こんにちは。裸足の観音様がいらっしゃったので,下駄を奉納させて頂きました。ここ最近,雨や曇りの日が続き,これから寒い冬がもうすぐ来ますから履いて下さると有難いと思います。こちらの観音様は聖観世音菩薩です。
一昨日のニュースで,某尼僧さんが,日弁連「日本弁護士連合会」が開催する講演で死刑制度廃止論に伴って「ばかどもと闘ってください」と発言されたことが物議を醸し出しているようです。その発言の元になったことは何かは解りませんが,被害者側からの抗議が相次ぎ,日弁連は謝罪の意思を表明したようです。元々,日弁連は死刑廃止を提言する団体ですが,死刑制度は刑法第199条に規定された法律(実体法)です。したがいまして,日弁連は刑法第199条の廃止を要求していることになります。日弁連の提言は別として,なぜ,日弁連は尼僧である宗教家へ意見を求めたのか?
さらに,その尼僧は何故,日弁連の要求に応じたのか?そちらの方が,私としては気になるところでもあります。なぜならば,今の法律と宗教及び法律家と宗教家は対極に立つ立場であることが多いからです。交り合うことは,ほとんどありえないのです。私個人的には,交り合える接点を模索すると憲法か法哲学の分野ぐらいではないかと思います。法律家の役割とは理屈を組み立て理論付けを行い,事実と論理と言葉で相手を説得するものです。つまり,正義であるかどうかを実現することでは,残念ながらありません。
司法試験や法律系の資格試験の勉強をされるとよく解ると思いますが,道徳観を以て勉強すると内容が理解できません。まず問題の意味も解りませんし,なんで?こうなるのか?解らなくなると思います。それが随所に出てくるのが論文試験ではないでしょうか。理屈を組み立てることを起案と言いますが,道徳的な観念では理屈を組み立てることが出来ないのです。なぜならば,規範の元になるのは道徳ではなくて,法律だからです。それ故に,裁判などの訴訟は正義が勝つと云うことには結びつかないのであります。
たとえば,民法の勉強をすると最初の方に「善意」「悪意」という言葉が登場します。私もそうでしたが,これを道徳的に考えると「良い」「悪い」と云う解釈になります。これは普通の感覚だと思います。しかし,法律と云う学問で考えると内容も意味も全く違います。「善意」とは,ある事実を知らないこと。「悪意」とは,ある事実を知っていること。そのように考えるのです。
しかしながら,宗教家の役割と云うものは,人が人として道徳に沿って正しく生きて行くための教えを施すことを目的としています。要は,法律家は,法や法律と云う一部の人が多くの人間を支配する目的で作り上げた規範に付き従い,宗教家「僧侶」は,お釈迦様の唱えた仏法に付き随うことを目的としています。紛争や訴訟と云う「修羅道」の世界に身を置く弁護士と道徳や仏法と云う「仏道」の世界に身を置くもの同士が話をしても交り合うことは出来ないと考えています。仏様は良い人も悪い人もすべての人を救い,正しい道に導くと云われていますから,そもそも相手と闘うなどと言う発想や敵視,敵意を抱くことはありません。
確か,真言宗の豊山派と云う団体で,大変興味深い議論がされていたのを想い出しました。それは,もし,僧侶が裁判員裁判に選ばれた場合,選ばれた僧侶は被告人に対し,死刑と云う極刑を言い渡すことができるかというものでした。これは,私にとっても大変勉強になりました。普段は道徳を説く僧侶が,実際に裁判員として死刑を言い渡せるのかどうかとても興味がありましたし,この様な議論や勉強会が宗教家の間で広がると良いのではないかと思います。私は,この世で償える罪ばかりではないと考えています。
ですが,弁護士は常に相手に勝つことを前提にしていますから,敵視,敵意のような戦意がなければ仕事になりません。裁判は勝ち負けがハッキリとする場であります。ただ,民法などに見る私的自治や信義誠実の原則などは道徳を基礎基本としていますし,刑法の前提となっているのも宗教が元でした。以前にもブログで少し書かせて頂きましたが,科学も経済も医学も法律も元々は信仰の対象として存在していたものです。それを,人間が分離分割させて行った所に根本の深い問題点があり,その問題点が現在の様々な不幸をもたらしていると私は感じています。そして,その不幸は必ず弱い者に集中的に起こるものなのです。集中的に必ずです。
勉強が大嫌いの私ですが,憲法を深く勉強すると神道を学んでいる感覚がありました。憲法に見る天賦人権「自然権思想」はその最たるものです。憲法の基礎基本は神道にあるものだと感じるようになり,民法や刑法などの実体法も民事訴訟や刑事訴訟などの手続法も深く研究すればするほど神道や信仰に辿り着きました。つまり,入口はすべて信仰が元であることを知り,人間は古神道に始まり,古神道に戻るのだと感じています。宗教でも科学も経済も医学もどの学問でも行き着く先は生命だと私は思っています。
仏教者である宗教家の役割は,闘わせることではありませんし,葬儀をすることでもありません。元々,仏教に葬儀を司る目的もありません。厳しい修業をすることでもありません。本来は,人が人として生きるための道徳を説くことが目的であったはずです。しかしながら,時代と共にその姿は葬儀を司る仏教へと変わってしまいました。立派な寺院を建設するために,檀信徒から多額な資金を募ることはもう出来ません。今一度,多くの人に道徳を説く真の仏教者である宗教家が登場することを夢見ています。
いつも神様は「我こそはと想う者,自ら手を挙げ名乗り出よ」と申します。拝
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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。
私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。
又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。
それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。
そしてまた日本人の本当の性質を勇気を以て再び伝え広めて行きたいです。
そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。
観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝