認められなかった。

母親の症状がさらに進み、止む無く退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。

母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。

長男は母親との心中を考えるようになる。

そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。

母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。

やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。

そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。

「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。

その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。

自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前2時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

 京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。

殺害時の2人のやりとりや「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。

この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として日本中に知られることになる。

親子の境遇や長男に同情する声や温情判決に賛同する声などが広がった。

それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

やがて判明した死因は自殺だった。

琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。地獄を味わった彼の言葉やその後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。

厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。なぜ悲劇は繰り返されるのか。どうすれば食い止めることができるのだろうか……。

引用記載「全文」は,以上です。

自己責任と云う言葉に分霊は宿りません。

古神道の言霊に自己責任と云う言葉はありません。

祝語である日本語でもありません。

 

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互いに支え,助け合い,足りないとこを補い続け,共に手を取り,手を握り,

互いの違いを認め合い,互いの違いを尊重し合う。

如何なることにも先ずは感謝を。

謙虚さ忘れずこうべを垂れて,自ら手を挙げ名乗り出る真の勇気と素直さと,

時には省み反省し,人への奉仕を忘れずに,歓びもちて結びとすれば,怒りの心も鎮められん。

心柱「こころのみはしら」祝詞 前段より一部抜粋。